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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.48 / Q & Q
Last-modified: 2020-12-22 (火) 22:28:56 (1460d)
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活動/霧雨

Q & Q

あゆかわつくる 

 列車は山からかわぞいのところに抜けてきて、風のかたちが草原の草がいくつもたおれるからよく分かった。窓をあけてみると、ぎいと音がして、ばしっとあいた。勢いあまって手をぶつけてしまう。風がびゅうっとふいて、かぶっていた帽子がうしろにふきとんだけれど、あごひものおかげでぼくの首にひっかかってやさしく食い込むだけだった。
 終点までの列車はすいていて、鉄のふれあう音をさせながら、まっかな鉄橋をわたっていく。
 ぼくは、夏休みあけの九月のはじめに転校することになった。なんでもそこではみんな学校内の寮でくらしているらしい。革でできたおおきなかばんには、夏用と冬用の洋服一式と、いくつかの下着、ずっと使ってきたマグ・カップ、これがないと夜ねむれないお魚クッション、お気に入りの本をいれている。これでもかなりおもたくて、列車のいすの上に載せたら、柔らかい布地にたくさんのしわがついた。
 駅にはあんがいすぐついた。というのも、ぼくがすっかりねむってしまっていて、車掌さんに起こされたときにはもう終点だったのだ。列車から降りるひとはあんまりいなかった。たぶんぼくが最後だったんだろう。
「ごめんなさい。すっかりねむっちゃってて」
「きみはあの学校の生徒? みない顔だけれど」
「転校生なんです、」
 車掌さんは、四角いかばんに納得して、ねむっちゃうほどゆったりした気分なら大丈夫だよ、と言って扉の奥に消えていく。あったかい風が吹いて、寒さがやわらぐ。おもわずあくび。
 改札をでると先生が待っていると聞いていて、見ると、ひとり待っているひとがいたので近づくと、
「きみが転校生のつくるくんですね」
「はい、まちがいありません」「あの、学校はここからちかいんですか」重たい荷物をかかえて歩くのはいやだった。
 先生はここからすぐそこの丘の上を指さして「あの塔の先が見えますか、あそこが学校です。すぐつきますよ」
 説明によると、駅も学校も街のはずれに建てられているようで、土地の広さがいるものは、不便だけどみんなはじっこにつくられているらしい。
 道はざらざらしていて、砂ぼこりがたった。先生はすたすたと歩いて行って、足音がぜんぜんしない。ほんとうにすぐ学校の門が見えてきた。ガラスのはまった小さな塔に挟まれて、縦線がたくさん走った真っ黒の門がどしんとある。門まで並木道になっていて、葉っぱ越しに空を見上げると真っ白な太陽で視界がくらんだ。
 あたりはすっかり日曜日のひざし、香り、そして気分だった。
「はじめに校長先生にあいさつしなくちゃあ」
 先生は少しおどろいたようだった。そして笑ってから、「わたしが校長ですよ、つくるくん」
 えっ、とこぼして、
「ごめんなさい、まさか校長先生がじぶんでお迎えにきてくれるなんてちっとも思わなかったので……」
「日曜でみんな暇ですから。それにそんなにたくさん先生がいる学校でもないのでね」ひと呼吸おいてから、「さあ、まずはきみの同室のちふゆくんに挨拶したほうがいいですね。彼は恐らく図書室にいますから」

 建物はれんが造りで、あちこちにつたが生いしげっている。窓は深い蔭をつくって、木々はこすれてさらさらいう。寮と教室と、そのほかの部屋があつまった建物と、大きく三つの建物があって、それぞれは渡り廊下でつながっていた。
 蔭が深くなって、ぼくのからだをななめに切りさく。
 あたりは森になっていて、学校の中からも外側からも、お互いを見ることはできない。
 とたんに寒くなってきてぶるっと震えた。たぶん、初めての場所でこわくなっているのかもしれない。
 図書室は、三階のはしっこにあって、学校の入り口からいちばん遠いところにあった。木製の階段は踏むたびにぎいとなって、何重にもかけられたワックスが日光にきらきら反射する。手すりもこすれて黄色くなっていてなめらか。案内図はあんまり親切じゃない。
 図書室のガラス戸はくもりガラスで、なかの様子がすこしうかがえる。あの茶色い壁みたいなのは本棚だろう。灯りがついていて、先生の言っていたちふゆくんがいるんだろう。
 ノックしようかと思った、けれどみんながつかうところだし、なんにもせずに扉をあける。想像よりずっとうるさくて、ちょっぴり後悔した。
「あ、あの……ちふゆくんいますか、ぼく、先生に君にあいさつするようにいいつけられて」
 お昼まで灯りがついているはずなのに、図書室はとっても薄暗い。かび臭い匂いがこもっていて、本はどれも背表紙がいたんだ古そうなものばかり。
 ぱん、と奥の方で本を閉じる気配がしたので、そちらに向かっていった。「えっとぉ……」「いるなら返事してほしいな」
 両手をにぎってむねの前に置く。両側にせまってくる本の壁は、それだけで充分ぶきみ。一列ずつ見ていったけれど誰もいない。おかしいな、すみっこまで来てしまった。
「ね、」
「ひゃい!」後ろからとつぜん声をかけられて、うらがえったへんてこの声をだして振り返ると、ぼくと同じ背丈くらいの仔がいた。
「だれ?」ぶっきらぼうな言い方になる。持っていた帽子でくちもとを隠した。
「ぼくがきみのお探しのちふゆだよ、君はがつくるくん?」
「先生から聞いてたの、」
「ぼくたち同室だからね、いっしょに暮らすんだから」
 ちふゆくんは、はい、と手を突き出す。あ、握手かと手を差し出したら、途中でつかまれてひっぱられた。
「……あったかいね」
「ずっと部屋のなかにいたし、ミネストローネ飲んでたから」そう言って手に持っていた水筒をみせる。「せっかくだしあげるよ、あっちにいこ、梯子もあるから。椅子代わりにはなるよ」

