KIT Literature Club Official Website

京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.1.2 / オレンジ・アイス・キャンディー
Last-modified: 2007-06-21 (木) 18:14:02 (6146d)
| | | |

オレンジ・アイス・キャンディー ―― 五島顕一


 午後の授業の終わりごろにやっと思い出した。プール横の脱衣所に水着の入ったカバンを忘れてきたのだ。
 自分のしでかしたことで、顔面に熱っぽさを感じ始める。カッコ悪い。誰にもばれないようにこっそり取りに行こう。誰かに見つかってからかわれるのは、僕の性分として苦痛だ。
 しかし慌ててはいけない。まだ授業の途中だ。ここは終鈴を待とう。黒板の上にある時計とスピーカーをちらっと見る。後5分で抜け出せる。
 僕の席からはるか遠くで先生が黒板にチョークを何回か叩きつける。黒板は古文という名の『復活の呪文』で埋められている。先生は器用にもその暗号から『き』の字を見つけ出し、青い色チョークで丸をつけた。そしていかにも重要な宝物であるかのように、雄弁に話し始めた。平安時代の人々はこんな文法事項をいちいち気にしていたのだろうか。信じられない。
 突然、カーテンが静かに風で煽られた。生暖かい風が肌を触り、まだ高い太陽の光が窓から撃ち抜くように差し込んでくる。僕は大抵、ここで睡魔に襲われてされるがままだ。しかし今日は何とか踏ん張っていた。
 「―――今やっている源氏物語はぁ~、かいつまんで言うと光源氏という美男子があちこちの女性を抱きまくる話だ。先生は不真面目なつもりはないぞ。文学作品にとってエロスは重要なテーマなんだ。物語の祖と言われるぅ~「竹取物語」にも性的な喩えはあるんだぜぇ~。竹取の翁が光っている竹を見つけてぇ、持っていた鎌で竹を切って赤子を取り出すシーンとかな。竹は生命力の象徴!鎌は男性器だろ?光は妊娠が可能であることのバイタル・サインだ。鎌で竹を割ることは性交渉でぇ、赤子を取り出すことは出産。―――」
 先生がこんなことを言うはずはない。僕の耳が聞き取って、脳が勝手にこんな翻訳しているだけだ。疲れているのか睡眠不足なのか、きっと両方だ。
 チャイムが鳴り始めた。いつも微妙に音程のずれた不愉快な電子音は、僕たちを校舎から押し出そうと急かす。僕は退屈空間が支配する教室を抜け出した。水着奪還の秘密任務へと急いだ。

 プールの入り口の前まで来た。靴と靴下を脱ぎ簀(す)の子を踏んで中に入った。入ってすぐ左側の男子更衣室の床が不衛生なのは分かっていたので、気を引き締めてドアをゆっくりと開けた。生ぬるくてかび臭い、こもった熱気が体表と鼻腔を侵食する。いつまでも慣れない臭いだ。
 部屋全体の内装はコンクリートだ。その中に所狭しとねずみ色のロッカーが並んでいる。眼下の床は恒常的に濡れている。僕は恐る恐る、見た目に不浄な床に向かって少しずつ足を伸ばした。足のほうを見ないように目をぼんやりと向こう側の壁に向ける。足がつく瞬間の、ぶちまけた水糊を踏みつけるような感触と音が気持ち悪かった。あまりの感覚に足先から足の甲、すね、腰骨そして背筋を順番に、けいれんよりも細かい振動が伝わっていった。だから学校のプールは嫌いだ。
 やっとの思いで目的のロッカーにたどり着き、水着の入ったカバンを手にした。そして僕は更衣室を出ようとしていた。その時、僕は向こうの方からの水音に気づいた。
 バシャン、バシャン・・・・。
 ゆっくりとした一定のリズムだった。プールに誰か入っているのだろう。しかしその誰かとは誰なのだろう。音は遠ざかって行くが、その存在主張が僕自身の興味を引く。こういう、何の特にもならない好奇心は押さえ込んだほうがいいはずだ。しかし妙な熱気に胸から顔の辺りまでが火照ってきた。そして僕はついに消毒シャワーの壁の影から覗き込んでしまった。

 その人はプールの第1コースをバタフライで泳いでいた。女子だということはスタイルやスクール水着で直ぐに分かった。大きく腕を回してきては一気に前方45度へ叩きつける。その動きに連動して顔が現れ、腰や足先があらわになる。その度に大きな水しぶきを撒き散らしながら豪快に進んでいく。そのフォームを見ていると、単純にカッコイイ、とだけ感じてしまった。他の雑多なことなど頭の中からなくなった。アスリートに特有な、ただ美しいだけで感動させる魅力がそこにあった。彼女はもはや可愛らしい蝶というよりも、ダイナミックな肉体と表現を兼ね備えた人間の躍動であった。僕はしばらく間抜けで不恰好な姿勢で彼女をじっと見ていた。

