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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 三題噺 / Sympathy for the Sky
Last-modified: 2007-06-24 (日) 19:57:49 (6122d)
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Sympathy for the Sky ―― 


 僕がお金を下ろして、公園に戻ってくると、彼女は空になった酒瓶を、柳みたいに揺れながら煽っていた。薄汚れたベンチに寝転がり、僕が戻ってきたことに気がつくと、呂律の回らない調子で詩をそらんじた。

たとえ死しても、地からそなたの声を聞く。
 この心が土と化しても、喜びに満ちるであろう。

 僕はため息をつく。
「一応聞くけど、そのお酒どうしたの。まさか買ったんじゃないよね」
 彼女の財布は真冬だったはずだ。
「もらったのよ」
「誰にさ」
「下心をひけらかしたホームレス」
 投げられた酒瓶が、ゆるいアーチを描いて草むらの陰に落ちると、何か柔らかいものに当たる音がした。そちらの方を覗き込むと、身なりの汚い男が倒れていた。口からよだれをたらしていて、僕は鼻で息をしないようにして彼女に聞いた。
「もしかして、死んでるの」
「生きてるんじゃない。気持悪いから確かめてないけど」
「どうして、こんなことになったのさ」
 街灯の光だけでも、彼女の顔が赤くなっていることがわかる。極端に酒が弱いくせに、それでも酒豪を気取って酔っ払う、かなり性質の悪いタイプ。彼女がそうだ。
「さあね。勝手に酒を勧めてきて、わたしに触ってきたのよ」
「まさか、変なことされたの」
「心配は無用よ。財布は守ったわ」
 そうじゃなくて、貞操のほうを聞いてるんですけど、と思ったけれど口には出さないでおいた。金銭の心配をするということは、何もなかったのだろう。着衣に乱れはないように見えるし。
「瞬殺してやったわよ。こんな、いたいけな女の子に強盗を働くなんて、許せないわよね、まったく。もちろん、わたしって正義感の前には、どんな悪もひれ伏すじゃない」
「知らないよ。少なくとも、僕は君の正義を見たことがない」
「あら、正義って目に見えないのよ。悪は、そうね、そこでうつ伏せに倒れている男かな」
「同情はしないけど憐れに思うよ。襲う相手を間違えたようだ」
「あら、彼はその点では正しい行いをしたわ。だってこれ以上、罪を重ねることができなくなったんですから」
 やっぱり君の言うとおりだね、と僕はうなずいて、彼女の横に腰を下ろした。
「まだ、掛けなさいって台詞を言ってないわよ」
「君が、光栄ですわって言うのを抜かしたんじゃないか」
 そうだったかしら、と彼女は笑う。
「それで、あなたはわたしをどこに案内してくれるのかしら」
「路上の休日じゃ、コンビニぐらいしか行くところがないよ」
「夢のない話ね」
「うん、そうだね。夢のない話だ」
 星の輝きのない空を見上げた。雲ひとつないというのに、月さえも朧の夜。都会のオアシスとして作られたはず小さな公園。しかし、こんな周囲を馬鹿でかい建物で囲まれた場所で、誰の心を安らげることができるというのだろう。いまも、いくつかのビルの窓から光が漏れている。ここが現実と戦う場所だということを、誇示するみたいに。
「そして、あれも悪を孕んでる」
 彼女の綺麗に伸びた右腕が、高層ビルの側面を指す。
「僕には、そう見えないけど」
「だってオリオンを騙っているもの」
 どういうこと、と訝しがりながら彼女の指の先に目をやる。
 そして。
 いくつかの明かりの灯った窓の位置関係に気づく。
「本当だ。オリオン座になってる」
 こんな偶然があるんだな。
「知ってたの、オリオン座の形」
「有名だからね、教科書にも載ってるし」
 そう、と彼女は体温を整えるように、ゆっくりと息を吐く。耳朶が溶けるような甘いブランデーの香がした。飲めないくせに、と僕は内心で苦笑する。
