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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 三題噺 / 想いに
Last-modified: 2007-06-24 (日) 19:40:33 (6148d)
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想いに ―― 


「こいつの過去を知っているか?」
 指の上を金貨が転がっていく。貴婦人の横顔が彫られた、この国では一番価値のある貨幣だ。
これで、人の命が買えるほどに。
「含む意味は、罪滅ぼしだ」
 僕は黙って男の言葉に耳を傾けていた。夜の公園には街灯が一つ、月と対抗するように輝いている。
「別に、特定のモデルがいたわけじゃない。ただ、未亡人という象徴を表している」
「女王陛下じゃないの」
「建前では、そうなっているが」
 そこで男は白い歯を見せて笑った。闇夜に、それは不気味に映る。
「未亡人とは、未だに亡くならない人と書く。どういうことか解るか」
「解らない」
 僕は首を横に振る。男の問い掛けにも、そして突きつけられる現実にも。そんなことをしても、何も変わらないというのに。
「一昔前まで、妻とは夫と共に歩んでいくことを指していた。生きている間も、死んでからも、だ。いまは悲しみの美談に使われている未亡人という言葉は、夫が先に死んだにも関わらず、未だ生きている夫人を揶揄した罵声だった」
「未だ、生きている」
「宗教観念が強く残っていた時代、未亡人となった者は、夫の後を追って自害するか、それを拒んだものは磔にされて、夫を裏切った悪魔として火刑に処された。そして、送られる餞の言葉は、well done。随分と焦げ臭い皮肉だと思わないか」
「ひどいね」
「それが徳とされていた。だから、多くの女性が、戦死し浮かばれない魂となった夫の慰み者として生贄にされた。それこそ、魔女と疑われた者と、同じ数ほどに」
「それを忘れないために、このコインが作られたの。殺されていった貴夫人たちを、弔うために」
「神の怒りを買わないように、な」
「そうなんだ」
 呟きは、冷たい空気に交じり合わない。温もりを失った紅茶のカップの底に、砂糖が残ってしまうように。
「俺が扱っている商品は一つだけだ」
「分かってるよ」
 男は羽織ったベルベットのロングコートから、すこし横に平べったい六面ダイスのようなものを取り出した。どこでも手に入れられるポピュラーなチョコレートだ。
からかっているのか、と眉間に皺を寄せた僕は、しかし包装紙に描かれた赤い花の絵に、寄せた眉をひねる。見たことのない柄だ。
「味は、アネモネ」
 立ち上がった男は、ちらりとだけ僕を振り返って言った。
「痛みも苦しみも後悔もなく、まるで眠るように死ぬことができるよう調整してある。が、それはあくまでも正者からの儚い願いでしかない。冥界のことを知ることは絶対にできないからな。いいか、その小さなチョコレートには、重さのない死神の魂が宿っている。そのことを忘れるな。本当に死ぬべきか否か、殺すべきか否かについて悩め。その裁決には異議も、上告も認められないのだから」
「答えははじめから在るんだ。僕は助けなくてはいけないんだ、悠久に感じられる悲しみの連鎖から、彼女を」
「そうか」
 去っていく男の背中が、曲がり角に消えていく。一人になった僕は、ただただ薄くなっていく星海の空を眺めた。

(了)



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