マサバのお刺身 †
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遠くの方からマサバのお刺身、なんて言葉が聞こえてきたものだから、僕はうっかり、食べてみたいなと思ってしまった。間髪を入れずこめかみにぱちぱち痛みが走る。脳波を読み取るヘッドギアに軽い電気ショックでたしなめられて、僕は仕方なくゴマサバ、ゴマサバと念じなおした。
僕の目の前にはサバがある。正確に言えば僕の目の前にあるのはベルトコンベアで、そのうえにサバがたくさん乗っかっているという状況だ。けれど僕はベルトコンベアに対してさして興味がなかったので目の前にサバがあると言った。だってその言い方でも問題はおきないから。たぶんね。
で、そう。サバだ。あの、魚の。銀色のね。焼いたりして食べるやつ。美味しいよね。不意にこめかみ電気ショックの気配を感じて、僕はまた慌ててゴマサバ、ともう一度念じる。念じて、右手に持った細い針をその銀色の皮にぷすぷす刺した。僕は、いま使っていない左手にゴマ粒をつまんでいる。満足いくまでサバの皮に穴をあけたら、そこに左手でゴマを一粒ずつ詰めていくのだ。穴をあけて詰める。穴をあけて、ゴマを詰める。なんでそんなことをやっているのかと言われても知らない。けど僕はそれをしなければいけない。そうするとサバからゴマサバができる。いや、厳密にいうと、サバをゴマサバにするための下準備のようだけど、そこらへんは別に今区別する必要がないからどっちだっていい。
とにかく、僕はサバからゴマサバをつくる仕事をしている。
サバというのは、ただサバであってそれ以上でもそれ以下でもない。それ以上でもそれ以下でもないということは、つまりそのサバはマサバやゴマサバや、それ以外の何か特定の種類のサバではないということだ。この工場を監督する社員たちは、それのことを「純粋概念としてのサバ」と呼ぶ。僕の目の前で確かにベルトコンベアに乗っかっている、なまぐさく銀色にぬめっているそれが純粋概念だなんてなんだか妙な感じだ。だけどその、サバ、のような方法で存在していることを「純粋概念としての」と言い表すと決まっているのなら、そのサバは間違いなく純粋概念としてのサバなのだ。長ったるくて面倒だから、僕たちはそれを単にサバと呼ぶけれど。そして僕がサバについて知っていることといえば、ゴマサバと念じながら穴をあけてゴマを詰めて、専用の機械に通せばいつのまにかそれがゴマサバになるということだけだ。それだけ知っていればこの仕事をやるのには十分だ。ああでも、それから、サバをサバのまま食べようとしたって酷い味で、とても食べられたもんじゃないってことも僕は一応知っていた。
あっ、また。痛い。また電気ショックが走る。同時にしゅーっと化学物質を吹き付けられて、口のなかいっぱいに焼きゴマサバの味が広がる。うげえと舌を出した。定期的に浴びせられる、この味にももううんざりだ。正直に言って僕はこの仕事に向いていないと思う。頭の中はいつだって忙しいから、ついうっかり、ゴマサバのことを忘れてしまう。そうだ、ゴマサバ、ゴマサバだ。それにしてもゴマサバになる前のサバは本当に不味かった。それを知るために僕はこめかみへの電気ショックどころではない代償を支払うことになったけれど、それはまたそれである。
しかしいくら純粋概念としてのサバが不味くたって、いわゆるサバ――つまりゴマサバやタイセイヨウサバやといったものを総称する意味で言うサバ――は美味しい。美味しいからこうやって、わざわざゴマサバをつくる仕事なんてものがある。
サバをつくる仕事が行われているのは、某所に存在する、とある不愉快な真四角の建物のなかだ。つまりはここ。僕が立っているここがそうだ。大きいことばかりが取り柄みたいなその建物は、残念ながらまごうことなき僕の職場だった。なんでもないサバからゴマサバをつくっているところ。気が遠くなりそうなくらい長い長いベルトコンベアに乗って僕の目の前にサバがやってきては、ゴマを詰め込まれ、また長い長いベルトコンベアに運ばれて変な機械に吸い込まれていく。ここで行われていることは、具体的にはそれだけ。
