閃きに、君の名をつける ―― 哉 †
彼女は、偽者の宝石のついた指輪を外した。
「ここまでだったね」
諦めと喜びと、ひとつまみの悲しさを含んだ声に、僕は救われる。彼女はいつでも前向きだ。死のうとしているのに助けられるなんて皮肉だけれど、そんな最後も悪くないと、いまの僕なら思うことができる。
「そうだな」
僕は彼女と視線を合わせて、なにか合図があったわけでもないけれど、軽く唇を合わせた。
断崖絶壁の淵に立ち、見下ろした世界の清々しさに、僕は興奮している心が凪いでいくのを感じた。大きな母の手に包まれるように、この殺風景な自殺の名所からですら、温もりを抱くことができる。
なんて不思議な気分なのだろう。
「十分やったよね、わたしたち。甘えるなって怒る人もいるかも知れないけどさ、それでも、ここが限界だよね」
ポップコーンのような励ましには、嘲りや蔑みが微塵もなくて安心する。代わりに、内容は薄いけれど。
僕は、ああ、とだけ答えた。
胸を張れるような夢を持って、僕たちは生まれ育った街を捨てた。未練なんて考えている暇などなく、周囲の忠告は血に飢える蚊を潰すようにして進んだ。正しいと信じていた。それなのに、いつのまにか疲弊していった明日は、干乾びたメロンの皮みたいにグロテスクな模様となって、僕たちが目を背ける前に、現実に不甲斐ない田舎者を見限ったしまった。
才能はある。ただ、大きくないだけ。
煙草を覚えた。でも、もう吸えない。買う金がない。ここには、駅前で盗んだ自転車でふらりふらりと、当てもなく彷徨って行き着いた。途中で万引きもした。無意識にここを目指していたのか、それとも名所というのはそういう人種、人生を諦めてしまった者たちを集めるのかは分からないけれど。
ここに着いた。あと半歩で、僕たちは次のステップへ飛び出すことになる。
「これの効果、なかったね」
指輪を掲げる。日の光に、それは輝かない。
「だってそれ、縁日の賞品じゃないか」
「所詮、模造品は模造品でしかないんだね」
わたしたちも、格好ばっかりの模造品なのかな。
無表情の瞳が、空の色を映す。
「そう、かもな」
なんてここは静かなのだろう。波が岩肌を穿とうとするのに、ウミネコが仲間たちを呼ぶように鳴いているというのに、風が痛いほど肌にしみて髪を踊らせているというのに。
彼女の手から指輪がこぼれる。それは重力にしたがって、荒々しい壁をはねるように落ちていく。その甲高い破砕さえも、ここにある静寂に混じって解けていく。全ての象徴とした思いを分解させて、新しい旋律としていくように馴染んでいく。
風に吹かれて、それが僕の耳にまで届く。
モーツアルトの音楽は、自然界にもともと存在すると言われているらしい。だから、初めて聞いたとしても、何億年もの遺伝子の歴史に染み付いている音として認識し、緊張を和らげる。
それは究極の答えであり、いま、僕は、
「こら! そげんとこで、何やっとるんじゃ!」
道路に止まった軽トラから、地元のおじさんが、眉をそりたててこちらに向かってきた。
「おめぇら、そこの『家の鍵、閉めてきましたか?』やない、『自殺禁止』って看板が目に入らんのか。こげんとこで、死のうなんて何考えとるんじゃ罰当たりめが。ここはな、おめぇらが知っとるような自殺の名所やのうて、海の神さん祭っとる大事な場所なんじゃ。それをおめぇら、悪魔も天使も見分けのつかん曇った双眸しおりしくさって。ええか、おめぇらが飛び降りたら、そしたら警察呼んで遺体引き上げて、代わりにこん街の評判が引き下がっとるんじゃ。わし、いまうまいこと言ったな。いや、そういうことやのうて、おめぇ、そんなことやから、うちの若いもんが、骨肉饅頭ちゅうんを町興しのためにどうじゃろなんて、血迷ったことを」
と、おじさんは日頃の鬱憤を晴らすというよりも、投げつけるように喋り続けた。
それを、苦笑交じりに眺めていた彼女は、肘で僕の脇を小突く。
「邪魔されちゃったね」
罵詈雑言を浴びせかけられる中で、僕も似たような表情になる。
「ああ。見事に邪魔された」
そして僕は、次に口にするせりふを考える。
さっき、光の中から音楽を取り上げたんだけど、産声を聞きいてみたくないか。
それとも。
もう一度、頑張ってみようか。
にしようか。