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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.46 / アネクメーネ
Last-modified: 2020-12-21 (月) 21:29:52 (1215d)
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活動/霧雨

アネクメーネ

福祉社

 森に入った直後から視線を感じている。心地よくはないが、仕方のないことだと私は思う。森は幽霊の住処だ。彼らの領域を侵犯する生者(よそもの)を放ってはおくまい。
 彼らに無害を表明するため、私は腕に抱えた姉の体をより一層高く掲げる。視線が一斉に姉にそそがれ、一点に集まっては離れていく感覚がよどみなく繰り返される。まるで流水に洗われているみたいだ。冷え切った空洞の体を見て彼らが興味をなくすのは、命の存在を肯定しているからにすぎない。そうした価値観は私たちとは相入れない。
 歩くうち、土のぬかるみに足を取られた。ずるりと大きく滑りそうになるのを、蔦を掴んで持ちこたえる。ぬかるみだと思ったそれは何匹もの腐った蛇の死骸だった。私はひどく頭にきて大きく蹴り飛ばす。腐った肉片が前方に散らばり、白い骨が露出する。単なる物体の変形。誰も苦しまない。
 とっさに投げ捨てたせいで、姉の体が腐肉で汚れてしまった。気にする必要はないはずで、それでも気にせずにはいられない。水の湧いている場所を見つけたらきれいにしてあげよう、と心の裡で思う。
 森の中に分け入るたびに呼吸が苦しくなる。巨大な生物の胎内にいるみたいに、あらゆる方向から圧迫されている。意識的に深く呼吸をしてみる。肺胞のひとつひとつまで私たちは森になっていく。

            ***

 午後の教室で、日差しは揺りかごだった。
「ねえ」
 姉は私と同級生で、だけど双子ではない。十一ヶ月だけ年上の彼女は、まるきり同じカリキュラムを受けて育ったはずなのに、なぜだか私の知らないことばかり知っていた。私が知ろうとしないこと、知らなくていいと思っていること。私に言わせれば、彼女の知識構造にはそういう無駄が多い。
「なに」
「自殺は悪いことだと思う?」
「わ、唐突」
 姉の問いかけは、彼女の考えを再確認すること以外の意味を持たない。だから、私はいつも真面目に答えてあげない。姉が姉であるための武装を否定しない。
「悪くはないんじゃない」
「どうして?」
 親や友達が悲しむから。未来の可能性が潰えるから。生まれ変われなくなるから。
 本当はもっとわかりやすい記号的な理由。
「自殺すれば可哀想だと思ってもらえるから」
「たしかに悪くないね」
 閉じた唇が弓の形に曲がり、鼻腔がわずかに膨らんだ。姉の笑い声は大変小さいので、教室中の大勢の雑音に押し潰されて、私にはちっとも届かない。
 教室の窓からは給水塔が見える。一度あそこまで登ったことがある。毒を混ぜる勇気はなかったし、そもそも手に入らなかったから、かわりに犬の糞を投げ込もうと思った。私以外の全員がちょっとずつ汚くなればいいと思った。早朝、誰にも見られないように屋上に忍び込んで、どきどきしながら給水塔の蓋を開けたら、中はからっぽで、もう何年も使われていないようだった。
「体なんてものがあるから、命があるように見えるんだ」
 授業が始まり、チョークを黒板に打ち付ける音がする。
 姉のことを自分の贋作だと思ったことはあまりない。同様に、自分を姉の贋作だと思ったこともない。けれどいつか、どちらかは贋作になる。物事には絶対的に正しい基準があって、同じ人間はひとりもいないから、最終的には重複のないユニークな順位が割り振られて、低い方の負け。
 定量的な評価は怖い。だから定性的で記号的な評価によって覆そうとする。終わり方でタグをつけて、その付加価値でレイズしようとする。そんなもの、ほんとうは自慰ですらないのに。
『ねえ。』
 板書を写すタイミングで、姉はノートの隅にそう走り書きして私に筆談を持ちかける。私は教科書を全て失くしてしまったので、いつも姉に見せてもらっている。
 私の目の前で、ノートに長い矢印が引かれる。
『これが時間の流れだとするでしょ、』
『うん。』
 矢印の下に長方形が描かれる。
『これが四次元上の私たちなんだよ!』

            ***

 姉は大学に進むと同時に余命を告げられた。姉の体の一部が取り除かれるたびに少しだけ寿命が延びたが、それもすぐに呆気なく使い果たしてしまった。
 一人では寝返りも打てないほど削ぎ落とされた姉は、このままずっと夢を見ていたい、と言った。
「夢って記憶なんだよ。おかしいよね、経験は固体なのに記憶は流体なんだ。死んだあとはどうなるか知ってる? ずっと夢を見続けるの。人生っていうのは、ヒトの一生っていうのは、死んだあとに見続ける夢の材料を集めることなんだ」
 病室のサイドテーブルの上を姉の指先がゆらゆらと探るのを見て、私はそこにあったCDケースを姉に渡してやる。視覚も聴覚も、そういう便利なものは全部、もう姉には備わっていない。
「流れていない音楽は死んでいると思う?」
 姉の抱いていた哲学はきっと死にゆく彼女を幸福にできたはずだ。

            ***

 もう一歩も歩けないことを悟り、私は立ち尽くす。森の中に沈み続けて、ようやく底に辿り着いたようだ。このままここに沈着し、根が生えるまで待つのもいいと思える。
 やわらかい土の下にある硬い岩盤に根を下ろし、苔をまとって、森の一部になった私と姉を想像してみる。私たちの表面を虫が這い、染み込んだ雨粒が体組織をほどいていく。私たちはもう終わっていて、ゆえに保たれている。命と思考は等価だ。そして思考とは変化であり、変化とは時間微分にすぎないから、三次元上の私たちだけが持つことのできる特権的な錯覚だ。
 姉に伝染(うつ)された哲学は、姉を救った代償として私に呪いをかけた。死後、私は悪夢を見続けるだろう。その時点で私は姉の贋作になった。もはや何をしようと無価値で、だったらせめて自己満足に浸りたい。私の行為は誰の印象も操作しない。私はただ私を記号化することで私を調律したい。
 四次元上に印刷された私のかたちは見るに耐えずとも、きっと姉より少しだけ、きれいな断面をしている。