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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.47 / 自分の輝ける世界を
Last-modified: 2020-12-22 (火) 20:48:25 (1213d)
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活動/霧雨

自分の輝ける世界を

そう

 光がほとんど入らない樹海。木々が光を遮り薄暗い。
 ずっしりと生えている樹木に一人の女性がもたれかかっていた。
 海のような青色の長い髪の華奢な女性だ。身につけた藍色の長袖の上着で腕が隠れている。
「最悪……」
 彼女は小さくつぶやき、服の袖で額の汗を拭う。
 それにしてもここはどこなの? 森? 熱帯雨林って感じではなさそう。知らない場所だけど、日本の樹海みたい。空気や雰囲気がなんとなくだけど、そんな気がする。
「キィー!」
 静かな森の中に奇声が響く。
 来た!
 彼女は周囲を見渡す。
 頭上でカサカサと何かが動き回る音が響く。
 今度こそ捕まったら終わる。彼女はつばを飲むことをこらえる。
 呼吸音も出すな。
 心臓だけがドクンドクンと音を鳴らす。
 お願いだから止まって心臓!
 彼女は左胸をギュッと押さえる。
 カサ……。
 音が鳴り止んだ。行ったのね。
 彼女は緊張の糸が切れ、一息つく。
 今のうちにここから離れないと。
 彼女は歩き始め――。
「キィー!」
 背後からの突然の声に、彼女の思考が白紙になる。
 後ろを振り返ると、声の主が立っていた。彼女に対して体格が一回り小さい黒い猿だった。黒い毛皮で覆われた身体に細長い手足。彼女は猿のことは詳しくない。彼女が知る中で一番近いのはチンパンジーだろう。   
「キキッ!」
 猿は歯をむき出しにして、笑う。 
「あ……」
 彼女の表情が絶望に変わった。
 猿の手が彼女に迫る。
 どうしてこんなことになったのだろうか?
 ことは数時間前に遡る。

 仕事帰りの夜のことだった。
 人通りが少ない場所にある、高層マンション、そこに私の部屋がある。
 いつも通りサングラスと黒い帽子で顔を隠し、誰にも見つからずにマンションに帰ってきた。部屋の前について、ようやく一息つけるところだった。
「キィー!」
 突然、後ろから奇声が響く。
 ハッとなって振り返ろうとするが――。    
「ん!?」
 毛深い手に口を塞がれる。
「んー! んー!」
 口を塞ぐ手を剥がそうとするがビクともしない。
 この毛深さ。この腕の感じ。猿? どういうこと? ここは八階。間違っても猿が入ってこれる場所ではない。ここはペット禁止ではなかったから、近くの部屋の人が飼っているのかもしれないけど、だとしても突然、私に襲いかかってくるなんてありえない。一億歩譲って、襲ってくることはあってもそれを飼い主が止めないなんて、どんな神経してるのよ!
 もがいて振りほどこうとしたが、ほどけない。ゆっくりとドアから離される。
「んー! んー! んー!」
 体がふわりと浮いた。
 何が起きたのか分からず思考が止まる。ここは八階、体が浮く、翼を持たない私にこれから何が起きるかなど想像するまでもない。
 死へのフリーフォールだ。
「んー!」
 突然現れた謎の猿に口を塞がれ、訳も分からず地面へダイブして人生を終える。
 こんなところで死にたくない! こんなところで……!
 夜空に向かって手を伸ばす。
 何かに引っかかるわけがない。
 誰かが掴んでくれるわけがない。
 手を伸ばしたところで助かるなんて、そんな夢物語のような奇跡が起きるわけがなかった。
 ガシッ!
 誰か、否、何かが伸ばした私の手を掴む。
 人の手ではなかった。暗くてよく見えなかったが、触った感触はぬいぐるみのようにふわふわしていた。
「ぼくが君を護るよ」
 子供のように柔らかい声が聞こえ、私の意識は途絶えた。
 

