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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.43 / それが私にできる唯一の
Last-modified: 2020-03-18 (水) 14:27:39 (1506d)
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活動/霧雨

それが私にできる唯一の

そう

 もう疲れた。
 茶色に濁った川に視線を送る。
 ここに落ちたら助からないだろう。
 目の前には町の明かりが広がる。地上の星みたいにキレイだ。
 ずぶ濡れの携帯をおもむろに取り出そうとするが、携帯は無い。どこかで落としてしまったのか……。
 誰か来てくれないかな……こんな雨の中、誰も来てくれないよね……。
 誰か……。
 突然、雨の音が変わった。
「こんなところで何をしてるんだ?」
 声に振り向くと私より少し年上の髪で右目が隠れており、黒いロングスカートを履いている女の人が傘を差してくれていた。
「……私……」
 口が動かない……頬を冷たいものが流れる。
「うちに来るか?」
 全身から力が抜ける。
 彼女は倒れそうになる私を支えてくれた。
 なんでだろう……なんで、今日初めてあった人の一言でこんなに安心してしまうんだろう……。

 
 鼻を辛さが襲う。
 何? なんで、鼻に辛さが来るの?
 あまりの衝撃に目が覚める……って、私、寝てたの?
 私は床にしかれた布団の上で寝ていた。床は畳、仏壇もある。和室のようだ。
「起きたか?」
 声の方に目を向けると扉が開いており、向こうの部屋で先ほど会った女の人が鍋で何かを作っていた。辛い匂いはどうやらあの鍋からしているようだ。
「あの……えっと……」
「あぁ、すまない、服も濡れてるから着替えさせようかと思ったのだが、うまく服を脱がせられなかったから、そのままにしてある。よかったら、着替えもあるから、シャワーでも浴びてきてくれ」
「え、あ、ありがとうございます」
 私はタオルで体を巻いてもらい、そのままベッドで寝かしてもらっていたみたいだ。
 寒い……もうすぐ暑くなってくるの時期なのに、雨に濡れたまま放置してたらこんなに冷えるんだ……。私はお言葉に甘えてシャワーをお借りする。
 
 何があったんだっけ?
 服も随分ボロボロだ。この破け方……なんだっけ? 何かに引っかけたのかなぁ……?
 体も所々傷がある。何したっけ? 階段で転んだっけ?
 思い出せない……。
 なんで私はあの時、橋の上で泣いてたんだっけ?

 シャワーを浴び終え、着替えをお借りする。
 服は少しサイズが大きかったが、柔らかくて少しいい匂いがした。
「一応、ご飯も作ったが、食べるか?」
 彼女の声は少しぶっきらぼうだったが、優しい声だった。
「いただきます」
「口に合うといいのだが……」
 彼女が出してくれた料理は……キムチ鍋……!? こんな季節に?
「ん? キムチ鍋嫌いか?」
「嫌いじゃ無いですけど……季節外れだなぁって……」
「そうか、じゃあ、好きなとこに座ってくれ」
「あ、はい」
 ちゃぶ台に彼女の向かい側になるように座った。
「いただきます」
 改めて見ると、赤い……。匂い、見た目でもうすでに辛い。
 でも、味はおいしいかもしれない、そう思い、白菜を口にする。
「どうだ? 口に合うか?」
 私は彼女の話を聞かずに水をがぶ飲みする。
 辛い……というか痛い。
 今まで食べた物の中でダントツで辛い。
 ここまで辛いのを家庭で作れるの? っていうか作ったところで食べれるの……って……食べてる。
 私が悶絶するほどの辛さの鍋を彼女は平然と食べているのである。
「あの、ひょっとして激辛大食い選手権の選手の方ですか?」
「違うぞ」
 はぁ……。
「そういえば、まだ自己紹介をしていなかったな、私は綺堂亜衣(きどうあい)だ。職業は……俗に言うニートってヤツか……で、君は?」
「私は、月代美香(つきしろみか)っていいます。確か、私は八星高校(やせいこうこう)二年生です」
「あれ? 明日は授業じゃないのか?」
 あ、そうだ授業だ……って……。
「あの、今日って何曜日でしたっけ?」
「金曜日だな、あぁそうか、土曜日は休みか」
「はい」
 よかった。
「でも、家の人たちは……」
「寮に住んでるんで」
「あぁ、なるほど」
 彼女……亜衣さんはあいかわらず鍋を箸でつついてる。
「亜衣さんって辛い物好きですか?」
「好きかどうかというよりかは……これしか分からない……」
「分からない?」
「え、あ、いや、今のは忘れてくれ。辛いのは好きだと思う」
 あれ? 亜衣さんってもっとはっきり答えそうな人だと勝手に思っていたので、今の曖昧な返事には違和感を感じた。
「ひょっとして辛いのは苦手か?」
「苦手って訳じゃ無いんですけど、少し辛すぎたかなぁって」
「そうか……じゃあ、ご飯を用意する」
「あ、すみません」
 亜衣さんは引き出しからプラスチックの容器、じゃなかったレンジで温めるご飯を出して、そのままレンジに入れる。
「わざわざ、すみません」
「気にするな、私もちょうど白米が欲しかったところだしな」
 優しい……。

