正義は、右手だけでは溢れるが、両手で持つには足りない' ―― 哉 †
「本当にやるの?」
「当たり前じゃない。あなただってお腹が空いて自転車こげないんでしょ?」
「まあ、そうだけど。でも、見ず知らずの、しかも身なりの汚い若者を受け入れる家なんてないと思うんだけど」
「あ、それ偏見」
「偏見もなにも一般論としてね」
「もっと情けとか仁義とか、日本古来の性質を持ちなさいよ。へんな所だけ欧米化されちゃってさ」
「別に、そんなことないと思うんだけど」
「あんたの聞く音楽って、ほとんど洋楽じゃない」
「それは、向こうの方が本場だから。ヒップホップとかグルーヴとか」
「ああ、そうね。あなたの言う通り、本物は全部、亜米利加や英吉利に売っちゃいなさいよ。そのお金で買った権利に価値なんてない気がするけどね」
「なんか話の筋がずれてない?」
「それは、あなたのせい」
「いつも僕のせいだ。そのうち地球が回って、夜になることも僕のせいにされそうだ」
「でも、星の輝かない夜空は、あなたのせいよ」
「ほらね」
「もう、あなたと話してると、まったく進まないのよね、本題が」
「いま、僕は君にとっての鏡になったよ」
「意味不明なこと言ってないで、さっさとインターホン押しなさいよね」
「なんだかんだ言って僕に押し付けるんだよな、いつも。面倒くさいことはさ」
「分かってるじゃない。わたしだって馬鹿じゃないわ、本当に食べさせてもらえるって思ってるわけじゃない。それでも、もしもってことがあるじゃない。例えば、男なのに子供ができるとか、タイムスリップしたら裸になるとか、ハゲでデブの冴えない双子の兄貴いるとかね」
「それって、全部カリフォルニア州知事のことだよね」
「ようは、宝くじは買わないと当たらないってことよ」
「なんだかな。それより、この家であってるのかな」
「わたしの鼻を疑うの? それとも自分の鼻を信じられないのかしら」
「そういうわけじゃないよ。なんていうか、ほら、家の鍵を何度も確かめたりすることに似てるって言うか」
「一度しか言わないから、しっかり聞くのよ。カレーの匂いは、絶対にこの家からしています。断言できます。それは何故か。この家が田園に囲まれた農家であり、隣家がまったく見当たらないからです。街灯すらないほどの田舎であるために、カレーの匂いは間違いなく、この家から出ているものと確定することができます。カレーとドリアンの匂いをはき違えてなかったらね」
「うん、そうだよね。やっぱり」
「あなたが渋る気持ちは分からないでもないわ。いままで他人に無関心な都会で暮らして来たんだもの。わたしたちのコミュニケーション能力は衰えて、同年代やしっかりと決められた肩書きを持っている相手とでないと、満足に会話もできない。垣根なしってのが掴めていないのね。でも、それって生まれつき誰にでも揃っているオプションじゃないと思うの。いいじゃない、人生を学ぶのに遅いということはあるかも知れないけれど、無駄だということはないと、わたしは信じてるわ。経験は、いつか絶対に何かの糧になるもの」
「そうだね。何事も、やってみないうちから諦めてちゃ駄目だよね」
「分かったら、インターホンを押しなさい。もう空腹すぎて力が出ないのよ」
「腹は減っても、口は減らないタイプだよね」
「何か言ったかしら」
「いいえ、何も言ってませんよ」
ピンポーン。
間の抜けた音が鳴る。しかし反応は返ってこない。ただ黙りきった玄関は堅く、僕たちを拒否しているようだ。
「もう一度、押してみなさいよ」
頷いた僕は、音符の絵がついた古臭いインターホンに人差し指を当てる。さっきと同じ音が鳴ったけれど、その音以外に沈黙を破るものは聞こえない。
「いま何時だっけ?」
「午後七時、十分前よ」
「ということは、もう寝ちゃったってことはないよね」
「これから夕食ってところが妥当だと思うわ」
「どこかに出かけちゃってるんじゃないかな」
「何のために出かけるのよ」
「外食してるとか」
「カレーを作っておきながら?」
「または、誰かを迎えに行ってるところとか」