 目を覚ますと、見知らぬ森にいた。
「キィー」
 離れたところから猿の声が聞こえた。
 逃げないと。
 今、自分の身に何が起きたのか? ここはどこなのか? あの猿はなんなのか? 
 分からないことだらけだが、あの猿に捕まってはならないということだけは分かった。

 
 逃げ続けたのはいいけど、見つかって、追い詰められている。
 あぁ、こんなところで私の人生は終わるのね。
 それなりに輝いたと思うけど、最期はあっけないのね。
「アターック!」
 どこかで聞いた緩い声が響く。
 突然横から飛んできた灰色の物体が猿を飛ばす。
 助かった? 
「大丈夫?」
 灰色の物体が彼女に話しかける。灰色の物体の姿は、ペンギンの雛に似ており、背丈は彼女の半分より少し小さい。
「え、えぇ」
 彼女は混乱しながらも頷く。
 得体の知れない存在とはいえ、助けが来たお陰で、彼女は少し気が緩む。
「キィー!」
 猿は立ち上がり叫ぶ。
 彼女はハッと息を飲み、身構える。一瞬緩んだ表情に緊張が走る。
「大丈夫」
 のほほんとした声が響く。
「君はボクが護るよー」
 灰色のペンギンが力強く宣言する。
「うおー!」
 ペンギンが猿に向かって身体を丸め、ボールのように突撃する。
「キィー!」
 猿は片手でペンギンを受け止め、地面に叩きつける。
「わぁー!」
 ペンギンはボールのように地面を跳ね、転がっていく。
 猿は転がるペンギンに追撃を加えようとする。猿の爪がペンギンに迫る。
「消えなさい」
 猿の眼球に黒いブーツが直撃する。
「キッキィー! イー!」
 猿は想像できなかったのだ。まさか先ほどまで自分に怯えていた女性が不意打ちを食らわせるなどと。
 目に蹴りを受けてしまった猿は顔を押さえながら地面をのたうち回る。
「あなた、立てる?」
 女性はペンギンに言葉を投げかける。
「平気だよ-」
 ペンギンは立ち上がるが、足がふらついている。
「逃げるわよ」
 彼女はペンギンを抱え、後ろを振り返らずに走り出した。
 