 ご飯をいただいた時、時間は六時半であった……って、まだこんな時間? てっきり八時ぐらいだと……。
「じゃあ、私は出かけるが、月代さんも来るか?」
 亜衣さんは何かが入った手提げを持っている。
「出かけるってどこへ?」
「近くの道場だ、これから合気道の道場に行くのだが、来るか?」

 亜衣さんの家から徒歩数分のところに道場があった。
 商店街の中に埋もれそうな場所であった。
 見た目はほとんど目立たない。商店街の道の中にある小さな分かれ道を進んだところに隠れるようにある道場。ここだけ他の場所とは浮いてる感じがする。。
 そういえば、亜衣さんの家も目立たない位置にあったな。
 道場の中へお邪魔すると、入ってすぐにはお風呂みたいな場所と隣に階段。階段を上ると、すぐに畳の部屋があった。
 ここで稽古するんだ。
「道場に入るときと出るときにはな、こういう風に一礼をするんだ」
 亜衣さんが道場でのルールを教えてくれる。
「そうなんですか」
「あ、禊ぎ場って言ったら分かるか?」
「禊ぎ場?」
「ここに入った時に、階段の近くになんかあっただろ」
「あぁ、あのお風呂みたいな場所ですか?」
「そうだ。あそこに出入りするときも一礼するのが決まりだ。あと、トイレもあそこにある」 
「そうですか、ありがとうございます」
「こんばんは、亜衣ちゃん。その子は誰や?」
 階段の方から男性の声がした。
 振り返ると、坊主頭の男の人が緑の葉が刺さった白い瓶を二つ持ちながら階段を上ってきた。 
「こんばんは。彼女は、今日会った訳ありの高校生です」
「え、君訳ありなん?」
 男の人が少し驚いたようにリアクションをとる。
「あ、いや、訳ありって訳じゃないですけど、月代美香って言います。よろしくお願いします」
「あぁ、そうなん。俺はここの道場生のもんや。名前は覚えんでええで」
 男の人は笑いながら自己紹介(?)をしてくれた。 
 彼はそのまま、一礼をして道場に入り、一番奥にある、神棚にさきほど持っていた容器を置いた。
「なぁ、月代さんやっけ? 君も今日稽古するん?」
「え、えっと……」
「よかったら、見ていき」
 その人は笑いながら、肩を軽くたたく。
「ひっ!」
 私を突然寒気が襲う。
「どないしたん?」
「嫌、嫌……」
 なんで、体が震えるの? なんで今日初めて会ったばかりの男の人に肩をたたかれただけで……男の人に……。
 突然、顔に柔らかい物が覆い被さる。
 顔を上げると、亜衣さんが自分の胸を私の顔に押しつけて抱きしめてくれていた。
「落ち着いたか?」
「え、あ、はい、すみません……」
「ごめん、僕怖かった?」
 男の人が申し訳無さそうに腰を下げている。
「いえ、大丈夫ですよ、ただ、何か嫌なことを思い出しただけだと……」
「そうなん、嫌なこと話したくなったらいつでも言ってな。解決はできへんと思うけど、話聞くぐらいならいつでもするで」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、更衣室お借りしますね」
 亜衣さんは私を離して、そのまま階段の隣の部屋に入り、カーテンを閉める。
 更衣室ってそこ? 狭い。あと、仕切るのが扉じゃ無くてカーテンって……。
「ちなみに男子更衣室ってどこですか?」
「あそこやで」
 男の人が指を差した場所は女子更衣室から歩いて数歩のところにある部屋だ。出入り口からは女子更衣室が見えないようになっているだけ考えられているが、広さは女子更衣室と対して差はなく、こっちも仕切りはカーテンである。
「あの、奥の部屋は?」
 男子更衣室より少し奥に進んだところに小さい畳の部屋がある。
「ああ、あそこは先生の部屋やで」
「へぇ、そうなんですか」    
 先生の部屋か……額にかかった写真もあるなぁ。
「じゃあ、僕も着替えてくるな。道場内でも見といて-」
「あ、はい」
 
 お言葉に甘えて道場内を見させていただいたが、壁一面の鏡があり、道場の壁の上部分には一周するように墨で書かれた書が額に飾られていたり、私にはなんかすごいということしか分からなかった。

 あれから人がたくさん来て、稽古が始まった。
 参加者は大学生や、社会人と様々だ。黒帯の人もいれば白帯の人もいた。
 前でもうおじいさんにしか見えない人が今からする技を見せて、それを何人ずつかに分かれて練習するというものだ。
 私も中で混ぜてもらって稽古したが、先生の言ってることが全然分からない。
 私より腕力が無さそうなおばあさんでも、体格のいい男の人を平然と投げていたり……。
 今回、私が分かったことはただ一つ、なんかすごいことやってる。
 いや、分かったこともあったな。
 道場の壁に飾られた書は偉い先生が書いた書であるとか、鏡は自分の動きを自分で見れるようにするためのものである、ちなみに割ったら罰金らしい。
 他にも分かったことといえば……。