 水筒のふたをあけて、逆さまにしてコップがわりにした。とろとろの赤いスープが注がれていく。ときどき、四角く切られたにんじんとか、あめ色になったたまねぎが出てくると、注がれる調子が乱された。
 ちふゆくんは紺の制服を着ていて、シャツのボタンはきっちり上まで留められて、首もとはリボンでぱちんとしまっている。
「あんまり熱くないからずずっといって大丈夫だよ。ぼく猫舌なんだよね。ほら、ちふゆってなんだか寒そうな名だろ」
 スープを飲みながらうなづく。確かにちょっとぬるい。
「だからあんまり熱いのがくると溶けちゃうんだ、きっと」
 きみはまだお客さんみたいなもんだから、とぼくは梯子に座らせてもらう。おしりはあったかくて、たぶん少し前までちふゆくんが座っていたんだろう。
 ちふゆくんは、あったかな手でぼくのほっぺたに触る。
「どうしたの」
「やわらかそうだな、っておもって。見た目どおりだね」
「ぼく、ずっとこうだから、そんな風に思ったことはあんまりないな、」
 ぼくの視界のはじからのびる二本のうで、皮膚のすこし外側があつい……。いたずらの好きそうなちふゆくんは、じっとこちらを見ていた。
「あっ……」
 ちふゆくんはぽそっとつぶやいて両手をぼくにちかづけてくる。真白いゆびがはっきりみえた。
「どうしたの」
「かわいい顔が涙でよごれてる……」
 指の圧がつよくて、ほっぺたの奥の血のながれが変わるのを感じた。ごしごしと左右に涙のあとを消してくれる。
「どうしてなんだろ、そこぬけみたいな気持ちなんだ……」
「理由なんてないさ、そんなもんだよ」「嫌になったら、死んでしまえばいい」
 ぼくたちは初めて目があった。ぼやけた目玉の色は、ようやく互いに交差して、ばちっと電気が起こる……
「ちふゆくんの目、好きだな、」
「ほんと? じゃあ、いつかあげる」
 ぼく、こんなにまっ白にはわらえないだろうな。
 だれかを、かわいいとおもったことも、そう言われたのもはじめてだった。

 お部屋に案内するよ、とちふゆくんはぼくを引っ張ってずんずん進んでいく。
「たぶん先に荷物は運ばれてると思うんだ、かばんひとつだけだし」
「やけに少ないね」
「服は制服があるから、たくさん要らないし、べつに、持ってきたいものなんてないから」
 あたりはだんだん暗くなっていって、森の木々は何倍も高くみえた。しろい先を往くちふゆくんのからだが、背景からきりとられてすぐ近くにあるように感じられた。それをふらふら追っていく。長旅でつかれて、ぼんやりしていた。ふよふよのぼくの皮にしみこんで、ちふゆくんを感じる。
「いでっ」ぶつかった鼻をやさしくさする。
「大丈夫? ちゃんとまえ見て歩かないとだめだよ」
 ろう下はちょっぴり寒い。いつの間にか、扉がいっぱい並んだところまできた。灯りの色はちょうど良い黄身みたいで、おいしそう。
「いい? あっちが給湯室で、あっちが電話のあるところね。電話は自由時間にしか使えないから」
「そんで、」渡り廊下にいちばん近い扉を指して「ここがぼくたちの部屋だよ」
 風が透きとおっていて、木々のてっぺんがくすぐったそうにとびこんでくる。空は高く、自然と目線がうえの方に向いていった。大きな二段ベッドの表面はつるつるしていて、いい味がしてる、机はふたつ仲良く並んでいて、使われている方には植木鉢がたくさん置いてあった。
 棚をみると、もうぼくの荷物が運びこまれてあった。
「なに持ってきたの」
「本とか、クッションとか、そんなだよ」
「へぇ! 案外子どもっぽいところもあるんだね」
 ちふゆくんは、ここ座りなよ、といすを引いてくれる。
「お湯はさ、給湯室があるから。お菓子とかはぬすんでくればいい」
「ばれないの?」
「ばれてもちょっと叱られるだけさ、棒とかでぶたれるの。でも、慣れちゃったら訳ないよ」
 ちふゆくんは、机の引き出しの奥の方から、缶と紙を拾ってきた。
 宿題プリントのうらに、缶入りのクッキーが広げられる。パターの油でいっぱいしみがつく。
「はやく食べないと湿気ちゃうし、ほら、遠慮せずに」
 いい匂いがした。あまい匂いというのは、どうして甘いのかな。かじるとサクッとしていて、簡単にかむことができた。
「おいしい?」
「うん、とっても……」
 ぼくは、ちふゆくんのきれいな手とか、鼻すじとか、耳の中をじっと見ていた。