「はぁ、はぁ」
 草木の匂いはより濃くなった。随分、森の奥まで来てしまったようだ。
 後ろを振り返っても猿はいない。声も聞こえない。とりあえずは逃げ切れたのだろうか。
 そういえば、ニュースになってたわね。二ヶ月ぐらい前から起きている行方不明事件。もう百人以上が行方不明になったと。行方不明になった人たちはあの猿によって、この世界に連れ去られたのだろうか?
「降ろすわよ」
 彼女は静かに言い、ペンギンを地面にゆっくりと降ろした。
「ありがとう!」
「あなた何なの?」
 彼女は質問を投げかける。ペンギンがしゃべっているなんておかしい。敵意は感じないからといって信用できるわけではない。
「ぼくはねー、君を守りに来たんだよー」
 ペンギンの回答に彼女は困惑した。
 嘘を言っているようには見えないけど、得体の知れない存在からいきなり言われても……。
 ガサガサ。
 前方からの物音に彼女たちは身構える。
 先ほど逃げ切れたのは不意打ちがうまく決まったからだ。正面から来られたら逃げ切れない。
 しかし、彼女たちの前に現れたのは猿ではなかった。
「あのー」  
 木の陰から現れたのは、小柄な少女だった。肩まで伸びている薄いピンクが入った髪、桃色の半袖のシャツにミニスカート、動きやすそうな服装をしている。
「あなたも猿に連れ去られたの?」
 彼女は現れた少女に問いかける。
「はい。あ、私、宇佐美桃(うさみもも)って言います」
 少女はハキハキとした声で名乗る。
「そう」
「よろしくねー」
 素っ気ない彼女と対照的にペンギンは手を差し出す。
「え、あ、君もこんにちはー」
 宇佐美は一瞬戸惑いながらもペンギンの手を取る。
「もふもふしてる」
 宇佐美の目が輝く。
 そういえば、悪くない抱き心地だったわね。などと思い返してたら、少女がこちらに目線を上げる。
「あの、あなたってひょっとして――」    
「すごい人なんだよ-」
 桃の声にペンギンが被せる。
「え、じゃあ、やっぱりあなたはモデルの水輝渚(みずきなぎさ)さんですか!」
 桃は目を輝かせ、彼女に言い寄る。
「え、えぇ。そうよ」
 やっぱりバレたか。まぁ隠すことでもないし。
「私、渚さんのファンなんです! ここからでれたらサインください!」
「私、サインはしない主義なの」
 渚は冷たくあしらう。
「そうですか……」
「あと、モデルは少し違うわね」
「あ、そうでしたね。すいません」
「私はスタァよ」
「え? お星様なの! スゴい!」
 ペンギンが目を輝かせる。
「え、えぇそうよ」
 渚は一瞬戸惑うが、まな板のような胸を張る。
「すごーい!」  
 ペンギンは目を輝かせながら、手を叩く。拍手をしているんだろうが、手がもふもふしているため音がならない。
「で、あなたは何者?」
「私はただのJDで」
「JD? え? 大学生なの? 中学生だと思ったわ」
「ヒドいです! 大学生ですよ! 身体小さいからよく間違えられますけど、来年にはお酒も飲めるんです!」
 宇佐美は頬を膨らませて抗議する。
「そうなの」
「そうです!」
「すごーい!」
「話が逸れたわ。私が聞きたいのは、宇佐美さんじゃなくて、そこのペンギン」
「ぼくのことー?」
 ペンギンは首を傾げる。
「そうよ」
「知り合いじゃないんですか?」
「違うわよ。さっきそこで会ったばっかりよ」
 みぎわの表情が一瞬曇る。
「そうなんですか」
「ぼくはみぎわっていうの。よろしくねー」
 ペンギンは笑顔でのほほんとした声で自己紹介をする。
「みぎわ……」
「どうしたんですか?」
「いえ、何もないわ」
 みぎわ……どこかで聞いた気がする。私のファンにいたかもしれない。でも、ファンでペンギンは見たことないからきっと思い違いね。
「じゃあ、出口を探しましょう」
「出口?」
 宇佐美の発言に渚が口を挟む。
「あると思いますよ。渚さんも猿に連れ去られたんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、猿はどうやって私たちの世界に現れたんですか?」
「……なるほどね」
 猿たちはこの世界から私たちの世界にやって来た。つまり、この世界から私たちの世界に向かう手段は必ず存在する。
 猿だけが世界を行き来できるという可能性もあるけれど。ま、立ち止まってるよりかはよさそうね。

 
 歩き始めてからどのくらいたっただろうか?
 まだ周りは緑一色。景色は変わらない。時間帯さえ分からない。スマホのGPSでなんとかできないかとも考えたけど、スマホの文字は文字化けしていて気持ち悪い。
「私たち以外に人はいるのかしら」
 渚が疑問を口にする。
「まだ見てないですね」
「まだってことは、他にも誰かいるのかしら」
 宇佐美の表情に緊張が走る。
「人がいるなら会いたいなぁ。どんな人なんだろー」
 みぎわのふんわりした発言が張り詰めた空気を壊した。
「会いたいね」 
 宇佐美はみぎわに微笑む。
 聞きそびれた。
 渚は小さく溜め息をつく。
 あの猿は雑魚ではない。
 今まで、渚はストーカー被害十三件、実際に襲われること七回、その全てを返り討ちにしてきた。あの猿はその渚が不意打ちでしか撃退できなかった。
 その猿からただの女子大生が一時的にでも逃げきれるわけがない。
 宇佐美はあの猿について、この世界について、何かを知っている。
 とは言っても、全部ただの憶測なのよね。
「キィー!」
 再び聞こえた、悪魔の声が。
 渚は思わず構える。
 最初は急に掴まれて対処できなかった。得体が知れなかったから恐怖に心を支配された。でも、今は違う。
 あの猿に私の攻撃は通用した。そう思うと体が動く。
 掴まれてからじゃ遅い。チャンスは一瞬、掴まれる瞬間にカウンターを狙う。それしか勝機はない。
 ザザッ!
 頭上から音が聞こえる。向こうも隙をうかがっているのだろう。
 カサカサ――。 

