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京都工芸繊維大学 文藝部

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Last-modified: 2020-12-22 (火) 22:33:02 (121d)
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活動/霧雨

天ノワタリ

福祉社

 朝四時に目を覚ました。眠る前と同じように小雨が降り続けていたが、ぼくはやはり予定を変更せず、天橋立に向かうことにした。シャワーを浴びた後、昨晩ローソンで買った新商品のチープな菓子パンを朝食がわりに食べ、携帯電話にメッセージが届いていないことを確認した。そこでふとある種の誘惑に駆られたぼくは、携帯電話の電源を落とし、自宅に置いていくことにした。もちろん、ラップトップやタブレットもだ。その代わりに本棚の上に積まれていたいくつかの新品の文庫本を掴み、ぼくは想像以上の身軽さを感じながら、始発の地下鉄で京都駅に向かった。

 天橋立というのは研究室の後輩の案だった。このところ論文の進捗が思わしくなく、加えて睡眠障害にも悩まされており、この上なく気分が鬱屈していたぼくに、一度完全な休息を取るべきだとアドバイスしたのが彼だった。香港からの留学生である彼は妙に旅慣れていて、必要とあらば全国の観光地への最適なルート選択を導き出すことができた。もっともぼくにとってみれば、電車の乗り換えや緻密な時間管理は忌むべきものであり、できることならばエンド・トゥ・エンドな移動手段を望んですらいた。加えて、世間一般の大学院生の持つイメージにぼくも違わず、困窮した生活を強いられていた。そういった条件をもとに彼がぼくに示した三つの候補地のなかで、天橋立という選択肢は非常に魅力的に思われた。大学進学時から長年京都に住んでいるが、考えてみれば京都市以外のまちをプライベートな目的のために訪れたことはなかった。そもそもぼくの行動範囲はといえば京都の北はずれにある大学と自宅を往復するばかりで、たまに三条に映画を見に行くくらいなのだ。ぼくのなかで『京都』とは京都市を、それもごく一部の市街地を指す言葉に他ならなかった。そうした身の上話を聞く後輩の表情にわずかな憐憫を感じ取ったぼくは、そういえば"伏見市"(傍点)にある伏見稲荷になら一度登ったことがある、と苦し紛れに発言したが、それも彼の表情をさらに歪ませただけだった。

 特急はしだては規定時刻通りに京都駅を出発し、わずか二時間足らずでぼくを宮津市に連れていってくれた。平日を選んだこともあり車内は極端に空いていた。実を言えば、特急列車ではなく高速バスを使えば所要時間はほとんど変わらずに、より安い金額で済んだ。しかしぼくは車に酔いやすいたちで、長距離バスを使うことに心理的な障壁があった。ぼくは昔から電車だと自分がほとんど酔わないことが不思議だった。おそらく揺れの質が違うのだとぼんやり理解していた。与えられた二時間をフルに使って、ぼくは持ってきたクリストファー・プリースト『魔法』の冒頭に目を通した。記憶喪失の男性と面会人の女性をめぐる物語で、ここからどういった展開が成されるのか簡単には察することができなかったので、なんとなく安心することができた。

 駅舎の外は、季節のわりに驚くべき肌寒さだった。もちろんそれはここ数日の停滞前線によるもので、暗い灰色の空からは弱い雨が降り止みを繰り返していた。情景はかなり陰鬱だったが、元よりそこにはあまり期待していなかったので、久々の遠出による浮遊感を鎮めるには至らなかった。案内板によると天橋立の入口は目前らしかった。というよりも、この地域には他に目ぼしいものはないと言ったほうが正確かもしれない。ぼくはしかし、いったん逆方向に向かうことにした。今夜泊まる民宿に荷物を預けにいくためだ。天橋立の内部にある宿泊施設はこういった場所に特有の特権を振りかざしていてかなり割高なので、僕としては少し遠場にはなるものの地に足の着いた、昔ながらのローカル民宿を選ぶのが最善と思われた。

 しかしぼくはこのとき、携帯電話を置いてきた弊害を被ることになった。いや、場所が分からなかったことではない。地方、それも観光地ならば、不慣れな土地であっても人に道を尋ねるのはそれほど難しいことではない。もっと差し迫った問題として、ぼくは事前に予約した民宿の名前をすっかり忘れてしまっていた。目的地が分からなければ辿り着きようがないことは明白だった。ひとまず駅前のしょぼくれた土産屋に入り、物色するふりをして小雨をしのぎながら、ぼくは今取りうる手段について考えを巡らせた。例えば交番に行って頭を下げながら市内の民宿を全て調べ、名前を見ても思い出せなければ電話を借りて、自分の名で予約が入っていないか一件ずつしらみつぶしに尋ねることになるだろう。そうしたことに対する億劫さや気恥ずかしさにぼくはどうにも耐えられそうになかった。予約のことはすっぱりと諦めることにした。夜に飛び込みで泊まれるところがあればよし、なければないで日帰りにしてしまおうというわけだ。そう決めてしまうと気分が格段に軽くなった。自分の行動が何物にも制限されず、自分の意思で完全にコントロールできること、言い換えれば極限まで軽減されたフットワークこそがこれほどの開放感を生み出すと知れたのは、ぼくにとって重要な発見だった。それはほとんど全能感と言ってもよかった。