 眠るときになって、ぼんやりしていたあたまが急にさえてきた。次から次へ流れていくのは、不思議な記憶の断片だった。寝返りをうつ。きしむ音がする。ぐるんとあたまの上下が交代するごとに、重たい記憶のおりもぐるぐる舞う。
 かばんにいれていたせいか、お魚クッションには変な匂いがついていた。鼻はするどく反応して、いつもの安心はあんまりない。うでと身体で挟むと、悲しそうにしぼんだ。
 お部屋のなかは、昼間とは全然ちがっていて、かすかな月のあかりがすうっと入ってきて、深くてながいかげを作っている。うでをのばして動かすと、夜のくらがりのひだひだが手に巻き付くようだった。
「つくるくん……?」
「あっ、ごめん、起こしちゃった?……」「眠れなくて……」
 ちふゆくんは上で寝ていた。ぼくが二段ベッドの下の方が良いといったから。はしごを降りてくる、表情はよく見えない。おおきなあくびをして、白い歯がちらっとみえた。
「寝られないなら一緒にねよ、ぼくもずっと下を使ってたから落ち着かなくて」
 もぞもぞ入ってくる、ぼくも横にずれてスペースをつくった。毛布を上げると冷たい外の空気が入ってきて、はっとする。
「あっち向いたままでいいよ」
 ちふゆくんはそう言ってぼくの背中にぴったり張り付いた。やわらかいからだと身体がふれあって、熱がぐるぐるお互いを行き来する。
「あったかくていいでしょ」
「ちょ、ちょっと、どこ触ってんのさあ!」
 何かをさがすみたいに胸のあたりにあった手は、どんどん下に向かっていった。ゆたかな期待が高まって、からだ中をめぐる血液の量が増えるのを感じる。新しい皮ができて、かゆくなってぺろっとむけるみたいに、ぼくにどんどん彫刻がほどこされていって、すてきなところでちふゆくんと溶けあう。
「不安なときは、こうやってするのがいちばん良いんだ」
 つめたい手が、ぼくの深いところをつかんで離さない。やさしく握られて、血がたまっていった。ぼくたちの精神はつながっていて、だから考えていることがつつぬけだった。ぎざぎざの傷口どうしはうまくかみ合って、どうしようもなくここち良い。
 二段ベッドの柱と、天井と、柵は、ずずっとのびていって、ぼくたちを隠す箱になる。くらやみは引きのばされてどこまでも青い。吐いた息はどこか遠くのほうで結ばれた。
 くちの中はよだれだらけになって、どうしようもなくなったときに小さく声をだした。それがすべての始まりで、開いてしまった穴に向かって、溶けたぼくの中身がすべてもれ出ていった。ほどけていった熱はもとに戻らず、ずうっと近づいたぼくたちがいるだけで、夜のしじまは続いていく。

 そのままぐっすり寝ていたらしかった。起きると、ちふゆくんは先に目覚めていたらしく、ぼくをのぞき込んでいた。
 結局お互いに言葉をかわすことはなくて、じっとだまっていた。そんなもの、必要ないと思ったから。制服にきがえて、ほつれとか、ねぐせをチェックし合う。ぼくのは新品でぺらぺらした折り目しかなかったけれど、ちふゆくんのには糸くずがついていたから、取ってそこらへんの床に捨てておく。

 ゆったりしていた教室にぼくが一歩をいれたら、心地良い緊張感がうまれた。背筋をぴんとして、ちらっとこちらのほうを見る。紹介はあっさりしていて、いちばん後ろの席についた。天板にいくつか彫刻刀のすじがあって、なめらかな切り口をするするさする。
 同室のひと同士は同じクラスには振り分けられない。
「な、君ってさ、あいつと同室なんだろ」
「あいつって?」
 朝礼がおわってざわめきが戻った。みんなが少しずつ、この合唱に役立てられているんだ……、まえに座っていた子に声をかけられる。
「ほら、ちふゆだよ……あの」
「なにか問題でもあるの、」
問題もだーい問題さ、彼は続ける。
「彼、同室の子を殺しちゃったらしいんだ……」
 朝のひざしはやわらかくて、一日の期待にみちていた。ぼくも、放課後、どうしようかなと考える。ちふゆくんと部屋にいるのもいいけれど、案内してもらった方がいいよね……
「びっくりしないの」
「だってうわさだろ、ただの。ぼくをからかおうって……。おあいにく様だね」
「ぼくは忠告のために言ってやってるんだぜ、もう胸くそ悪いのはうんざりなんだ……」
 手をにぎられた。あんまりやわらかくなくて、乾燥していた。
「嘘だとおもうなら、あいつの机からすずらんの花が入った瓶を見つけるんだ、そんで、それを突き出しながら問い詰めてみな」
 話しかけてくれた子は彼だけで、あとはみんなだんまりを決め込んでいた。ぼくは、ぼんやり窓の外を見つめるくらいしかすることがなかった。

「どうだった、初日は」
 ちふゆくんがくすねて来たお菓子をふたりで食べる。前歯でぱりっとクッキーを割った。
「さんざんだったよ、ちふゆくん。なんか警戒されてて」
「はじめはそんなもんさ、あいつら、外からくる子に慣れてないんだよ」
「あと、きみのうわさも聞いたよ、まえの同室の子がどうこうってひどい話しだよ、ぼくをからかってるんだ。」
「ああ、すずらんがどうとか言われなかった?」
「あれってどういう意味なんだろ、」
「それこそうわさだよ、でもほんの最近、呪いに変わった」
 ちふゆくんはふーっと息を吐いた。くるくるらせんを描く。
「この学校のなかの、誰かをすきになると、すずらんの花を吐く……、誰も信じてなかった。でも、ぼくの同室だった子が、花を吐いて死んでたんだ、首を吊って。それでみんな信じるようになった。手紙が見つかったんだ、ぼく宛ての」
 ちふゆくんは本棚のすきまから紙切れを出してきて、ぼくの前に置いた。はしっこがすり切れていて、インクはにじんでいた。

  ぼくのからだを、きみにあげます
  きみがすきなようにできるように
  なるべくきれいな、死体にします

「ほんとうは警察とかが持ってたほうが良いんだろうけど……ぼくの机に置いてあった。誰かが死んでるってさわぎがあって戻ってくるとね。あと、瓶詰めのすずらんの花も。アルコールかなにかに浸けてあった。みんなお見舞いに来てくれて、ぼくを支えてくれようってことだね、で、見ちゃったんだ。
そこからうわさが広がって、いま、君がそう忠告されたんだ」
 いっしょに外を見た。強い風が吹いていて、木が左右に揺れている。

