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京都工芸繊維大学 文藝部

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Last-modified: 2020-03-16 (月) 10:41:50 (16d)
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活動/霧雨

考案者は拾われた

鮎川つくる


 毎朝六時に、中央で印刷された新聞が飛行船からばら撒かれる。投下場所に指定されている空き地には、早朝だというのにあちこちからわらわら人が集まってくる。黒色の頭部、白色に煤の混じった胸部に腹部、全体として中間色である灰色の波が出来上がる。ばら撒かれる様子は壮観だ。多量に落下傘に取り付けられた新聞は大空を埋め尽くす。巨大な生き物のようだ。はらはら落ちてくる。ほら、皆んなんな雨より雪の方が好きじゃないか……。
 大体は新聞など読まれずにすぐ捨てられてしまう。そういう新聞が道の脇に溢れるのだ。落ち葉のようにこびり付き、分解を待つ新聞、そういやこいつも灰の色をしている。ぼくはこいつを拾う。撫でられ握られ、くたくたになった紙を殺さないように抱きかかえながら持ち帰った。
 太陽が既に東の空約三十度から光線を発射している。夜が明けても街並みは変わらない。だが闇の中ではうまく隠れていた、家々の隙間に設置された旗は不気味な森を作り出す。上を見ないようにしても、その影が目を通じて頭の中に流れ込む。目を閉じても、脳のどこかが見えているように像を生み出す日常、もう見飽きてしまっている。
 あらかじめ用意しておいた、色ばかり濃い何か苦い飲み物を机の隅に押して、ぼくは丁寧に新聞を開けた。鼻にくるインクの匂い、文字で溢れる紙面、なんの脈絡もなく印象ばかり刻まれる気持ちの悪い広告、そんなもの読んでいたら頭が壊れてしまうから読まずに進む。第十七面、最新の俗世間の話題、《旗について》、今日は旗に高度を十メートルから十五メートルに伸ばした人がいたらしい、考案者は拾われた、と文字が踊っている。……いやらしい。一体どういうわけでこんなものを読んでしまっているんだろう?
 他の項目、頁、何もかもが繰り返しでちっとも面白くない。中央が我々を均一化しようとしているとしか思えない、丁度、出荷する家畜の品質管理のように。ああ読みたくない、もっと「素晴らしい」ことに己の時間を注ぎたい。だからと言って時間を使うようなやりたいことなど本当に少ない、いや、沢山あっても気持ちがへし折れて行く心地良さに酔っているだけなのかもしれない。後味の悪さを知っていても、砂糖菓子を食べたくなる、あの慾望。ある種の諦め、ある種の憐憫。ある心理学者が言っていた、前進ではなく退行の、自己憐憫への耽溺の快楽、新聞でも読もうか。
「あ、旗の材料でも買いに行くか」
 誰もいない孤独で、誰に話しかけているのだろう、だがこうやって話しかけ、反射した音で自らの輪郭を知覚しないとあっという間に崩れてしまう。頑固な岩だって、風が吹けば崩れてしまう。 住民たちは旗ばっかりに手をかけ時間をかけ金をかけ命をかけ……頭が悪いと思う。この小さな町でも「拾われた」人がいた。新聞を届けにくる飛行船から縄梯子が垂れぼくらはこうべを垂れ、帰ってきたその人は、ただ「素晴らしかった」と述べた。次の日、やけにうるさいと思った集合住宅の隣人が彼の部屋を訪れると、彼が一羽の柔らかなインコかオウムか何かに成れ果てているところが発見された。おかしな話だ。隣人に向かってひと鳴きすると、彼はそのまま飛び去っていった。魂のよどみを高らかに歌い続けながら……。
 この話は果たして自由を表しているのか? それとも、複雑な精神のつくりが、体に見合った単純さになったことを表しているのか? この物語はしつけのために創作されたお伽話に過ぎないか? ぼくは奴らとは違う。拾われることに執着を見せる、あいつらとは。旗など無視してしまいたい。ああ、でみ、旗にこだわらないと拾われない。拾われないと……。
 扉を開けると、魔物の呻き声、灰色の燃え屑の空気と沢山の旗の影、ぼくの体内は赤色だろうか。だけれどももう灰になってしまっているのではなかろうか。
 遠い昔に色を失った作物たち、が並んだ市場を見ていると辛い。足早に青果店やらを抜け、空気の乱れた旗材屋まで進んだ。旗用の布(いちばん安いやつ)、最高級品である赤や青(ああ! 色!)の顔料、中が空洞になっていて耐久性に優れた支柱から、細かい作業用の筆から糸まで、相変わらずなんでも取り扱っている。それに賑わっている、人が集合すれば華やかになるはずだが、ね、埃が喉に張り付くようで忌々しい。
 迷わずメートル支柱を五本購入した。会計するとき、(いないのにもかかわらず)あたりを見回し知り合いがいないか確かめた。ぶくぶくに肥大した自意識と密に接着し吐く真似をした。支柱は空洞になっているとはいえ重たい。紐で縛って持ち帰る。のしかかる重量、ああ、ありがとう、その苦痛でぼくは自己の存在をありありと思い出す。
 家の扉までの階段、ぼくはちらりと後ろを振り返ってしまった。ああ、もう救いようがない、掬いようがない。全部沈めばいい、街の洗濯、それでもぼくはきっと浮いていられるはず……。
 支柱を旗の根元に置く、がちゃがちゃと擦れ合い、金属音をたてた。耳を塞ぎたくなる、突然の恐怖、階段を踏み外したときの、足すくみ。
 さあ、旗を伸ばそう、きこきこハンドルを回し、降りてきた旗を丁寧に置く。旗の支柱を命綱と一緒にしっかり結び、支柱を一本抱えて登る。何度もやってきた作業だ、今更なんとも思わない。十メートルが十一メートルになった。
 上に登ると、いやでも街全体が見渡せる。