「合気道では『もろたら返す』っていうのがあるらしいんですよ」
 同じく道場に来て稽古をしている身長の高い大学生の男の人が言っていたことだ。
 彼の説明によると、合気道は相手の力を利用して相手を制する武道……言い換えると、相手から力をもらって戦う武道。これにちなんで相手からしてもらって嬉しかったことを他の人に返すというものがあるらしい。例えば、先輩からしてもらった恩を後輩に返すといった感じで。
「うろ覚えなんで詳しい話は他の人に聞いてください」
 と、彼は自信なさげだったが、素敵な文化だと思った。

 稽古が終わったらみんなで道場の掃除、掃除が終わったら帰る人もいれば、しばらく残ってしゃべっている人もいた。
「あ、今日はどうやった?」
 私に話しかけてきた男の人は、細身で白髪、それなりに年がいっていそうだが、若々しい、そんなおじいさんだ。
「えっと、よく分からなかったです」
「まぁ、そうでしょ、最初は分からないもんです……例えばね」
 そのおじいさんはまるで魔法のようなものを見せてくれた。
 私を触れずに操ったのだ。
 おじいさんが肩を落とすと、私も肩が落ちる。
 おじいさんが少し手を動かしただけで、私は倒れる。
 おじいさんの手に体が勝手についていってしまう。
 まるで、私はおじいさんの操り人形になってしまったかのようだ。
 で、最後におじいさんはこう言う。
「ね、面白いでしょ」
 
 道場で偉い先生が、お腹止めるとか、指先から気を出すとか、螺旋とか言っていたが、正直分からない。でも、道場にいた人たち曰く、「最初から分かる人なんていないよ」だそうだ。
 あと意外だったのは、亜衣さんって白帯だったということ。勝手なイメージだけど、亜衣さんは黒帯のイメージだった。なんとなくだけど。
 でも最初、男の人に肩を叩かれた時にどうして、寒気が襲ってきたんだろう? その後、寒気が襲ってくることは無かったのはよかったけど、あれは一体なんだったんだろう……?

「稽古後のラーメンはいい物と聞いたのだが、どうだ?」
 私は稽古が終わった後、亜衣さんに道場の近くのラーメン屋に連れて行ってもらった。
 少し量が多い上にこってりしている、あと麵がうどん並に太い。一番小さいサイズにしてもらったはずなのにかなりの量だ。道場に行く前に亜衣さんの家でキムチ鍋をたくさん食べてしまっていたら、完食は叶わなかっただろう。あれがあまり食べれないほど辛くてよかった……。
「知り合いがラーメン屋をやっているから、今度はそっちに連れて行こう。ここからだと結構歩くけどな」
「はい! お願いします!」

「すいません、泊めてもらうことになってしまって……」
「いいんだ、気にするな」
 亜衣さんに一晩泊めてもらうことになった。
 随分お世話になった。濡れてた服を洗濯してもらったり、シャワーを貸してもらったり、着替えを貸してもらったり、道場に連れて行ってもらったり、ラーメンをおごってもらったり……なんで、ここまでしてくださったんだろう?
 でも、ありがとうございます。このご恩はいつかお返しします。
 亜衣さんからお布団を貸してもらって、私はその中でまぶたを閉じた。

 
「待ってやおらぁ!」
 男の人の罵声が聞こえる。え? 何? 私を追っているの?
 なんだかよく分からずに私は走り出す。
 怖い。
「待てや! このアマァ!」
 なんで私を追いかけるの?
 私が何をしたの?
 私が……。
 髪が掴まれて、地面に引き倒される。
 引き倒した男は私の上に馬乗りになる。
 殺される! 嫌!

 嫌! 嫌! 嫌! 嫌! 死にたくない!

 私は必死に抵抗する。
 誰か! 誰か!

「おい!」
 亜衣さんの声で目が覚める。
「亜衣さん……?」
「随分うなされてたが……」
「ちょっと、怖い夢見ちゃって……」
「……そうか……また見たら、私を呼んでくれ、なんとかするから」
「ありがとうございます」
 亜衣さんのおかげで少し落ち着いた。今度こそ眠れると思う。

「おはようございます」
 あれからは特に怖い夢を見ることは無かった。亜衣さんがそばにいてくれると思うと安心できた。
「おはよう」
 亜衣さんはぶっきらぼうに返すと同時に、テレビを消した。
「別につけたままでいいですよ」
「そうか」
 亜衣さんはそう言いながら、またテレビをつけた。
「警察はこの男性の身元を……」
「えーでは、今日の天気です」
 亜衣さんはなぜかテレビをつけた瞬間にチャンネルを変えた。どうしてだろう? ま、いっか。
「朝ご飯できてるが、食べるか?」
「いただきます。ありがとうございます」
 昨日のラーメンが響いてお腹はそんなに空いていないのだが、食べないと昼間で持たなさそうだ。
 

「で、これからどうする? もう少しここにいるか? それとももう帰るか?」
 亜衣さんからの質問。
「んー、あんまり長くいても悪いですし、もう少ししら帰りますね」
「そうか、私は別に構わないんだけどな」
 亜衣さんは優しいなぁ。
「お気持ちありがとうございます。ですけど、そろそろ帰らないと、明後日学校ですし……」
「そういえばお金持ってるのか?」
「……あ」
 そういえば、なぜか私の手元には財布が無いんだ。財布だけでなく、携帯も定期も無い。手元にあるのはボロボロに破れた制服のみ。ホント何があったんだろう……?
 