 ねむるとき、ぼくらはすすんで一緒に寝た。そっちのほうが寒くなくていいから。まくらをふたつ並べて、毛布を二枚かぶせた。向かい合って、にじりよっていく。
「これがまえ言ってたお魚クッション。やわらかくていいでしょ、目玉は布でつくってあるの。ボタンだと冷たくて目がさめちゃうから」
「うへえ、においはちょっとくさいね、よだれの匂いがする」
「それがいいのにな……」
 ぼくらはあたままで毛布をかぶって、ずっと話しをしていた。途中、がまんできずにまどろんでしまうと、罰に鼻をつままれた。ちふゆくんはぜんぜん手加減をしてくれなくて、まいど毎度目がさえた。
 それでもいつかにはぼくは耐えきれなくなって眠ってしまう。なのにちふゆくんはぱっちり、あの強い目でぼくをのぞきこんでいる……

 ぼくたちの部屋から教室までは、ちふゆくんと歩く。他の子たちはお互いにあいさつとかをしているけれど、ちふゆくんがずんずん進んでいくので、小さく風が吹いた。胸のあたりでひかえめに手を振っておわかれをする。ちふゆくんはちょっぴり口角をあげて、ぱっと教室に消えていった。
 この、ちふゆくんの不思議な雰囲気が、他のみんなにはとっつきにくいのかもしれない。
 さすがに、ぼくが教室に入っても、きのうのような緊張は生まれなかった。ちらっと見やる子もいたけれど、扉ちかくの、ほんの数人だった。席につくと、となりの席の子が話しかけてきた。
「どうしたの」
「良かった、みんな心配してたんだ。ごめんね、きのうはみんな戸惑っていて……、殺人犯と同じ部屋っていうのはね……」
 ぼくはちょっといらいらして、「そんなひどいこと言う君たちの方がどうかしてるんじゃないの、」
 そしたら小さく縮こまってしまって、ぽそっとごめんね……と言った。あんまり申し訳なくなってしまって、手をとってさすってあげる……、ぷるぷるふるえてしまっていた。

 窮屈な教室を抜けて、ちふゆくんと過ごす、とくに寝るまえの時間が、ぼくは好きだ。冷たいからだ、止まった時間、凍ったたましい、そのすべてがぼくたちの熱で溶けていく。この世界は、ひとりで生きていくには、あまりに広すぎて、寒すぎる。そんなことを言うと、ちふゆくんはなにも言わずにぼくのからだを引き寄せてくれた。何本もの腕がからみ合って、ぼくは叫びたいきもちになる。そして、あつい熱い息をはくと、ちふゆくんは満足そうにうなずいた。
 じゃりじゃりして、ぎこちない動きは、どんどんなめらかになっていく。薄くて広い宇宙は、小さく縮こまって、たくさんのものであふれているぼくたちの一点に向かって落ちていく。いたずらで、鼻にかみついたりした。乾いたよだれの匂いがして、ひやっとした冷たさがあって、歯形のあとが長い間残った。そしてしあわせな気分を保ったまま、ちょっと裏返るみたいにねむりに入る。これでぜんぶうまくいって、ぜんぶ忘れることができた。

 ごろんと寝返りをうったときに、いたはずのちふゆくんがいないのが分かって、目が覚めてしまった。
 まだ部屋は深海でいっぱいになっていて、おもいあたまがぐわんぐわん回転する。ちふゆくんが何かをしゃべっているのが分かる。声がする、なんて言ってるんだろう……。ちぃ、ふゆ……く、ん、とぶよぶよののどを動かして声を出す。
「ありゃ、起こしちゃった?」
「ええ?……なにしてるの」おおきくあくびをする。
「古い日記を読んでたのさ、なんだか目が冴えちゃって」
 黄ばんでいて、はじっこの方はすり切れた日記帳を閉じると、チョコレートみたいな紙の匂いが風にのってやってきた。
「ならぼくを毛布代わりにしたらいいよ……、」
「じゃあ、おことばに甘えて」
 かげが動いて。毛布がめくられて冷たい空気が入る。布どうしがこすれて、水の流れるような音がした。ちふゆくんのからだはずっしりしていて、やわらかい。ぼくのからだの中の空気を押し出して、ほどけていく。
 そのままぼくたちは同じことを考えた。風が吹きぬける、小高い丘。ひるねをする。空に太陽があって、地面に草があった。どこもあまりに広すぎて、うるさすぎる。たくさんの子どもたちがいて、見られて、聞かれてしまう。ただ、誰もいなくて、さみしくなくて、静かなところにいたかった。太陽のでている、灯りであふれた夜が、ほしいだけだった。みんな邪魔だった。
 けっきょく、一月たっても、あの抜きさしならない空気はそのままで、時間が止まっているようだった。ちふゆくんとぼくは、どんどんお互いの中身を交換しあった、いつもちかくにいることのできるように。