「残念だけど、違うと思うわ、ほら」
彼女が、家の敷地にある軽トラックとステーションワゴン、納屋から出ているトラクター、それに家の前に止まってあるバンを視線で指した。
「こんな辺ぴなところで、自動車にも乗らずに出かけるかしら」
「僕たちは自転車で来たよ」
「ナイフを持っているのは、自分だけとは限らない」
「どういうこと?」
「相手の立場も考えなさいってことよ。自分のことばっかりじゃなくてね」
「なんだか釈然としないなぁ」
でも、僕も留守だということに疑問を抱いていた。
「台所だと思わしき部屋からは明かりがもれているし、換気扇も回ってる」
「普通は止めるよね、出かけるならさ」
「ふむ、なんだか怪しい気配がする」
「髪の毛は立ってないよ」
「くだらないこと言ってないで、玄関の鍵は開いてるのかしら」
ちょっと止めときなよ、という僕の制動を無視して、彼女は遠慮なしに引き戸に手をかける。
そして、いとも簡単に開く。ただそれが不気味で、まるでお化け屋敷にでも招かれているような錯覚を受ける。左右の部屋の電気は点いているのにほの暗い廊下、奥のほうに二階につながる階段がある。
「あの、誰かいませんか?」
彼女の声が怯えを帯びているのがわかる。それでも、家の中に進んでいこうとする。もちろん、僕の背中を押して、盾にして。
「すいません、誰かいませんか?」
二度目の彼女の言葉に、答える動きがあった。左の部屋、外からだと台所だと予想したところから、人が出てきた。
腰が引ける僕。彼女も黒板を引っかいたような悲鳴を上げる。
「どちら様かしら?」
現れたのは小奇麗なオバサンだった。腰に巻いたエプロンで両手を拭きながら、すこし困惑した表情を浮かべながら近づいてくる。
「こんな時間に、何の用かしら?」
のどに発するべき台詞が絡まる。そして頭の中が真っ白になる中で、彼女が突然、僕の前に立った。
「あの、すこしで構いませんので食事をわけてもらえませんか?」
相手の同情に訴えかけるような、潤んだ瞳に僕は体を引く。
「あの、ええと」
困惑するオバサンに、
「実は、わたしたち自転車で旅をしてる途中なんですけど、」
というところで、まるで堪えていた悲しみが決壊したように、口を押さえる彼女。
「今日の夕方に、荷物を盗まれちゃって、それで、携帯電話もなくて、日が暮れてきら車も人通りもなくて」
「まあ、それは可哀想に」
頬に手を当てて、憐れみの視線を送るオバサン。それを受け取る僕は、まるで逃げるように視線をそらせた。
なぜなら、彼女の口から出たことは、ほとんど嘘だからだ。
実際は、盗んだ自転車で現実から逃げているところだ。自殺しようとしたところ、変な現地のオジサンに止められたので、折角だから、限界まで行ってみようと思った矢先。
さっそく限界を迎えた、不甲斐ない若者なわけで。
「ということは、警察にはもう届けたのかしら、その」
「いいんです。対したものは盗まれてませんから」
「そうなの」
一息つくオバサンに、彼女がさらに畳み掛ける。
「何でもします。畑仕事も手伝いますし、田植えもします。だから、今日の晩御飯だけ」
すがる彼女に、オバサンは困ったわね、と首を傾げながら、
「ちょっと旦那と相談してきますわ」
と廊下を歩いていく。その後姿に、彼女が感謝の意を述べる。
二人きりになった三和士で、僕は小声で彼女を問い詰めた。
「どういうつもりだよ」
「もちろん、空腹を満たすためよ」
「だからって、あんな嘘つく必要があるのかよ」
「そのほうが自然じゃない。人は自分より弱いものを見ると安心する生き物なのよ」
「それにしても、荷物を盗まれたって。警察に連絡されたらどうするのさ。僕たちだって、自転車を盗んで」
「その心配なら要らないわよ」
疑問視を浮かべる僕に、彼女が視線を鋭くする。それだけで重圧感が倍増する。
「いいかしら?」
唾を飲み込んでうなずく。
「あのオバサン、化粧していたのよ」
「ええと、そうだったけ?」
「注意力がないのね」
落胆のため息をついた彼女は、まあいいわ、と僕の唇に人差し指をつける。