それよりもっと詳しいことはよくわからない。けど、こうやってサバの皮に穴をあけて、ゴマ粒をちまちまつめこんで、ベルトコンベアにのっけて長々と運んで行ったらしまいにサバはゴマサバになる。なっているはずだ。だってそれを理由に僕はお給料をもらっているのだから、そうなっていない道理なんてない。
ここで働きはじめてすぐだったか。一度だけ、この巨大な建物の最後を見せてもらったことがある。真四角の、四つのうちのどれかの角っこだった。角っこにきれいにはまり込むみたいにして、建物自体をぎゅぎゅっと縮小したみたいな真四角の箱が鎮座していた。ベルトコンベアはその箱の中に向かって伸びていた。箱の外側は白くてつるつるしていたけど、そのつるつるをつくる外装パネルを外した途端、無数のパーツと配線がひしめく。サバの皮をおもいきり破くとこんな感じなんだろうかと僕はそのとき思った。
見学者は僕の他にも何人かいた。引率してくれたのはこの工場を監督している社員で、やたら偉そうに僕たちにあの箱の話をしてくれた。
「これは概念を付加する装置。といってもお前たちに理解できるとは思えんが、工場に入るものには一応一通り説明しておけとウエに言われたから一度だけ説明してやる。前世紀末に大規模な環境汚染事件が起きて海をはじめとした水生系の高等生物が絶滅の危機に追い込まれたことはさすがにお前たちでも知っているだろう。水産資源の保護は当時喫緊の問題となったが、しかしすべての種を維持することは不可能だった。そこで使われるようになったのはこの装置だ。ある程度概念的強度がある素体に、さらに特定種としての概念を追加したうえでこの装置を通す、すると装置を通過した物体は概念付与された通りの特定種になる……意味がわからないと言いたげだな。これ以上説明してもどうせわからん。だからわかろうとしなくていい」
「装置を通して出てきたものは本物の魚と言えるのか、だって? そんなもの、言えるはずがないだろう。小手先の技術で正しく生き物をつくりだせるのであれば我々はもはや神だ。しかし現実に我々は神ではない。人間だ。生き物は作り出せないが、食べ物なら作り出すことができる」
引率担当者がそう言って別の外装パネルを外すと、内部の様子がわずかに確認できるようになっていた。僕は目を凝らしたけれど、そこにはスライムみたいな青っぽいドロドロしか見えなかった。魚というものはもういないのか、と他の参加者が聞く。担当者は軽く鼻で笑って答えた。
「本物の魚が完全に失われてしまったわけではない。一部の魚種はうちの会社でもきちんと保存してある。お前たちが本物の魚に関わる機会はまず無いだろうが。原理上再現不可能なマ○○と名付けられた魚種については私たちがきちんと保存を行っている。ここで扱う魚の素体は、このマのつく魚の細胞を元とした簡易クローンだ。一応魚の形はしているがそれだけだ。それ以上は増えもせんし味も悪い。これに概念を付加することで、物質としての素体を口に含んだ瞬間、目的とする魚、ここではゴマサバだが、それの味と同一の情報が消費者の脳内で展開される」
「味情報の良し悪しは、お前たちが付与する概念の質にかかっている。お前たちが認識しているゴマサバの味が、製品となるゴマサバの味に反映される。勤務中は常にゴマサバのことを考え、ゴマサバの味を思い浮かべているように」
結局僕たちに伝えたかったのは最後のそれだったようで、そこまで一方的に話すと担当者は僕たちを元のラインに追い返した。
僕は回想から現実に戻ると、ため息をついて手元の「サバ」を見た。よく見ると意外と大きい。アタマとしっぽを落としたとて、並みのフライパンに収めるにはちょっと難しいかなと思うくらい。それからその身はくったりして妙に頼りない。それを銀色につっぱった皮がぐるっと覆う。銀色とはいったけれど、胸ビレのラインから上はメタリックな青緑色にてらてらとしている。ただ青緑ってだけじゃない。出来の悪い迷路みたいな、気持ちの悪い模様が背中にのたうっている。この見た目からはにわかには信じられないが、これが犬や猫や人間と同じ、生き物だったというのだ。