 その日の朝も、いつもと同じように、ぼくたちは服を着るのを手伝いあう。大事な儀式のようなもので、着ているものを脱ぐところから始まる。される方も、なるべく流れるようにとどこおりなく済まさないといけない。
すると、廊下がさわがしくなって、ぼくが、ちょっと見てくるよ、と鍵をあけると冷たく、みんな廊下に出ていた。
「どうしたの、」となりの部屋の子に聞く。
「上級生がひとりいなくなったんだって。うわさじゃ、殺されたって……」みんなざわざわしていたので、小声になることもなく、遠慮もなくて、その子は、ぼくの部屋のなかの方をちらっと見やった。
 その日の授業はなくなって、全員部屋にいるように、廊下を先生たちが見回ることになった。
「まえもそうだったんだよ、みんな脱走したんじゃないかと思っていた、じっさい、ぼくもそうだろうって考えてたさ。けれど、翌朝ね……」沈黙。「まあいいじゃん、お休みになったんだから寝ててもいいわけだし」と言って、そそくさと眠ろうとする。だから隣にすわりこんで、「授業のときもいねむりしてるの?」
「うん……つまんないし、あと、最近すっごく眠いんだ。けっきょく、暇つぶしなんだよ、生きるってことは。めんどうくさいからだと頭を動かすくらいなら、寝ちゃった方がずっと良い」
「ぼくと一緒にすごすのは?……」
 ちふゆくんは笑って、ぼくを引きよせる。ほこりが立って、くしゃみをした。
「……ばかだなあ、きみは」
 そのまま寝てしまったから、心臓に耳をあてて、心音を聞きながらうつらうつらする。

 ぼくたちは海のなかでくらす、なにかどろどろとした生き物のようにすごした。ベッドの囲いのなかで、めいっぱいに広がって、からみあって、濡れていた。ときどき出すことばも、まったく意味のないもので、時計の針の進み方も、早かったり遅かったりであてにならない。
 夜中に目を覚ましたとき、ちふゆくんがいなかったり、ぼくから出てゆくので起きたりすることがよくあった。うっすら隠れてのぞきみるそんなときのちふゆくんは、もの思いに沈んでいて、夜の灯りの波を受けて、とらえどころのない、ぬけがらのような純粋さがあって、とてもすてきだった。
 廊下は先生たちが目を光らせているはずで、けれど扉は少し開いていた。ぼくの少しほてったからだを抜いて、空気にふれさせる。あたまがはっきりしてくると、足音をたてないように、こっそり廊下をのぞく。電話室のところから、だいだい色の電灯がもれだしていた。ゆらゆら影法師がゆらいでいるところを見ると、ちふゆくんがいるんだろう。だれと話すことがあるんだろ……
「ああ……はい、そうですね」「えへへ」「はあ……」
 くもった声がすりガラスの奥から聞こえる、扉を開けると、ぼくは強い力でつかまれた。
「……ちふゆくん、震えてる」
 顔のほうを見ると、ちふゆくんはさらさら泣いていた。「ええ」「だいじょうぶです」「そうなんだ……」と言い続けている。ぼくは、ただあたたかくそして赤い血を想像した。ぼくのなかを流れるものと、ちふゆくんのものと。「はい、さようなら。分かっています、また来週ですね……」ちふゆくんが言い終わるころには、すっかり受話器を落としてしまって、冷たい音がなった。そのまま座りこんでしまって、また夜のしじまが戻ってきた。
「かわいい顔が……涙で汚れちゃってるよ」
「おねがい、つくるくん、このままにして」
 こんな弱々しいちふゆくんをみるのは初めてで、ぼくのことをずっとつかんでいた。そのままぼくのおなかの上で静かになきじゃくる。
 腕をのばして、かなり限界に近かったから、血が薄くなってぴりぴりする、電灯のスイッチを下げて灯りを消した。
「どうしたの……」
「見回りの先生に見つかったらいけないから」
「ぼく、暗いのこわい」
「月明かりが入ってきてるよ、それにぼくもいるし」
 けれど震えはおさまらず、どちらかというとひどくなっていく。いつもつーんとしているちふゆくんは、本当に小さくなってしまって、ぼくをなんとかつかんでいたいと溺れてしまうみたいだった。耳元でささやいても、けんもほろろ。ときおりつぶやくうわごとはゆらゆら揺れていて、ぼくたちの皮膚のあいだを伝って落ちていく。
 ちふゆくんのほっぺたをしっかりつかんで、ぼんやり開けられた口を、ぼくのそれでかぶせる。なかをなめると、寝るまえになめていたソーダ味のあめだまの味がした。何か言おうとするのをさまたげて、さらにおおいかぶせる。引き抜いたら、ほおを赤く染めて、震えもおさまっていた。
「不安なときは、こうやってするのがいちばん良いんだ、って教えてくれたのはきみだろ」
「うん……」
「とりあえず、お部屋にもどろうよ。話しなら聞くし」
 ちいさくうなずくのを確認してから、またこそこそと、周りをうかがいながら移動する。

「あれはね、母さんと話してたんだ」
 ちふゆくんが話しはじめたのは、突然だった。いつもみたいに毛布を被って、ささやきあうのは、天使のことば……。
「おかあさん」
「きみはさ、じぶんの母親と寝たことはある……?
 ぼくんちはさ、小さいときから父さんがいなかった。母さんとふたりで暮らしてたんだ。」
 ぼくは黙っていた。時間は伸び縮みして、底が青くなった。
「ぼくさ、ぼくの父さんが十四歳のときの子供なんだって……
 母さんは、ぼくのおじいさんを見かけたときに、保存しておきたいと思ったんだって、それで、十四のときに無理やり……、結果はうまくいった、父さんは自分の父親によく似ていたんだ。かわいがって、幸せな日々だったらしい。でも失ってしまう不安はどんどん先に進んで言ってしまう、ひらひら楽しそうと思って、つかみ取ると、地面はなくなって落ちて言ってしまうものだから。
 ぼくの父さんは、あなたの子供よって見せられて、ぼくを抱きかかえたときに、ぽろぽろ泣いて、そのままいなくなった。
それで、母さんはもう一度おなじ十四のときに……。けれど二回目はうまくいかなかった、性格はよく似ていたらしいけれど、外見は母親似だったんだ。母さんは自分のもくろみが失敗だってわかったときは、ほんとうに恐ろしかった、ぜんぶぼくに向かってきたんだ。
ひとりで寝ていたら、母さんが入ってきて、いま思いだしても全然おばあさんになっていなかった、だいぶさばを読んだ年齢をすっかり信じていたんだ、それで、あっという間にひもでしばられちゃったんだ。布を噛まされて、ふごふご言っていた。母さんは裸になって、ひらいた足の間から液体をひからせて、ぼくを飲み込んだ……。吐いてすっきりしようと思っても、吐くものがなくて、しめった何本もの腕が口をふさいでしまって、びちびちベッドにからだを打ち付けたけれど逃れられなかった。
最後にすべてがぬけていって、それ以来母さんと直接は会ってない。
でも、いつまでもぼくを縛りつけるために、毎週、どんなひとと寝たかとか、どんなにぼくとやったあのときが素晴らしかったかを、えんえん聞かされるんだ」
ちふゆくんはまたぽろぽろやっていて、ハンケチを取り出してふきとる。まだらなしみが出来て、くたくたに濡れていった。
 ひと晩中、ちふゆくんの背中をなでてあげる。