 ピンポーン!

 インターホンが鳴る。誰だろう?
 亜衣さんが扉を開け、誰かと話している。
「美香さん、お昼ここで食べていくか?」
 亜衣さんが私に呼びかける。
「いや、お昼まではさすがに帰ります。お気遣いありがとうございます」
「そうか、分かった」
 その後、誰かは帰っていき、亜衣さんは家の中に戻ってきた。
「今の人は?」
「知り合いだ。昨日話してた知り合いのラーメン屋に寄るらしいから、出前運んでこようかぁって、もしよければ美香さんの分もって思っただけだ」
 そういうことか。
「ありがとうございます、じゃあ、私はこれで」
「駅まで送っていくよ」
 
 亜衣さんに徒歩で駅まで送ってもらった。
「これだけあれば足りるだろ。残りはいらない」
 亜衣さんは私に千円札を手渡してくれた。
「ありがとうございました。もしよろしければ、今度は私からごちそうさせてください」
「楽しみにしてる」
 亜衣さんは笑みを返してくれた。

 幸い、家の最寄り駅とはそこまで離れていなかった。
 亜衣さんからいただいた交通費は半分も使わずに済んだ。 
 家まで歩きながら考える。
 私に何があったんだろう?
 ここ数日の記憶がない。
 最後に学校に行ったのいつだっけ?
 火曜日に沙織と木曜日のテストがヤバいという会話をした記憶はある。
 で、木曜日のテストどうなったんだっけ? あれ? そもそも、私木曜日のテスト受けたんだっけ?
 
 
 なんとか家にたどり着くが、鍵が無い。
 しまった。家の鍵も無いのか……。
 ダメ元でドアを開けてみると、鍵はかかっておらず、普通に入れた。
 あれ? 私、家のドアに鍵かけずに出たの?
 ダメだ。全然思い出せない。
 家に入ると、特に荒らされた様子は無さそうだ。
 でも、何か違う……。
 どこか違和感を感じながら、家の中へ入っていく。
 なんで?
 机の上にはなぜか無くしたはずの携帯と財布があった。
 どういうこと? 
 とりあえず、携帯の電源を入れる。
 不在着信が三十三件。
 全部、木曜で沙織からかかってきている。
 あれ、ってことは私、木曜日学校に行ってない?
 でもどうして?
 
 ピンポーン!

 インターホンが鳴る。
 誰だろう?
 扉を開ける。
「宅急便です」
 聞き覚えのある声だ。
 体が震え出す。
 私は急いで扉を閉める。
 逃げないと。
 でも、男は扉の間に手を挟み、無理矢理扉を開けようとする。
「いきなり、それはないんじゃないですか、お客様?」
 あぁ、そうだ、思い出した、私の身に何があったか。
 じゃあ、今私がやるべきことは……急いで携帯に手を……なんで?
 家の中にも男の人がいた。
 体格のいい男の人だ。
 しかも、この人って……。
「じゃあ、おやすみ」
 私の腹部に激痛が走り、そのまま床に倒れる。
「友達に会わせてやる」
 薄れゆく意識の中、男はそう言った。
 どういう意味?
 だが、それを考える頃には私の意識は遠いところに行っていた。

 あれは水曜日、家に帰ったあと、買い物にコンビニに行った時のことだった。
 私は突然、後ろから誰かに襲われて、そのままどこか知らないところに連れて行かれて、そこで……された。
 痛かった。
 辛かった。
 怖かった。
 しばらくしたら、チャンスが来た。
 私はそのまま逃げた。全力で。
 でも、気づかれてしまったみたいだ。
 追手が来た。
 私は足がそんなに速くないので、追いつかれて馬乗りにされた。
 そのまま暴行をされる。
 痛い。
 怖い。
 このまま、殺されるの?
 嫌! 嫌! 嫌! 嫌! 死にたくない!
 私は必死に抵抗する。
 誰か! 誰か! 助けて!
 私は手探りで何かをつかむ、そのままそれで男の顔面を殴る。
 男は痛みによろめく、そのまま、私は馬乗りから解放される。
「何すんだ! このアマァ!」
 男が体制を立て直す前にもう一撃を加える。
 男はまた揺らめく。
 ダメだ。こんな傷じゃ、すぐに追いつかれてしまう。もっと、絶対に追いつかれないほどの……。
 私は手に持った固い物で男の顔面を何度も殴打した。
 殺されたくない! 
 死にたくない! 
 生きたい!
 もう男が動かなくなった。血まみれで倒れていた。さっきまでのように怒鳴ったりも殴ったりもして来ずに、焦点のあっていない目で空を見ながら倒れていた。
 私の服も腕も私が持っている固い石も赤く濡れていた。
 これだけ殴れば追って来れないはず、私はそのまま逃げた。
 静かに雨が降ってきた。
 そのまま走って、歩いて……雨宿りはせずひたすら逃げた。
 逃げるにつれ激しくなる雨に体に付いた血が洗い落とされる頃には我に返り、一つの事実に気がついた。
 