そうだ。こんなのが、昔は海にいたのだと言う。魚はだいたい海にいたらしい。川にいたぶんもあったみたいだから全部が全部ってわけじゃないけど。川の上流の方はともかく、海なんてところで魚くらい大きな生き物が暮らせるなんてそんなはずがあっただろうか。海のなかは塩水微生物でいっぱいで、他の生き物が使える酸素なんてぜんぜんないはずなのに。でもその当時は海にもたくさん魚がいたそうだ。とにかく自然のなかで野生だったらしかった。なんと、人間の手を借りずともそこに勝手に存在していたと。で、そいつらはみんな水の中で暮らしていた。海や川やをぐるぐる自由に泳ぎ回っていたのだと。マサバもゴマサバもタイセイヨウサバも全部、自分たちで勝手に生まれて増えて海の中を泳ぎ回っていたという。
それを聞いたとき僕はなんだか不気味に思って、しかし同時に感動すらしてしまった。魚というのは生き物なのかと。そしてサバは魚であるから、つまりはサバだって生き物なのだ。たぶん。たぶんそう。それはまあそうだとして。すごい、と、僕は思った。ベルトコンベアのうえで、巨大な目を黒々させているばかりの存在じゃなかった。生きて、いたのだ。かつては。そしてマサバというやつは、いまでもどこかで生きているのだと言う。
マサバはおいしいらしい。ゴマサバよりずっと。というか、きちんと生き物だった頃の魚は、僕たちが知るよりずっとおいしいものだったらしい。でも僕みたいな一般市民にはまず食べられない。ものすごく高級で、それを食べられるのはすごいお金持ちの証だ。マサバに限らず、マアジとか、マダイとか、マイワシ、マガキとかなんでもそう。マとつく魚はたいていものすごく高価で、ちょっとボーナスをもらったくらいではおいそれとは手が出ない。完全生体養殖でしかふやせないから高くなるのも当然だという。そういう魚は「お刺身」という食べ方をするのが美味しいらしい。しばらく前に社員たちが見回りながら、マサバのお刺身のことを話していた。社員というのはそんなにお金持ちなのだろうか。それとも育てているから自分たちでも食べられる? お刺身という食べ方をした経験は僕にはない。本物の魚でないとお刺身は美味しくないらしい。火を通していない魚の肉を細く切り、しょうゆに浸して食べるのだという。いつか食べてみたいけれど、この仕事をしている限りは無理だろう。
不意に肩を叩かれて、僕は左手からゴマ粒を取り落した。べちゃ、と僕の体に何かがはりつき、ずり落ちる。なまぐささが臭気を増して僕を覆った。足元を見ると、サバと青いドロドロの中間くらいの物体が一つ。投げられて、僕にぶつけられたのはこれだったらしい。投げたのは、さっきお刺身の話をしていた社員だった。
「ヘッドギアの調子が悪くなっていたようだが。集中しろ。お前のせいで不良品が大量に出ている」
酷いようだと弁償させる、と言い捨てて、その社員は僕の頭のヘッドギアを乱暴に交換した。そのまま何も言わずに立ち去る。僕が呆然と立っていると、嫌がらせのようにヘッドギアからやけに強い電気ショックが流れた。痛い。
むくれた僕は足元から、べちゃべちゃのゴマサバになりきれなかった何かを拾い上げた。簡単に崩れる身の内側の方を指でこそげ、つまみあげる。お刺身というのは綺麗に切りそろえられたものらしいけれど、まあナマだったら似たようなものだろう。マサバのお刺身が美味しいなら、ゴマサバのお刺身だって美味しくていいはずだ。まあちょっと失敗して、ドロっとしたりはしちゃってるけど。気にしない。気にしないことにする。だから僕は、そのなまぐさいサバの身を口に含んで飲み下した。
吐き気がこみあげるほどまずくって、その日は一日中後悔して過ごした。