 翌朝はきもちいいお天気だったけれど、ちふゆくんはいなくて、置き手紙があった。なにかの切れ端にはしりがきしてある。

    おはよう、ねぼすけくん

  ぼくは用があって温室にいます。
  場所は分かるよね?図書室のある建物の北側だよ。
  来たかったら来ても良いけど、
  くれぐれも先生たちに見つからないように!

                    ちふゆ

 きのうあんなだったくせに、いつもの調子に戻ったみたいでほっとする。てのひらには、洗濯のときにわざわざ使っている、ぼくたちのお気に入りの洗剤の香りがついている。おなじのを使っているから、ぼくの匂いでもあるし、ちふゆくんのでもある。
 じっさいたくさん寝過ごしていたようで、机にのっていた朝食はすっかりさめていた。かきこんでスープはまるのみにして、お手あらいにいったふりをして抜け出してしまう。
 ちょっと急いで階段をおりただけで、すっかり息があがってしまう。吸って吐いてを、肩をつかって大きくする。冷たい空気が内側に入ってきて、ぴりぴりした。背の高い草むらに隠れてすすむ。靴下とズボンのあいだがちくちくした。
 温室は、とても暗いところにあった。土地がすいていて、だれの目にもとまらないようなところを選んだ結果なんだろう、昔から建っているみたいだ。ビニールのかべの奥のモザイクは、緑が一面に広がっている。
 おそるおそる、なかに入る。
 ぼくの背丈のなんばいもある植物がおいしげっていた、怖くなって両手をにぎる。「ちふゆくん……いないの」「いたら返事をして欲しいな……」
 むわっとした湿気のなかを進む。みどりの中で、黄色とか赤色の花はよく目立った。虫がふいに飛び出してきそうでびくびくする。
 いちばん奥まで来たけれど、けっきょくちふゆくんは見つからなかった。でも、紙切れを見つけて、つかんでみると、ちふゆくんの置き手紙だった。

    てれ屋のおぼこさんへ

  用はぜんぶ済んだから、お部屋にかえります。
  けっきょくきみは来なかったね、
  入れ違いになっちゃったのかな?
  はやく帰っておいで……

                   ちふゆ

 なあんだ、無駄足だったみたい、と手紙をポッケにしまって、また隠れて進む……、なるたけ日なたをさけて、日蔭をすすむようにした。
 先生たちは、いなくなった上級生のからだを探すように、目的を変えたみたい、木のうらでひそんでいると、昇降口から棒をもった先生たちが出てきた。見張りがすくなくなって楽だ、階段を足音を立てずに上がっていく。
 廊下をちらっとうかがったけれど、だれもいなくてひっそりしていた、灯りに照らされてまうほこりくずが見え隠れするのがはっきりわかった。
 部屋にからだをさっと入れる……
「おかえり」
「ちふゆくん、ずいぶん探したん……」
ちふゆくんは、いっぱいに開いた窓のふちに座っていた、目隠しなんかして。
「……どうしたの、それ」
 ちょっと顔を傾けてから「もうなにもみたくないんだ」かたい、芯のある声だった。
「温室にはさ、これ、取りにいってたの」
 指さす先に、すずらんの鉢植えがある。大きくてぶ厚い葉っぱにつつまれた、小さくてまるっこい真っ白の……。
「いなくなった上級生のやつ、犯人はぼくだよ」
「えっ」
 ぼくは気がつくと吐いていた、だらだらだら、さらさらでぶよぶよでくさい、体内の匂いがするげろが流れていく。手で押さえても、指の間をとおって床にひろがっていく。
「ちふ……ゆ……くん」収まると、気持ちのわるさがずずっと目立ってくる。べとべとする口のなか、いくらかは鼻の奥に入ってしまってずっとくさい。でも、もっとびっくりしたのは、鉢植えとおなじちいさな花が、げろのなかに混じっていたことだ……
「……すずらん」
「ぼくのこと……そんなに、えへへ、恥ずかしいね」
 ずるい、ずるいよちふゆくん……。ぼくはぽろぽろ溢れようとするのをおさえるようつとめて、深く息をする。
「いいから落ち着いて聞いてね……」ちふゆくんは、潜水するまえみたいに、大きく息を吸って、水をあやつるように、話しはじめた。お部屋ぜんぶに、意地のわるい魔法がかかっているようだった。