 私は人を殺してしまった。 
 
 体の震えが止まらない。
 単なる恐怖じゃない。 
 何か取り返しのつかないことをしてしまった、何か人として大事な物を失ってしまったという恐怖……いや、これは恐怖とは少し違う。
 じゃあ、なんなの? 私を襲っている感情は?
 分からない。
 逃げたい。
 楽になりたい。

 もう疲れた。

 逃げた先の橋の下では川がうねるように流れていた。
 この中に身を投げれば逃げられる。
 楽になれる。
 そう思うのに……怖い……。
 町の明かりを見る。
 携帯を取り出そうとするが、見つからない。どこかで落としてしまったのか。
 誰かに会いたい。
 誰かと話したい。
 誰か……助けて……私が思いとどまってるうちに……誰か……来て……。
「そんなところで何をしてるんだ?」
 あと、一歩で飛び込めるときに亜衣さんが来てくれたんだ、助けてくれたんだ。
 ありがとうございます。亜衣さんが来てくれて嬉しかったです。
 亜衣さん、私が人を殺したって知ったら、どんな顔するのかな? びっくりするかな?

 目が覚めると、そこは薄暗い廃工場だった。
 金属の柱がところどころにあるだだっ広い空間。
 コンクリの地面。
 私はそんなところで寝転がっていた。
 体を動かそうとすると、手足が縄で縛られていた。
「よぉ、目が覚めたか」
 少し遠くから体の大きい男の人が話しかけてくる。私のお腹を殴ったヤツだ。
 あぁ、そうか、私、また捕まったんだ……。
「約束通り、友達に会わせてやるよ」
 そんなこと言ってたっけ……って、友達ってまさか!
 奥から男が連れてきたのは……嘘……。
「感動の再会だ、もう死んでるけどな」
 男は連れてきた沙織を私の目の前に投げ捨てる。
 沙織の姿は、無残だった。
 いつもの私に笑いかけてくれていた沙織じゃない。
 彼女の表情は絶望に満ちていた。衣服がボロボロに破かれ、体中の至る所に傷があり、私が知らない間に何があったかなんて想像したくなかった。
 私の頬を冷たいものが流れる。
 嫌だ。
 目をそらす。
「おら! しっかり目に焼き付けな! お前がやらかしたことをな!」
 男の一人が私の顔を掴み、沙織の方に向けさせる。
 沙織の焦点が合っていない目と目が合う。
 彼女の目にはもう光が無い。
 漫画でしか見たことの無い死んだ人の目。
 今まで他人事のようにしか思っていなかった光景が目の前にある。
「それにしても、この女はかわいそうなヤツだったなぁ、お前が逃げ出さなければ、俺らはコイツと会うことなんて無かったのになぁ!」
「……どういう意味……?」
 男が私の髪をつかんで持ち上げる。
 痛っ!
「ああ、教えてやるよ。お前が逃げ出した後、俺らはお前を追って、家に行ったんだよ、そしたらな、そこの女がいて代わりに誘拐させてもらったって訳、ついでにお前の居場所を知らないか、たっぷり拷問もしてな、あぁ、楽しかったなぁ、最後はもう泣いて泣いて、あれは滑稽だったなぁ、はっは!」
 男は愉快そうに笑う。
「ふざけるな……!」
「あ?」
 男が急に私を蹴り飛ばす。あまりの威力に咳き込む。
「おい、ふざけるな? どの口が言ってんだ? お前も俺らの仲間殺したくせになぁ!」
 またあの感覚が襲いかかる。
 そうだ、私もコイツらと一緒だったんだ。
 私もこのゲスどもと同じ人殺し……。
「さてと、俺らに刃向かった礼はきっちりさせてもらうぜ、おいお前ら!」
 男が呼びかけると、奥から十人、いや、三十人近くはいる。
 体格のいい男たちが出てくる。
「大丈夫だすぐに殺しはしねぇよ」
 男が指を鳴らしながら近づいてくる。 
「自分のしたことをたっぷりと後悔する時間はやるからよぉ」
 あぁ、そうか、こんなゲスどもに殺される、人を殺しておいて、そのことを無かったかのように過ごしていた私にはふさわしい最期かもしれない。
 あの世で、沙織に謝らないと……私のせいでごめんって……。