「あなたは黙ってなさい。いまはまだ証拠が揃ってないから」
証拠ってどういうことですか、と訊ねようとしたとき、奥の扉がまた開いて、今度は人のよさそうな中年夫婦が出てきた。さっきのオバサンと、まるで生前から連れ添っていたように、ぴったりはまっているオジサン。
二人とも笑みを浮かべて、奥の部屋を示した。
「さあ、どうぞ。夕食のカレーが出来上がったところですよ」
案内された応接間には、立派な木彫りの机、それに棚とその上には、良く分からない置物が飾られていた。
まるで餓死寸前を装う彼女に合わせて、僕もできるだけ虚ろな感じで歩こうとしたら、あろうことか彼女のボディーブローが腹に食い込んで、
「大丈夫?」
なんていう彼女の自作自演に、また夫婦の同情を買い付けるのだった。
「なんなんだよ」
耳のそばで早口に聞く。
「いいから、いまはわたしの言うとおりに」
いまも、だろ、という反論を飲み込んで、僕は彼女に肩を支えられて進む。
出された座布団に、二人で並んで座ると、オジサンが目の前に座って豪快に笑った。
「災難だったな、荷物を盗まれたんだって?」
「ええ、でも換えの下着とか、衣類が中心でしたので対した損害じゃないんですけど」
「まあ、それでも大変だったな。どこから来たんだい?」
「東京の方から」
ほう、と驚いたオジサンはまた大きな口を開けて笑う。
「それはそれは、遠いところから、すごいねえ」
「それほどでも。彼と、二人ですし」
頬を染める彼女。意味がわからずたじたじする僕。
オジサンは、しかし僕を見据えると眉を逆立てて、
「君も男だろう。もっとどっしりと構えなさい」
その一喝に背筋が伸びる。それに満足したのか、
「うん、それでいい。いつだって堂々としていれば、万事がうまくいくもんだ。彼女をもっと支えてやらんとな」
「分かりました」
まるで海兵隊の挨拶のようだな、と僕は自分を客観的に分析する。
それにしても、何か違和感がある。
「あの」
彼女が、おずおずといったようにオジサンに聞く。
「その時計、すごいですね」
「これかい?」
オジサンが腕に巻いている時計を持ち上げた。金色に光るそれに、彼女の瞳は奪われているように。
「ちょっと見せてもらえませんか?」
訝しがるオジサンは、すこし躊躇したものの浅黒い腕から外して、彼女に手渡した。
「ロレックス、ですか?」
「そうだよ、すごいだろう」
自慢するオジサンを無視して、彼女は静かに時計を返す。
それを、もう一度巻きなおして、オジサンは聞いた。
「これが、どうかしたのかい?」
「いえ、ただ、死んだ父が同じものをしていたので」
心で悲鳴を上げる僕。そんな、君のお父さんは元気にサラリーマンをしてるじゃないか。
「そうか。それは、嫌なことを思い出させたかな」
「いえ、ちょっと懐かしかったです。なんていうか、死んだ父にまた会ったみたいで」
傾けられた微笑に、涙が花を添える。最強の媚びた笑顔だけれど、オジサンのハートは鷲掴みにされたみたいに、彼女に釘付けになっている。
「あ、いけない。わたしの時計、十分遅れてる」
彼女が零れた涙を隠すように自分の腕時計を見せる。
本当だね、と首を縦に振ったオジサンの表情が崩れている。そして反対に僕の背筋は凍りあがっている。彼女の奇行に思考がオーバーヒートしそうだ。
オジサンは、妻の様子を見てくると台所の方に向かった。
またまた二人きりになったところで、彼女が告げる。
「間違いないわ」
「何が間違いないのさ。あんな余計な嘘をついて、善良な人を騙すのが君の趣味なのか?」
「あら、わたしが何時、善良な人を騙したのかしら?」
「だって、あのオジサン完全に信じていたよ、君の父親が死んでるって事を」
「別に、どうでもいいのよ、そんなこと、それに」
「それに?」
「あの夫婦は、ここには住んでいないわ」
「………どういうこと?」
「最初に言ったでしょ、あのオバサンが化粧をしているって」
「それが、どうかしたの?」
「ねえ、今は何月かしら?」
「六月だけど」
「田圃には新しい苗が植えられていたわよね」
