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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 三題噺 / Heaven
Last-modified: 2007-06-24 (日) 20:15:55 (6143d)
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Heaven ―― 


 労働ってやつは、決まってみんなが寝静まった夜にやってくる。
布団ごと彼を持ち上げて、そしてそっくり同じな、でもどこか違う世界へと運んでいく。いつもどおり朝日とともに目を覚まし、身支度を整えているあいだも、彼は、ここが昨日となんら変わりない場所だと信じ込んでいて、玄関で靴を履き、どこに向かうとも考えていないというのに外に出て、外に出たと思えば、そこは見慣れた景色ではなく、ただ白い空間だった。振り返ってみても、あったはずの家は消えうせて、それどころか、そのことを強く疑問に思おうとする心、突如としてわけのわからない場所に放り出された恐怖を感じるということも忘れさせられたかのように、彼はひたすら、この空間を埋め尽くす小さな、本当に小さな文字を探すことを強いられた。
「どうなってるんだ」
 傍らで、床に接吻せんばかりに顔を近づけていた初老の男にたずねた。
「わたしにもわからない。ただ、『λ』を探せということだけが、それだけがわたしを、わたしとして存在させていることしか把握できていない」
 閉鎖空間の床、壁、天井には、数え切れない『人』という字が書かれていた。米粒くらいの大きさのその文字のどこかに、『λ(ラムダ)』は隠れているらしい。
 そう教えられた。何に教えられたのか。
「わからない」
 彼は頭を抱えてへたりこんだけれど、視線だけは、床の文字にそそがれ、自分の意志とは無関係に何かを必死になって探していた。強引にまぶたを下ろそうとすると、その度にこめかみに激痛が走り、手足が痙攣しだし、それはだんだんとおさまることなく、逆に大きくなり、俺はその苦しみに耐えることができず、目を開いて、また『λ』を求めて、まるで蛆虫のように這いずり回らなければならなかった。
「あんたは、いつからこの場所にいるんだ?」
「さて、もう忘れてしまったよ。もう何もかも忘れてしまった」
「何もかも?」
「ああ、ありとあらゆるものだ。父の名前も、母の名前も。自分の名前すら、もう思い出せないくらいだ」
「絶望だ」
「いつか忘却される。瑣末なことだ」
「瑣末なことなんかじゃない!」と彼はいきり立った。「俺にとっては、これからが大事な時期だったんだ。これから、何もかもうまく行くはずだったんだ。なぜなら、俺は無敵になるための呪文を手に入れたんだからな」
「それすら、とるにたらないことだと、わたしは思うがね」
「ダメなんだ、俺には、あれがなくちゃいけないんだ。俺にはあれしかないんだ。それなのに、ここにはあれがない。あれがなかったら、俺はどうやって生きる意味を見つければいいんだ。あれがなかったら、俺は、あれ、え、あれってなんだったんだ。おい、あれって」
「音楽じゃないのか。わたしが、一メートル進む前に話していたじゃないか」
「そうだ、音楽だ。ギターだ」
「大切なことのはずなのに、お前はすでにそのことを忘れていた。そうやって、わたしたちは生きていくんだよ。たぶん、成長していくんだ、そうやって自分の命よりも尊重すべきだったことを、失くしてそして、新しいことを得ていくんだよ」
「こんなところで、どうやって新しいものが見えてくるっていうんだ!こんな、ただ『λ』を探すだけの日々から、何が生まれるって言うんだ、こんな、朝日も夕焼けも、黄昏も星空も雨すら降らない世界で!」
「わたしはね、こう思うんだ。君よりも長くここでこんな生活をしているからね、なんとなく気づいて、そしてそんな感情をなんて呼んだらいいかということだけは、わたしは思い出したんだ、たったいま思い出した」
「それは、」
「愛だよ。ここに散らばる無限とも錯覚しかねない量の『人』という字には、どこか、違いがあるんだ。例えば、ここにある『人』は、すこし他のものよりも最後のはね方が違うし、どこか偉そうに胸を張っているように見える。そして、その隣の『人』は、頭を低くし、へつらうように、この偉そうな『人』の後ろをついて歩いているような気がする」
「どれも同じだ」
「最初は、わたしもそう思った。でも、違うんだ、どれもが、それぞれの特徴を備えていて、そしてわたしのことには気がつかずに過ごしている。誰もわたしのことを考えているものはいないが、それでも、わたしにはこれらがとても愛らしく映るようになったんだよ、ほら、いま、話しかけてきた。これらが話しかけてくれるまで、わたしの愛がこれらに届いたのだろうか」
 男の顔には、恍惚とも喪失ともとれる表情が浮かび上がり、半開きの口からは、渇いた笑いがもれていた。そんな男の言動に気おされて、彼がすこし男から身を引いたときだった。
「わかった!『λ』がどうして見つけられないのか、いま理解した!」歓喜の声を上げて、男は両手を高く掲げた。「そうだ、どうして気がつかなかったんだ、こんなにもすぐそばで、わたしたちは『λ』の子供として育てられていたというのに。どうして、この奇跡がわたしの胸を支配することがなかったのだろう。いままでのわたしは悪魔だった。そして、この瞬間からわたしは神に生まれ変わるのだ、生まれ変わったのだ。それも『λ』の子供として。ここが、まさかここがそんな場所だったなんて、露ほども脳裏に浮かんでこなかったというのに、どうしてだろう、そうか、わたしは愛を認めたからだ。きっとそうだ。一人ではない、それが重要なことなのだ。誰かがいて初めて、わたしは自分の声という波を感じるということを学ぶのだ。一人では、これは無理なことなのだ!さあ、翼を与えてください!」
 完全に気が触れていた。狂っていた。彼は、自分の歯が、がちがちとなる音に苛立ちながら、この場所から逃げたい一心で瞳を閉じ、闇の中に落ちていこうとした。しかし、またしても強烈に襲ってくる震えに抗うことができずに、白い空間へと連れ戻されたときには、もうすでに男の姿は消えて、そして彼が『λ』を本当に見つけていたという事実だけが、唐突に彼のなかに流れ込んできた。
どうすればいいんだ。
 と彼は声に出したのだけれど、それはどこにも反射することなく、ただなくなった。
 そして、彼はさっきまでのことが、まるでとるにたらない悪夢でたったかのように、嫌な汗と一緒に袖口でぬぐい、また『λ』を探し始めた。

(了)



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