「なんじゃ、お前! ぐあぁ!」
 男の悲鳴が聞こえた。
 何事かと思い、男たちが後ろを見る。つられて私も悲鳴の方を見ると、体格のいい男性が一人倒れており、近くには一人の女性が立っていた。
 黒いロングスカート。
 右目が隠れた黒い髪。
 亜衣さん……。
「なんだお前!」
 男が威勢よく怒鳴る。
「ただの引きこもりだ」
 亜衣さんは動じることなく答える。
「ふざけるな!」
 男の一人が殴りかかるが、次の瞬間倒れていたのは亜衣さんではなく殴りかかった方の男性だった。
「面倒だ、一人ずつじゃなくて全員で来い」
 亜衣さんは挑発するように手で呼びかける。
「ふざけるな、このアマァ!」
 男たちが一斉に亜衣さんに襲いかかる。中には素手ではなくて、鉄パイプや木刀を持った男性もいた。
 一方の亜衣さんは丸腰。勝ち目なんてあるわけ無い。
「逃げて! 亜衣さん!」
 しかし、亜衣さんは動じること無く、男たちの攻撃を捌き、子供を寝かせるかのように倒す。
 男性の攻撃を流して、他の男性にぶつける。
 攻撃してきた男性の動きを流してコントロールして、他の男性の攻撃を受ける盾にする。
 信じられない光景だった。
 武器を持った体格のいい男性、三十人が、丸腰の華奢な女性一人に赤子扱いされるなんて。
 気がつくと、亜衣さんに襲いかかった男性たちは一人残らず倒されていた。
「無事か?」
 亜衣さんがこっちに近づいてくれる。
「やるじゃねえか」
 物陰から、体格が他の男より一回り大きい男が現れた。
 男の服装は奇妙だった。黒いタイツのようなスーツに全身が覆われており、しかも、スーツには奇妙な液体が塗られている。
「お前、そこそこ強いな」
 亜衣さんの雰囲気が変わる。
「へぇ、お前こそやるじゃねぇか、俺の部下を全滅させても息一つ切らさねぇとはなぁ」
 男は首をバキバキ鳴らす。
「でも、これで終わりだ」
 男はガスマスクを装着し、手に持っていたライターに火をつけた。
「ライターでも投げつけるのか? それくらい余裕で躱せるぞ」    
「まぁまぁ、面白いモン見せてやるよ」
 そう言うと男はライターの火を自分のスーツにつけた。
 すると、男の全身が炎に覆われた。
「なんだ? 大道芸か?」
「死ね」
 男は炎に覆われた体で亜衣さんに蹴りかかる。
 亜衣さんは裁こうとするが、炎にひるみ距離を取る。   
「やるなぁ、今のを躱すとは……」
「……なるほど、体中に塗られていた液体は炎を長時間燃やすための物、あの妙なスーツとガスマスクは炎から体を守るための物だな」
「今の一瞬でそこまで見抜くとは大したヤツだなぁ!」
「スーツのおかげで火傷はなんとかなるとして、炎を全身に纏って熱くないのか?」
「よく言うだろ、心頭滅却すれば火もまた涼しってなぁ!」
 男は勝ち誇ったように亜衣さんに殴りかかる。
 亜衣さんは触れることができずに躱す。
 躱して、転がって、こっちに近づいてきた。
「いつまで逃げられるかなぁ! 全身に纏った火により体温を上げ、身体能力を上げた俺の攻撃をなぁ!」
「バカが考えそうなことだな」
 男の猛攻をしのぎながら、亜衣さんは私の目の前を通り、私を境目として、先ほど男たちと戦った場所と反対サイドに来た。
「はぁ、はぁ」
「ようやく息が切れてきたみたいだな! これで終わりだぁ!」
 男が殴りかかるが、次の瞬間男は倒れていた。
「なんだと……! バカな! 俺に触れたらお前は……!」
「心頭滅却すれば火もまた涼しだったな、試してみたが熱いな、まだ心頭滅却し足りないということか……」
 亜衣さんが痛そうに右手を押さえる。
 あの炎の体に触って投げたんだ。
「心頭滅却に挑戦したかったから無茶をしてみたが、慣れないことはするものではないな……」
「まだ、勝ったと思うなぁ!」
 男が激昂しながら立ち上がる。
「面白い物を見せてもらった礼だ。私も面白い物を見せてやろう」
 男が叫びながら亜衣さんに殴りかかるが、男の動きが亜衣さんの前で止まり、亜衣さんが手を動かすと、まるで操り人形のように亜衣さんに操られ、地面に倒れた。
 男はその後も立ち上がるが、そのたびに亜衣さんに操り人形にされ、倒れる。
 あれは、昨日道場で、白髪のおじいさんが私に見せてくれた技だ。
「クソォ! こうなったら……!」
 男は再び激昂するが、纏っていた炎は消えた。
「何か奥の手でもあったのか? だが燃料切れだ。あの液体の量じゃそんなに長い時間、火を纏える訳ではないだろうしな、燃える燃料が無くなれば火は消える。小学生でも知ってることだ」
「クソがぁぁぁ!」
 男は叫びながら亜衣さんに殴りかかる。
「終わりだ」
 私が瞬きした時にはもう、男は背中から勢いよく地面に倒れていた。亜衣さんは右手で男の右手を握っていた。
 多分、男のパンチを流して、両手でその右腕をつかんで、地面に叩きつけたのかなぁ。分からないけど。
 詳しいことはまた道場で教えてもらえばいい……いや、行くことはないだろう……。

 その後、私を誘拐した男たちは警察に捕まった。
 亜衣さんと私は病院に連れて行ってもらった。
 亜衣さんと私は比較的軽傷ということで、亜衣さんはすぐに退院。私は数日の入院で済むらしい。
 私の殺人は正当防衛ということで無罪ということになるらしい。
 亜衣さんはチャンネルをすぐに変えてくれたから気づかなかったが、私が殺した男の死体は発見され、ニュースになっていたそうだ。
 亜衣さんは最初から気づいていたのかもしれない……私が人を殺したということに……。
 