まえに言ったよね、ぼくのおじいさんの話し。お医者さんをしてるんだ、会ったことはないんだけどね。ぼくの父さんも、自分とおんなじようになってしまったことを、とても心を痛めていた。だから、ぼくはそうならないように、秘密の逃げ道を作ってくれたんだ。机の上に置いてあるのがその方法が書かれたノートだよ。
それはね、たましいを、他のひとのからだの中に植えつけるってことなんだ……。もし、ぼくの記憶、考えかた、気持ち、そういうものを、そっくりそのまま他のひとの脳みそに再現できたら、それはもうぼく、と言ってしまってもいいよね。からだがあるからいけないんだよ、たましいには、母さんはさすがに手を出せない。おじいさんはなんとかぼくを守ろうとしてくれた、ここの学校に入れてくれて、母さんから離れることもできたし……。
おじいさんは、この儀式のやり方をノートにまとめて、母さんが夜、出ているときに郵便で届けてくれた。それから、ぼくは憶えていることをぜんぶ紙に書いて、細かい日記をつけるようになった、たましいを移すときに備えてね。
封筒には、紙切れがもう一枚、入ってた。「ちふゆが大きくなったとき、かならず、たましいをあげてもいいという子があらわれます。なまえを見たら、きっとわかります、なぜなら、おたがいにひびきあうなまえだからです」ぼくは信じてずっと待ってたんだ。
生活は、悪いことはなかった。ただ、同室の子、きみの前だよ、思い出したくもない、みにくいあいつ。ちょっとねっとりしていて、思い込みのはげしいところがあったんだ、どうしても嫌いになってしまう、ということはよくあって、これもそうだった。
ある日、隠していたノートをすべて読まれてしまって、そしたらあいつなんて言ったとおもう? お願いだから……ぼくをきみの中にいれてくれないかな、って。ぼくは嫌だって突き飛ばした。なら、おまえの日記はぜんぶ読んだんだぜ……って言うんだ、母親と寝たこと、父親が十四歳のときの子供だってこと、母親とその息子の間の子供だってこと、ぜんぶばらすって。そしたら突然、母さんにおそわれたときのことを思いだしたんだ。いのちにふれることのぞくぞくする気持ちよさ……、気付いたら、首をぎゅうっと締めつけていた。手に血管がうかんで、腕がぴくぴく震えた、ぼくのたましいもふるえて、あいつはふがふがいって、真っ赤な顔をして死にそうだった。でも、手のあとが付くって思いついてしまって、とっさにベルトに変えたんだ、そのまま最後までやって、首をつったみたいに見せるために、ぼくとあいつのベルトを取り替えて、木にくくりつけた……。おもいからだを運んでいるとき、まどろんでしまって、あたまはバターみたいに溶けてた。それで、もっと良い演出を思いついて、温室からすずらんをとってきて、花をぶちぶちちぎって、あいつの口の中につめてやった。これで、ぼくを好きなあまりに死んじゃったみたいでしょ? このすずらんが遺書のあるなし以上にはたらいて、けっきょく文字をまねした書いた紙は必要なかった。
ま、こんなどうでもいい話しで時間を使うのはよくないね。あのひみつの儀式だけど、はじめと最後にとくべつな音をつけるんだ。音をつけて、読んで、また音をつける。寝ている間に、文章を聞かせてあげて、脳みそのなかにあたらしい糸をたらす。それをたくさんやって編み込んでいくんだ、一枚の布をくみあげるように。仕上げに、ちょっときついしげきを与えて、きみのなかに、ぼくが生まれる……、すてきでしょ。わくわくするな。ここひと月でぜんぶ読み終えたんだぜ。
……さみしかったんだ。だれも話しかけてくれないし、毎晩、あいつが夢にでてきた。ちょっとした会話ばっかりをするんだ、むなくそ悪いよね……。母さんは相変わらず電話をかけてくる。
あ、そうだ、上級生のやつだけど、あれは、このひみつの儀式が間違ってるとうたがうんだったら、こうしてごらん、ってノートにあったんだ、同じ音を聞かせて文章をあたまに注入する方法だよ。それをそのまま試してみた。その上級生は、あいつとなんか仲が良かったから、その同室の別の上級生を操って、部屋の棚のなかに、薬で眠らせてから押し込むようにしたんだ、あと、閉じ込めたあとはぜんぶ忘れるようにもした。本当にその通りになって、びっくりしたよ、ずっとしんじていたことが、真実だったってのは、うれしいね。きみにも同じのをしかけたんだよ……、ぼくがきみの名前を呼ぶとはじまるようにした、じゃあね、ちょっとの間だけお別れだよ、
つくるくん……。