「代用品のつもりかしら、あんな端な照明で」
「贖罪してるのかも。まあ電気を使ってるわけだから意味無いけどさ」
「そうね、本末転倒よね。文句言ってくるわ」
 千鳥足の彼女が、立ち上がってビルに向かって歩き出す。僕はしばらくその光景を眺めていて、その行動の突然さに気がついた。
「待ってよ」
 鼻息の荒い酔っ払いを、後ろから羽交い絞めにする。
「ちょっと、離しなさいよ。痛いじゃない」
「だめだって。このまま放って置いたら、君はあのビルに殴りこむんだろ」
「失礼ね。悪を斬り捨てに行くだけよ、空の役目を奪ったあいつらを」
 じたばたと暴れる猛獣のような彼女は、しかし僕には苦しんでいるように見えてしまった。
「じゃあまずは涙を拭いてからにしようよ」
 声が反響する。
 僕の腕の中で、力がしぼんでいくのを感じる。瞳まで赤くした彼女が振り返る。
 まるで飼っていたペットの死を理解できない子供のように、理不尽さを悲しみながら。
「泣いてるの、わたし」
「うん、とても綺麗に涙を流してる」
「悲しくもないのに?」
「たぶん、役目を奪われた空の代わりじゃないのかな」
「わたしまで。酷いね」
 それにはうなずかずに、僕は彼女をベンチのところまで引き戻した。
 まだ冷たさの残る風が、沸いた思いを撫でていく。
「泣き上戸なんだからさ、酒は控えようよ」
唇を噛んで涙を堪えている彼女の、なめらかな髪を手で梳かす。
「お金を下ろしてきたから、これでどこでも逃げられるよ。この国限定だけどね」
 どこか、逃げたいところはあるかい、と僕は彼女に訊ねた。
 胸の辺りから、すこし濡れた答えが返ってきた。
「そうね、逃げたいところはないけれど、行ってみたいところならあるわ」
「どこなの」
「こないだ雑誌で見たとこ。完食できたらタダになる」
「ああ、あの巨大なパフェを出してくる喫茶店か。あれに挑戦するつもり」
「そう。高級料理を食べましょう、死ぬ前に」
「悪くないと思うけど、失敗してもそんなに値段は張らなかった気がする。普通のパフェに比べたら高いけどさ」
「知らなかったのね。この世に、タダより高いものはないのよ」
 あの世は分からないけどね、無理に笑った彼女が、僕を見上げていた。
「そうでした」
 彼女の表情につられて、僕の頬もゆるむ。
 月の位置から時刻をはかる。たぶん、短針と長針が真上を指しているぐらいだろう。
「終電には乗れそうにないな。夜行バスという手もあるけど、いまからチケット取れるかな」
「場所は覚えてるの」
「大まかにだけど、ね。本屋に行けば、まだガイドブックが残ってると思う」
「じゃあ大丈夫ね」
 勢いよく立ち上がった彼女が、走り出す。今度はなんだ、と思っているうちに、公園の入り口に止められていた自転車にまたがって戻ってきた。
 古い感じのする黒の自転車だった。かごが錆びており、荷台の部分には、長く洗われていないであろう座布団が巻きつけられていた。
「これ、どうしたのさ」
「戦利品。モンスターを倒した、ね」
 彼女の視線が草むらのほうに向けられる。なるほど。でも、
「盗むのは、正義にもとるんじゃないの」
「あら、モンスターの持っているお金は奪ってもいいのよ。王様がそう決めたんだから」
「どこの王様だよ」
「あなたの目の前よ。わたしがルールで、ルールは王様とイコールなのよ」
 そうだったかな、と僕は苦笑を浮かべる。普段のペースになった彼女に安堵を得ながら。

 堅いサドルに尻を乗せて、背中の彼女に聞く。
「そっちの座り心地はどう」
「サイアク」
「こっちもだ」
僕はブレーキが効くのを確かめてから、ペダルを踏み込んだ。速度を上げることで、だんだんと二人乗りの不安定さがなくなる。
 僕に彼女がしがみ付いている。だから、彼女の震えが伝わってくる。過ぎていくビルというビルが、星を騙っている世界に怯えているんだろう。
 ペダルをこぐ足に力を入れる。景色が滲んでしまうようなスピードまで。
 魂さえも追いつけないくらいの、スピードまで。

(了)



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