 フラリと病院の屋上に行く。
 空はまぶしいほどの青空だった。
 亜衣さんには申し訳ないですけど、飛び降りようと思います。
 やっぱり、おかしいと思うんです。
 何も悪いことをしていない沙織が殺されて、人を殺してしまった私がのうのうと生きてるなんて……しかも、沙織は私のせいで死んだのに……。
 私には耐えられない……私のせいで親友が殺されたのに、私が生き続けるなんて……。
 病院のフェンスにまたがる。
 目下には人の営みが広がる。
 人がアリのように小さく見える。
 ここから落ちたら痛いんだろうなぁ……別にいいや……。
「何をしてるんですか?」
 声の方を振り向くと、私と同年代ぐらいの女の子がいた。
 ごめんね、こんなとこに居合わさせちゃって……。
 彼女が来たころにはもう私は重力に身を任せていた。もう、体勢を立て直すのは不可能だった。
 あぁ、目を閉じれば会える。

 あれ? 手が痛い? 全身が痛いなら分かるのだが、痛いのが手だけとはどういうことだろう?
 目を開けると、先ほど、ドアから出てきた少女が私の手をつかんでいた。
 フェンスの隙間から手を伸ばし、私の手をつかんでいる。
「すぐ助けますから、待ってくださいね」
 別にいいんですよ、助けなくて、私は楽になりたいんですから、痛い思いをしてまで助けなくていいんですよ。
 手を離して欲しいと声が出なかった。どうしてだろう?
「引き上げますから、両手でつかんでもらっていいですか?」
 助かりたいわけじゃないから別にいい。
 汗で手が滑る。
 もうじき、落ちるのだろう。
 あぁ、沙織の場所へ行ける。
 もうすぐ……。
 ごめんね、私なんかのために痛い思いをさせて……。
 手が離れる。
 もう、重力に身を任せるだけだ。
 しかし、すぐに誰かが手をつかむ。
 誰? 
 恐る恐る上を見る。
 嘘でしょ?
 私の手をつかんでいたのは他の誰でもない沙織だった。
 どうして?
「生きて! 私の分も生きて!」
 沙織の声だ……!
 頬を熱い物が流れる。
 胸の中から熱いものがこみ上げてくる。
 そうか……私は生きたかったんだ。
 私は沙織の手を両手で掴み、壁をよじ登る。
 途中から、見ず知らずの少女の手も掴み、よじ登る。
 二人に助けてもらい、私は屋上に戻る。
「ありがとうございます……! ありがとう、沙織」
 周りを見渡すが、沙織はいない。
「あの、もう一人いませんでしたか?」
「いや、ここには私とあなた以外いないですよ」
 彼女は何も知らないかのように言う。
 じゃあ、あの沙織は……。
「あ、私、黒山露水(くろやまろみ)っていいます。あなたは?」
 少女は私に自己紹介をする。
「私は月代美香っていいます。よろしくお願いします」
 
 
 ロミさんのおかげだろうか?
 退院するまで、もう自殺しようという考えは出てこなかった。
 でも、正当防衛とはいえ人を殺してしまった私がのうのうと生きていていいのだろうか?
 裁かれなくていいのだろうか?
 私のせいで沙織は死んだのに……のうのうと生きていていいのだろうか?
 気が付いたら初めて亜衣さんと出会った橋の上にいた。
 ちょうど、亜衣さんの家と病院の間にある橋……多分、あの日、亜衣さんは病院から帰る途中だったのかなぁ……?
 ふと、下に流れる川を見る。
 穏やかな流れ。ここに落ちてもそう簡単には死ななさそうだな。
「どうした? 私との約束は忘れたのか?」
 聞き覚えのある声、振り向くと、そこには亜衣さんがいた。
「あの、お久しぶりです」
「あぁ、久しぶりだな」
「あの、ケガの方は?」
「あぁ、軽い火傷だ」
 亜衣さんは微笑みながら、白い包帯が巻かれた右手を見せてくれる。
 私のせいで亜衣さんもケガをした……。
「そうだ、知り合いがいるラーメン屋でも行くか?」
「いや、でも……」
「退院祝いだ、何かさせてくれ」
「ありがとうございます」  
  

 少し歩いた先にあるそこまで人通りが多くない通りに亜衣さんが言っていた店はあった。
 店内はこの時間帯にしては人は多くなかった。
「あれ? 亜衣さんが来るなんて珍しいですね」
「気分だ」
「で、そちらの連れは?」
「知り合いだ」
 店内で話しかけてきたのは私と同年代ぐらいの男の人だった。
 彼に案内されるままに席に着き、メニューを見る。
 そこそこ種類がある上、それぞれのスープを混ぜて、新しい味を作ることができるという変わったラーメン屋だ。
「で、ご注文は?」
「豚骨醤油激辛ラーメンニンニク唐辛子マシマシ大盛りを頼む、月代さんは?」
「醤油塩豚骨味噌ラーメンを」  
 カオスな組み合わせをしてしまった。
 