「ええと、」
「植えられてたの」
「分かったけど、それがどうかしたの?」
「外に止まっていたトラクター、軽トラにも泥がついていたわ。タイヤの後もはっきりとね。つまり、いまは農家にとっては田植えの季節なのよ。それなのに、あのオバサンは化粧をしていた。おかしいと思わない?」
「田植えの季節が?」
「また、難しい方に解釈するのね。まるで誰かに操られてるみたい」
「ほっといてよ」
「いいかしら。田植えって、あなたはやったことないかも知れないけれど、汗を掻く労働なのよ。それなのに、彼女の化粧は崩れてもいないし、ふき取られてもいない」
「確かに。でも、田植えが終わった後に化粧をして、どこかに出かけたのかも」
「その可能性は捨てられないわね。限りなく透明に近いけど」
「でも、それがどうかしたの?」
「さっきオジサンに腕時計を見せてもらったよね」
「ロレックス、金色の」
「あのときオジサンの腕を見たかしら?」
「ええと、」
「見ていないなら素直に答えなさい」
「はい、すいません、緊張で何がなんだか」
「しょうがないわね。あのオジサンの腕には日焼けの跡がなかったのよ。腕時計をしていたのにね。もしも、腕時計をつけて仕事に出ていたら、絶対にそこだけ白い肌が残っているはずなのに」
「帰ってきてから、はめたんじゃないの?」
「どうしてそんな面倒なことをするのよ」
「どこかに出かけたとか」
「その可能性が残っていたか。しかし、これはどうかしら」
と彼女は時計を見せる。そして笑顔で言う。
「わたしの時計は狂っていない」
「でも、さっき十分遅れてるって」
「いいえ、わたしの時計が遅れているんじゃなくて、この家の時計の全てが十分進んでいるのよ」
「つまり、鎌をかけたの?」
「苗は植えられたばかりだけどね」
「なんで、え、どういうこと?」
「あなた、同じことばっかり言ってると頭が悪いと思われるわよ。大体、おかしいと思わないのかしら。荷物を盗まれたって言ってるのに警察に連絡しようとしないし、家の前に止まってたバンのナンバー、あれ横浜だったわよ」
「そうだったの!」
「ええ、これではっきりしたでしょう。あの夫婦は嘘をついている」
「でも、なんで」
「さあ、そこまでは分からないわよ。わたしたちみたいに夕食を頂くつもりだったのか、または勝手に上がりこんで夕食以外を頂くつもりだったのか」
大変ね、と彼女が机に肘をついて頭を乗せる。
「ちょっと、何でくつろいでるんだよ。早く逃げなくちゃ、なんだか嫌な予感がしてきた」
「それは予感じゃなくて、予想よ。それに、わたしは空腹で動けないの」
「だからって、ここにいたら、それに、ここがあの二人の家じゃないとしたら、本物の家主はどこにいるのさ」
「さあ。捕らわれているか、殺されているか。出かけてるっていうのは、ないわね」
「そんな」
「落ち着きなさい」
彼女は、冷たい視線で僕を見た。口元に微笑を有して。
「正義は、右手だけでは溢れるが、両手で持つには足りない」
意味はね、と彼女が片目をつぶる。
「何事も両手で、つまり全力でやったら、それなりに余裕ができるってことよ。だから、いまはお腹を満たすことに集中しましょう。中途半端に正義を振りかざしたってしょうがないのよ。腹が減っては戦はできないって言うでしょ」
「………僕には、逃げるのは飯を食ってからでも遅くないって聞こえるんだけど」
「あら、分かってるじゃない」
再び彼女の本性を見つけて戦慄する僕の後ろで、襖が開かれたかと思うと、口にタオルを噛まされて両手足を縛られた老夫婦が出てきた。釣り上げられたばかりの魚のように身を揺すっている。さっきの会話を聞かれていたのか、瞳がすごく怒っている。
「これで無視できないわね」
彼女は落胆のため息をついて、僕の肩を叩いた。
「忠告しておくわね、ナイフを持っているのは、自分だけとは限らないのよ」
さあ行きなさい、と台所の方を指差された。
「結局、全部僕に押し付けるんだ、面倒くさいことはさ」
「何か言ったかしら」
「いいえ、何も言ってませんよ、なんにも!」