 彼女は、プールサイドの手すりからゆっくりと上がってくると・・・・僕のほうに顔を向けた。僕は驚いて直ぐに頭を引っ込めた。彼女に気づかれたかもしれない。覗きなんてやっていると知れたらどんなに軽蔑されるだろう。僕は転ばないようにしながらも急いで立ち去った。更衣室の簀の子まで行き着き、ドアを閉めたところで一息ついた。さて、彼女は更衣室で着替える時間があるはずだから、僕には十分時間がある。ゆっくり靴下と靴を履こう。僕は簀の子に座り込み、靴下を靴の中から取りだした。
 「何してるの、あんた」
 「へ?」
 不意に背後から女の人の声がして、僕は気の抜けた返事を返してしまった。振り返ると、スクール水着の女子が屈み込んで見下ろしていた。真上から太陽の光が差し込んできて顔全体が影色に見える。頭一つ上ぐらいの高さから頭に被ったバスタオルが僕に向かって流れている。柔らかそうな厚手の布地の隙間から、日に焼けて少し茶色がかった髪が垂れる。髪を伝って一つ雫が落ち、僕の頬に落ちる。少しだけカルキが混ざった甘い匂いがした。
 「あ、三次(みよし)さん」
 体で太陽が隠されて、陰によって彼女の顔が浮かび上がったように見えて確信できた。陰の中で日に当たり赤くなった肌が鮮やかな暗紅色が眩しい。やや青みを帯びた瞳は大きくてつぶらで、怒りの色などは全く含んでいなかった。さっきまで泳いでいたはずなのに白目はほとんど充血していないように見えた。唇の血色は流石に暗紫色に近い。

 三次なつみは隣のクラスの女子だ。教室では短いポニーテールにしている。風を澱ませない静かな雰囲気と柔らかな眼差しのコントラスト。いつもは他の女子といて目立とうとしない子だ。でも、地味ではない。ひっそりと咲く白い百合のような可憐さを感じる。ただ、プールで見たような力強さは教室では分からなかった。
 クラスの男子の話のまな板に三好さんのことはあまり出てこない。三次さんのように大人しくしている娘(こ)よりも、発言または態度で自己を主張する女子のほうに目が向いている。かといって、僕は三好さんについて話題を振ろうとは思わなかった。話せば僕が三次さんを好きなのかとか、そういう冗談のタネにされる。そんなつもりはないつもりだし冷やかされるのは嫌いだ。時々何となく彼女のことを考えてみたりするが、ただ何故三好さんの話が出てこないのかなぁという純粋な疑問だ。僕だけが三次さんの可愛さを知っているという根拠や実益の無いアドバンテージを感じることはあっても、付き合って欲しいとか言ってしまって三好さんに負担をかけることは不要だと思う。・・・いや今『付き合って欲しい』って誰が思ったんだ?

 「何だ、土本か。何か私に用事あんの?」
 あ、クラスが別なのに名前覚えていてくれていたのか。それと、三次さんって案外さばさばして中性的な喋り方だったんだ。また新しい魅力を発見できたようで嬉しい。
 「ええと、僕は忘れ物を取りに来ただけで・・・」
 「ああ、ちょっと待って。今着替えてくるから」
 僕の言葉を遮ってそう言って三次さんはまた更衣室へと引っ込んでいった。質問しておいて話を聞いていないのだろうか。僕は靴下と靴を履き終わって立ち上がり、言われた手前少し待っていると、ねちねちという足音の後に扉が開いた。いつもの制服を着た三次さんは教室で見ていた印象に近くなる。但し今は運動した直後だからか、ゆったりとした着こなしだ。
 「あれ、待っていてくれてたの。優しいところあるんだ。忘れ物取りに来ただけでしょ?」唇の血色は回復していて僅かな光沢があった。リップクリームかな。
 「あれ、待っていてと言ったのは三次さんのほうじゃ・・・」素朴な疑問が口に出る。
 「『三次さん』ってちょっと堅苦しいな。『なつみ』でいいよ」
 「な・・なつみ・・・さん・・・」
 「呼びにくいか。『三次』って言ってみ」
 「・・・三次」
 「・・・ん、まぁそれでいいか」
 流されたような気がする。でもまぁいいか。