「そういえば、亜衣さんはどうしてあの場所が分かったんですか?」
 私が監禁された時、亜衣さんは助けに来てくれた、でも、亜衣さんはどうやって場所を突き止めたのだろうか? 亜衣さんは超能力者じゃないし、一番現実的なのは私の携帯のGPSをたどるというのだが、私の携帯の番号を知ってるわけ無いし。
「……さぁな、風の知らせだ」
「え、ちょっと……」
 絶対違うと思うけど、これ以上聞けなかった。
「あぁ、そうだ、ここの店員はな、副業でなんでも屋をやってるんだ」
「俺は探偵です」
 店員さんが即座に否定する。   
「助けて欲しくなったら、コイツに頼め、多分助けてくれるだろ」
「あ、そうなんですか……」
「他にも、何か話したくなったら、私の家か道場にでも来てくれれば、話ぐらいは聞く……だから……」
 亜衣さんの言葉が詰まる。
「ありがとうございます……あ、そういえばまだ聞きたいことがあるんですが……」
「なんだ?」
「あの、体に火をつけてた男と戦っている時、どうして最初から触れずに倒すっていうのをやらなかったんですか?」
 亜衣さんは、最初は逃げ回っていた。触れないと倒せないというのであればまだしも、触れずに倒せるのに逃げ回る必要は無い。その後の攻撃も一発目は触れて攻撃をしていた。最初から触れずに攻撃をしていたら火傷なんてしなかったのに。
「あぁ、やろうと思えばできたんだけどな……後がめんどくさそうだったんだ……火事になりそうで……」
 火事? 
「あそこには私が倒した男たちがいた。下手にあの男を倒したら倒れた男たちに火が燃え移り火事になった可能性があった。だから、私はあの男を倒すときは倒れている男から離れたところに誘導する必要があったんだ。あと、その後でもわざわざ触れて攻撃したのはあの男が言っていた『心頭滅却すれば火も又涼し』とかいうのが本当か試したかっただけだ」
 なるほど……ってちょっと待って、まさか、あの時亜衣さんは逃げ回ってるように見えて、あの男の動きを完全にコントロールしていたってこと? 亜衣さんが凄いということは分かっていたけど、まさかここまでだったなんて……。
「木刀とか拾って攻撃しろよとか思ったかもしれないが、相手も意外とやるようでな、拾えなかったよ」
 そんなこと考えてませんでした。
「何か分からないことはあったか?」
「あ、いや……そうだったんですか、ありがとうございます」
 なんだろう、他にも聞きたいことはあるのに……あ、そうだ。
「あの、最初に道場に案内してもらった時に白い瓶をもった男の人に私が怖がってしまったことを覚えていますか?」
「そういえば、そんなことがあったな」
「あの人、顔つきが少しだけ似てたんです……私が殺してしまった男の人に……」
「……そうか」
「あの人に、私がすみませんでしたと言ってたと伝えてくれませんか?」
「分かった、でもあの人は気にしてないと思うけどな」
「ありがとうございます」
 しばらく沈黙が続く。言いたいこと、聞きたいことはまだあるはずなのに、言葉が出てこない。 
 苦しい……楽になりたい……でも、楽になりたいなんて、甘えなんじゃ……。
「楽になりたいと思って何が悪い? 人間だろ?」
「え? あの、口に出てました?」
「さぁな」
 相変わらずぼかした言い方をする人だ。
「別にいいだろ、楽になりたいと思っても、死んで自己満足な償い方をするよりは、誰かに頼っても、間違っても、甘えに逃げても、挫けても、生きてる方がよっぽどいいらしい」
 らしい?
「知り合いの医者が言ってた」
 知り合いが言ってたことなんですね。
「ま、ソイツ曰く、罪を償う唯一の方法は『自分の罪から逃げずに向き合い続けて生きること』、でもだからといって一人で抱え続ける必要は無い、極端な話、生きるためであれば一旦逃げてもいいんだと」
 逃げる……。
「まぁ、一度に何度も言っても分からないよな、まぁ、また分からなくなったら聞いてくれ」
「はい」
 正直、私は分かってない、自分の罪と向き合い続けなければならないということと逃げてもいいって矛盾してないか? とか思うことは沢山ある、でも一つだけ分かったこと、それはとりあえず生きろということなのだ。

「あの、どうしたんですか?」
 亜衣さんと出会ってから三ヶ月ほど過ぎた夜のことだ。
 亜衣さんに紹介してもらった道場の稽古帰りになんとなく亜衣さんと出会った橋を通ったら、川の方を眺めている私と同年代の女の人がいた。
「え、え、あの……」
 私が話しかけたら彼女は泣き崩れた。
 あぁ、あの日の私と同じことをしようとしていたんだ。 
 あの日、亜衣さんと出会えてなかったら、私はここにはいない。
『もろたら返す』でしたっけ、私は亜衣さんに助けてもらった……だから今度は、私が誰かを助ける番だ。
 それが沙織を死なせてしまった私ができる唯一の罪滅ぼしなのだから。