 天橋立への次の便までにはまだ余裕があるようで、ロビーは十数人の観光客でわずかに混み合っていた。平日にもかかわらず、これほどの人が訪れることにぼくは驚いた。ここにいる人々がみなぼくと似たような事情でここに来たかもしれないことに対して、同時にぼくは妙な親近感を抱いていた。もちろん、それは自惚れと同じようなものだった。ロビーの壁の一面はガラス張りになっていて、そこから宮津湾の濁った海面がよく見渡せた。どうということのない、悲しいほどに平凡な海だ。対面の壁には日本三景としてよく知られていた細長い砂州の写真が大きく引き延ばされてプリントされており、それは過去と現在の残酷な対比であるように感じられた。ぼくは注意深くそれらを観察し、やがて居たたまれずに目を背けた。

 整備完了に十分な時間が経過したのち、アナウンスが響いた。「皆様、大和航空天橋立行き845便は搭乗を開始いたします。小さなお子様連れのお客様や特別なお手伝いを必要とされるお客様はただいまからご搭乗ください」ぼくらはのろのろと待機列を形成した。軌道エレベーターを利用するのはこれが初めてだったが、搭乗システムは一般的な空港と変わらないらしかった。というよりも、航空会社の管轄下では同じようなシステムを採用せざるを得ないのだろう。「Ladies and gentlemen, Yamato Airlines flight 845 to Amano-Hashidate will begin boarding. Passengers with small children and those requiring special assistance may board at this time.」英語に続き、中国語と韓国語でもアナウンスが流れたが、そちらに反応する乗客は誰もいなかった。

 エレベーターが動き出した直後にだけ加圧を感じたが、あとは穏やかなものだった。すでに何人かの乗客はロックの解かれた座席を離れ、機内を歩き回っていた。リニアモーター式のため、案内によれば約五万キロメートル上空の静止軌道ステーションまでは一時間足らずでの到着となるはずだった。分厚い強化ガラスの窓からは外の景色が見えていたが、それは雨雲で何も見えないことを意味していた。ぼくは座席に座ったまましばらく文庫本を読んでいた。その後、眠気からそれをうっかり落としてしまったことをきっかけに、隣に座っていた女性客と雑談が始まった。彼女はぼくより少しだけ年上であることを明かした。非常にラフな格好をしていたので、一見して彼女が仕事で天橋立に来ていることは見抜けなかった。彼女はエンジニアで、ネットワーク機器のスペシャリストだった。彼女のほうも、ぼくがまだ学生であり、また天橋立には今回が初訪問であることがわかると、経験を積んだ先達者に特有の、あの過度に余裕たっぷりな態度でぼくに接することにしたようだった。

「天橋立は……というより、国内の静止軌道ステーションはすべて完全にスタンドアロンであることが要求されています。電力はすべてメガソーラーで賄えます。不測の事態に備えてね。でも地上との通信は絶対に確立しておく必要があるでしょう? 天橋立はいまやとても堅牢なシステムではあるけれど、もし危機に陥るとすれば、それは外部とのコヒーレンシの喪失による情報災害になるはずよ」

 話題はシステムの安全性に関する議論に移った。面白いことにそれはぼくの専門分野だった。専門家として、ぼくは彼女の意見におおむね賛同した。一方で、天橋立のように"成熟した"(傍点)ステーションにはそのリスクは少ないだろうということを付け加えた。システムに欠陥が混入するのは、決まって完成品に新しく手を加えようとするときなのだ。際限なく増築を続けたバベルの塔が神の怒りを買ったように。確かにあなたの言うことは正しい、と彼女は認めた。「だからこそ、今は十分に気を付ける必要があるんです。これはまだ民間人には秘密のプロジェクトだから、この場では何も言えないけれど」うまい芝居だ、とぼくは評価した。

「そういえば知っていますか」と彼女が問いかけた。「天橋立って、昔地上に存在した小島の名前で、もともとは軌道エレベーターとは無関係だったらしいの。すごくないですか?」
 さすがに見くびられすぎなのではないかとぼくは思いながら、穏便に答えた。
「そのようですね。正確には島ではなく、単なる砂州だったみたいです。日本神話にゆかりのある地名で、細長い形が天と陸を繋ぐ梯子の倒れた姿に例えられたとか。海面上昇の影響で、いまはもう海の底に沈んでしまいましたが……」
「あら、意外とお詳しいんですね」
「京都府民ですから。常識として一応は」
 如才なく答えながら、自分でもどの口が、とは思う。
「まあ、でもそうですね。少し出来過ぎな気もしますが、人気のある観光地みたいだったし。その符号の一致は『天橋立』を宇宙に再建する、強いモチベーションになったんじゃないでしょうか。それに…」

 こういったところで、乗客全員に着席を促すアナウンスが流れた。エレベーターが間もなく成層圏を超え、重力が徐々に弱まることになることを告げるものだった。当然のことだが、ぼくたちも指示に従うことにした。窓からは見える景色はすでに暗黒の宇宙空間が多くを占めており、視界の下の方にようやく、関西一面を覆う大きな灰色の雨雲を認めることができた。それに、とぼくは先ほど言い残した考えを頭の中でもう一度組み立てた。それにもし、天橋立がただ眺めのいいだけの景勝地ならば、たぶんぼくはこの旅行を取りやめていただろう。連日の雨で泥水に濁ったただの砂浜は、それを見たぼくをどんなにがっかりさせたか知れない。いまぼくはそうならず、まだ見ぬ天橋立への訪れに期待を膨らませている。悩みの種は全てあの遠い地表に置いてきている。究極に言えば旅行とはストレスからの逃避であるからして、物理的にできるだけ離れるのが手っ取り早いのだ。

 鈍く巨大な、銀色に光る、天橋立が頭上に近づく。