 僕は今までそのオレンジ色のものに気付かなかったが、三次は既に手に持っていた柄のついたオレンジ色の棒状の物を口の近くまで引き上げて2・3回小さくなめた。
 「それは?」
 「アイスキャンディー。オレンジジュースを凍らせただけの簡単なものだけど、飽きないのよね」
 「どこで買ったの?」
 「そこに冷蔵庫があるよ」
 示されたほうを見ると突然に教室の机があって、その上に高さ60cm位の冷蔵庫があった。大きな張り紙に『水泳部』『一本10円』と書いてある。冷蔵庫の上にキャラクターものの貯金箱が置いてある。
 「僕、水泳部じゃないけど買っていいの?」
 「いいんじゃない?部員数より少し多めに用意してあるし、食べない子もいるからあまってくるのよ」
  僕は貯金箱に10円玉を投下して冷蔵庫からオレンジアイスキャンディーを取り出した。詳しく言うと、アイスキャンディーだけが米俵のように積み上げられていたのでそれしか選べなかった。
 「へぇ~、三次って水泳部だったんだ」僕は振り返って三次に追いついた。
 「水泳部はそうだけど、私はマネージャーをやってる」
 「大変じゃない?」
 「大丈夫。マネージャー3人いるし、一番熱心な子に任せてあるからほとんど仕事してないし。時々プールサイドから男子部員の引き締まった体を見てるくらいかな、へへへ」
 「あれ、そんな冗談もイケるクチなんだ。」僕はキャンディーを一気に頬張ろうとする。
 「ちょっと待って。最初にある程度表面を少しずつ舐めておかないと唇や舌がくっつくよ」そういって三次はキャンディーをスッと3cmくらい口に入れる。
 三次が歩き始めたので僕はその斜め後ろを歩く。僕は大人しくキャンディーを舐めることから始めた。アブラゼミが鳴き声とじりじりと焼けそうな太陽光が降り注ぐ中、4・5回汁を吸う音がしたぐらいで暫く僕らはどちらからも会話を切り出さなかった。

 「三次、ちょっとじっとしてて」
 「ん?」
 僕は何も言わずに三次の左肩を親切心で鋭く叩く。
 「ッ!」
 「蚊が止まってたぞ」僕は三次に右手の掌に張り付いた成果を見せる。
 「あーッ!制服に血がついてるじゃない!こういうの落ちないんだよ!」
 「あ、ごめん」僕は意外な反応に驚いてすぐに謝った。
 何となく気まずい雰囲気が流れる。地面からの放射熱で、空気の中にもやもやとしたものが広がって見える。
 「・・・私も、急に怒ってしまってごめん」
 「いや、僕の方こそ」とりあえず日本人的には一往復半だ。
 「ハンカチ持ってるからちょっと待って」
 「大したことないからいいよ、大丈夫」
 僕は少し考えるために、キャンディーを口に入れる。三次も口に含んでそっぽを向いている。セミがいよいよ元気に羽を振動させ、しばらくして一瞬鳴き止んだ。

 「そういえばさ、水泳部のマネージャーじゃなくて部員という手はなかったの?」
 「え、だって私そんなに泳げないよ」
 「バタフライ泳げるならかなりスゴイと思うんだけど」
 急に目が合う。三次が僕の目の奥のほうを見ようとするので、僕が何か駄目なことを言ったのかもしれない。
 「・・・知ってたんだ」三次は中空のあっちとそっちとこっちと、いろいろに目線を移してから話し始めた。
 「最初は水泳部員として入ろうと思ったんだけどね、友達を誘っても誰も気乗りしなかったんだ。厳しそうとか辛そうとか。一人で部員として入るのも心細かったし、とりあえずマネージャーでいいかなって思った。」
 僕は静かにして、話の骨を折らないようにした。
 「それでさ、マネージャーとして部の雰囲気とか見てるとさ、何か気まずいのよ。顧問や先輩マネージャーがスパルタンで、部員が反目してる。それで、サボることばかり考えてるの。その理由がかぶらない様に相談したりだとか、一変に大人数が休むと顧問がブチギレるからって、サボるの当番制にしてるぐらい。そういうの見てると何か、どうにでもよくなっちゃってね」
 「でもマネージャーは辞めないんだ」
 三次はちょっと照れたようにこう言った。
 「まぁ一応、水泳好きだし」

 学校の門を出てから南へ歩いて交差点に出たところで、三次が突然、
 「あ、当たりだ」と言った。さっきまでアイスキャンディーが被さっていた木の棒を正対して見ている。
 「当たり?」僕が覗き込むと、確かに木の棒には(当たり)という文字が入っている。
 「ホントだ。これ持って行ったらもう一本アイスキャンディーもらえるの?」少しわくわくしてきた僕は子供っぽいのだろうか。
 「ううん。何ももらえないよ。これ、部員が食った市販品のアイスの棒を再利用してるだけだから」何だ。がっかりだ。でも、それって・・・
 「え、じゃあこれは誰かがしゃぶり倒した後だったりするのか!」口の粘膜が急に気持ち悪くなって来た。
 「大丈夫よ。しっかりと洗浄・漂白してあるから」
 ううむ、気分的な問題だと思うのだが・・・
 「でも、土本君の舐め差しを提出したら、私に間接キスできるかもね」
 「ハハハ、それいいかもね」
 冗談はこうやってかわす。そしてさらに話題を振る。
 「・・・でもそうすると、この当たりの棒を提供した部員は何かを得られたはずなのにみすみす見逃したことになるね」
 ところが、三次さんを見るとなぜか俯いている。
 「私、家こっちの方向だから」
 「そっか。じゃあまた明日な」

 この日以降三次さんとはずっと何にもなかった。何ももらえない当たりくじだったようだ。

(了)



参考)
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h1swim/h1bu00/h1bu20/IPA-swm210.htm

この作品を評価を評価する

点数: 点 ◆よろしければコメントもお願いします