 
 「擦った」「揉んだ」と言ったって
   そいつは誰の声なんだい
 「いった」「いった」といったって
   そいつは誰の声なんだい

   虫酸が走る望や望や
       あちらこちらに棄てちゃった
   水槽の底に溜まるのは
       蝦の死骸でなかったか

 ぼくはおんなじ作業を四回繰り返す。十五メートルになった。もう一回旗を付け直した。今日のやること終わり。部屋に入って、ベットにごろん。

 次の日の午前六時新聞、迷わずめくる、第十七面、《旗について》、今度は旗の周りにフリルを付けた人がいたらしい、考案者は拾われた。
「あ、旗の材料でも買いに行くか」
 部屋に反響するぼくの声が、体全体に当たる。喜びと悲しみの中道で、ぼくは存在を知った。
 夏の終わり、蝉の死骸、加工品――キャットフード――の空き缶。支柱が空洞になると強度が増すという。では人間は? 人間の心や精神はどうなんだ!
 旗材屋に行くと、目ざとい主人だ、もう一番目立つところにフリルが山積みになっている。皆んなが食うようにそれを奪い取っている。ぼくも人間の海に突っ込んで行った。拾われたい、拾われないと……。
 なんとか買えた、良かった。素直に安心する。きこきこハンドルを回す。旗を降ろす。優しく抱えて一旦部屋に入れる。買ってきたフリルを掴み、糸と針で丁寧に刺繍していく。色付きのものだなんて高いから買うことはできない。灰の旗に灰のフリルだけれども。糸を通すたび、針を布に突き刺すたび、心臓を貫通していくような。綱渡りの危うさを感じる。なみ縫いの最後に丁寧に玉止めして、はい、今日のやること終わり。旗を付け直し、きこきこ上に、部屋に入って、ベットにごろん。

 次の日の午前六時新聞第十七面、《旗について》、自ら旗に登り、待っていた人がいたらしい、考案者は拾われた。
「あ、旗の材料でも……今日は行かなくていいか」
 部屋から出ると、もう皆んな真似して旗の支柱をよじ登っていた。大変だ、出遅れた、早く登ってしまわないと。慌てて登る。手のひらに汚れの層ができて滑りそうになる。それで余計に水分が抜ける。天頂に着いた。周り、というかすぐ隣にも人人人、あっちも、ずっと。街全体が十五メートル上昇したようだ。
 このまま午後六時の発表まで待つ。飛行船がやってきて、縄梯子が降りてくるのはどこだ、誰だ。 誰が拾われるんだ。東にあった太陽は南に向かいひときわ輝き、徐々に衰えながら西へ向かって行った。さあ、午後六時、誰が、誰が、全体が騒がしくなる。……だが騒がしさは少しずつ弱くなって、やがて消えた。ろうそくを思い浮かべた。今日のやること終わり。旗を降りて、部屋に入って、ベットにごろん。

 翌日、午前六時、新聞の第十七面の《旗について》、旗によじ登ってさらに一メートルの、それも「赤色」の旗を持った人がいたらしい、考案者は拾われた。
 はあ、赤色だなんて……。ぼくは古びた薄茶色の財布を取り出した。中身には銅貨三枚、赤の顔料は金貨十枚。
「あ、旗の材料でも買いに行くか」
 旗材屋に行った、でも手持ち用の旗は売り切れていた。だが赤の顔料は変わらずショーウィンドウの中で輝いていた。透明な硝子の上から、赤色に触れようと思いなぞる。届くことのない、絶対的な距離、すぐそこにあるというのに。赤、赤、美しい色、灰色の日常を破壊する非日常!
 赤を諦めとぼとぼ旗まで戻る。せめて旗に登ろうと思った、でもすでに多くの人が登っていた。もうどうしようもないくらいに出遅れた。
 ぼくは自分の旗の脇に座り込む。なんだってこんなことをしているのだ。何でもできるはずなのだけれどなあ。どうして地面は灰色で、灰色に染まって、何故ぼくが存在して……いや、これ以上はきりがない。だが、一度でもそう思ってしまうと、肉体は精神と共謀し、ぼくを憐憫の沼に誘い込む。意識を持った沼は触手を伸ばし両足を捉え、ぼくの意識に介入する。ああ、どこか快楽を感じる。より可哀想で不憫な己を演じてしまおうと、より暗い気持ちになる。第一、本当に拾われた人などいるのだろうか。《新聞》の記載は事実だろうか。ぼくの見えていないところで、世界は崩壊を開始しているのではないか?
 この反駁が内にあるからこそ、街が沈んでも浮かぶことができると思っていた。しかし違うようだ。ぼくは何にも歯向かうことができていなかった。浮かぶ薄い布に捕まって、沈んでいるという事実に目を背けていただけだった。無理矢理涙を絞り出す。甘い甘い眼球の液体。
 突如ぼくは閃いた。赤、赤、赤だ! 体内を駆け巡る電気が考案者の特権なのだろうか。赤なんて金貨がなくても買える、いや、もう持っている!
 ぼくは一旦部屋に戻って、台所から包丁を取り出す。鈍く艶やかに光る包丁、ぼくは支柱の根元に座り込んだ。そうして白い胸に尖った方を向け、一思いにぐさりと刺した。血が溢れる。痛い。赤い。赤い血。無機質の、どんな赤よりも鮮やかで目を惹く、赤く赤い血。ちゃんと体があった様だ。薄れていく目の前、染まって行く灰色、ああ、鮮やかだ……。

 翌日朝の新聞、第十七面、《旗について》、旗の根元で死んだ人がいたらしい、灰色の中に花開く赤は目を惹いたのだろう、考案者は拾われた。