 あまりに自然だった、りんごは食べるとあまい、風がふくとここち良いってくらい……
 ちふゆくんはそのまま後ろに消えていった。ぼくは投げ出されて、行動のひとつひとつが切り取られてはっきりみえる。ぼやっと投げ出された両足、追いついていないてのひら、ぜんぶしっている目玉、わけがわからなくなるあたま。景色はちふゆくんがいた一点に集められて、色が引きのばされ、黒に落ちていく。
「あ――」
 こら、叫んじゃだめ。ぼくに従って、おばかさん。
 ぼくのからだはぼくのものでなかった、口が手で押さえられて、つかのまの静けさ。
 いい子だね、つくるくん。さあ一階におりて外にでよう。
「で、でも」
 しゃべらない、こころで思うように。はやく行かないと死んでしまうよ。
 ふるえていた、ぼくのちいさなからだ。中身がふくれあがって、割れるいっぽてまえ。冷えて血はかたまっている。
 階段をくだりおわった。外に出る。ぼくは何を見ているんだろ。
 さあ、ぼくとごたいめんだ。
「あ、あ、ち、ちふゆくん!」
 いろいろなものがこぼれていく、走って向かっていった、まわりに飛びちった血で、ちふゆくんは赤くそまる、そのあたりだけ、めでたいすべてのはじまり。
 ちふゆくんは痛いとかなんとかいってる。ごめんね、先生をすぐよぶから。
「えっ」ちふゆくんがつかんだ力はずっとつよくて、ぼくの服も血まみれになる。
 だめだよ、しあげをしないと。
 心はかんたんに砕け散ってころころどこまでも転がっていった、潰れた両足は、じゆうに別々の方向をむいている。あたまは割れていて、いちばん赤色が濃い。いのちはほろほろほどけていく。
 ちふゆくんはうでを差し出してくる。
「なに……どうしたらいい、ぼく」
 とどめを刺すんだ、さっきの話しを聞いていたでしょ、ぼくはぐしゃってつぶされるべきなんだよ。ぼくたちがお互いにいのちにふれあったとき、儀式は完了する……
「あ、ああ……」
 ちふゆくんのくびはすばらしい。やわらかくて、すいついてくる。ちふゆくんも力を振り絞ってぼくのくびをつかんだ。いっしょに力を込めていく。のどがピーピーいう。ぐはっと息をこぼして、赤く、青く、ぐるぐる回っていく。たしかにぼくたちはお互いのいのちに触れていて、それはとてもきもちのいいものだった。
 ちふゆくんの腕のちからがとけていって、しずかに、ぜんぶがうまくいった、ぜんぶがうつくしくはまった。

……

 気を失ってしまっていたみたい……、目を覚ますと、円形の、すりガラスでできた天井の窓がまぶしい部屋で、ベッドの上で寝かされていた。
 ここは医務室だね、つくるくん。
 ちふゆくん……
 ぼくがきみを置いてどっかにいくとか、ありえないだろ。
 そうだね。
 ほんとうにあの方法はうまくいったようで、ぼくは、ちふゆくんの記憶をぜんぶ知っていたし、かんがえもつつぬけで分かった。ぼくたちのたましいはまざりあって、ぶるぶるふるえて、楽しそうにしている。
 あのあと、ぼくはからだをきれいに洗われてここに寝かされた。ちふゆくんのからだは、服のポッケに手紙が入っていて、苦しくなってぜんぶこれを起こしたことが書かれていたと、校長先生が教えてくれた。うそばっかり。
 ね、つくるくん、時計見てくれない、いま何時か知りたくて。
 ん、お昼の一時だね。
 ちょうどいいや、ほら、立って、部屋にいくよ。
 え、え、でもだれか先生に言わないと
 大丈夫、いまはみんなそれどころじゃないから
 ちふゆくんにそそのかされて、ぼくたちは部屋にむかう。てっきり通報されていたと思ったけれど、たてつづけにこんなことになったせいで、あんまりおおやけにしたくないんだろうと、ちふゆくんが言っていた。だから部屋もそのままだった。
 ほら、棚のなかからかばん出して、お金とか、とうめん要りそうなものはぜんぶ入れてあるから。持ったね、じゃあ行こう。
 行くってどこに。
 駅だよ。そこから海沿いの街までいく。こんなとこおさらばさ。ぼくらはぼくたちだけでいられるところを見つけないと。あのノートといっしょに送られてきた紙にはもうちょっとつづきがあって、「すべてがおわったら、『かいがんホテル』まで来てください」って。たぶんぼくのおじいさんがいると思う。あと、これは完全にぼくのかんがえだけど、きみのお父さんもいるんじゃないかな。
 どういうこと?
 たぶん、ぼくにぴったりはまるように、きみを導いて、この学校に転校させたんだと思う。ぼくのおじいさんときみのお父さんはぼくらみたいにともだちで、ぼくのおじいさんのために、きみをすてきにしてくれたんだと思う……

 ちふゆくんは、きょうのことをほんとうに楽しみにしていたみたいで、進む道順はかんぺきだった。学校のはずれにあるふるい小屋うらの壁にちいさな穴があって、そこを通って外にでた。あとは走って駅に向かう。かばんのなかみがゆれる。
 おひるまの時間だったので、列車はすいていた。個室に座る。
 見つからなくて良かった。
 そりゃそうだよ、みんなのお昼のスープに、ぼくがすずらんを混ぜたからね。すずらんって毒なんだよ、いまごろみんなお腹壊してピーピー言ってるよ。
 あと、きみの朝食にも入れておいたんだぜ、急いでるからってまるのみにしたでしょ、だからきみはすずらんを吐いたんだ。あの伝説はうそっぱちだね。
 ぼくは声をあげてわらった、ちふゆくんもいっしょになって笑った。
「思いだし笑いですか、」
 車掌さんがきっぷを見に入ってきた。
「あ、ごめんなさい、おおきな声をだして」
 きっぷを渡す。
「こんなに遠いところまで……親戚のかたにでも会いに行かれるんですか」
「はい、そんなところです」
「ひとりで話し相手がいなくては、退屈でしょう」
「おきづかいありがとうございます、でも大丈夫、間にあってますから」
 車掌さんはそのまま出て行ったが、ちふゆくんが笑っているのが外に聞こえそうでひやひやしてしまう。
 あ、そうだ。かばんのなかからびんをだしてごらん……ささやかなおくりものだよ
 確かににもつのなかにかたいものが入っていて、取り出すと……
 びっくりした? ぼくの目だよ。きみがほめてくれたから、ぜったい持ってこようと思ってたんだ。
 ごめん、なんかちふゆくんのこと考えてたら……
 ぼくはてのひらで足のあいだをつんつん叩いた。
 ええぇ、仕方ないね、どこかトイレを探さないと、
 ここでしちゃう……?
 きみがそんなこと言うとはね、
 するするしのばせていった手のさきに、あたたかく充血したものがあって、ぼくらは分け合った。列車は鉄橋を渡って河を越えていく。