 頭上の音が止んだ。聞こえるのは私たちのかすかな呼吸音のみ。

 シャッ!
 そこ!

 背後に気配を感じ蹴りつける。手応えはあった。
 渚の黒いブーツが猿の脇腹にめり込む。
「キィィアー!」
 猿が痛みでわめくが、気にしない。そのまま勢いに任せて乗せ蹴り飛ばした。飛ばされた猿は近くの木に衝突した。衝撃で葉が落ちる。
「コイツから出口の場所聞きたいけど、言葉通じるかしら?」
 一息ついた渚が口を開く。
「分からないです」
「みぎわ、できる?」
「やってみるよー」
 みぎわが意気揚々と猿の方へ歩き始めた時。
 背後から強い光を感じた。
「何?」
 後ろを振り返ると、そこには街が見えた。自分たちが通れるくらいの大きさ、空間の穴とでも言うべきだろうか。そんなものが現れたのだ。
 人の気配はない。コンクリートの地面、建物。 
 どうしてそんなものが現れたのかは分からない。猿を倒したから?
 でも、ここに飛び込めば元の世界に帰れるかもしれない。
「とりあえず行きましょうか」
 渚が空間の穴に入ろうと一歩を踏み出す。  
「キィー!」
 え?
 猿は突然飛びかかってきた。
「危なーい!」
 みぎわが猿に突撃しようとしたが、空を切る。猿はそのまま渚の元へ――。
「危ない!」
 宇佐美が飛び出し、渚を突き飛ばす。そのまま――。
「宇佐美さん!」
 渚が立ち上がろうとした時には、もう猿は木の上にいた。その手には宇佐美を抱えて。
「キィー」
 宇佐美を抱えた猿はそのまま木を飛び、立ち去った。
「待ちなさい!」  
「待てー!」
 渚とみぎわの叫ぶが、猿が聞くわけがなかった。
「どうするの?」 
 みぎわが渚に訊ねる。
「そんなの――」
 渚の言葉が詰まる。
 目の前には出口。出たい。でも、目の前で人が連れ去られたのをほっとくことはできない。猿が去った方向は大体分かる。追えば見つけることはできるかもしれない。
 見つけてどうする? 自分の蹴りは数秒程度しか時間を稼げない。そもそも次は当たらないかも知れない。
 行ったところで自分にできることはないかもしれない。
「君だけでも帰りなよ」
 みぎわが渚に話しかける。
「でも……」
「君には待ってる人がいるよー」
 みぎわの言う通りだ。自分は帰らなければならない。ファンがいるから。スタァである自分を待ってくれている人がいるから。  
「私は……」
 渚は一歩踏み出した。

「キィー!」
 猿は宇佐美を抱え、木々を飛ぶ。
「そろそろですね」
 猿に担がれた宇佐美は不適に笑う。   
「キィー!」
 猿が地面に降りる。
 先ほどまでとは違い、青空が見える明るい空間だった。
 そこにあったのは集落のようなものだった。木々で作られた一昔前の和式の住居。電気や水道が生まれる前の住居だ。
「ここにいるのね」
 宇佐美が小さくつぶやく。
 ビュン!
 草むらから飛び出した何かが猿に突撃した。 
「キィー!」 
 猿は思わず宇佐美を離し、地面を転がる。
「ありがとう」
 地面に降りた宇佐美の隣には、桃色の小柄なウサギがいた。 
「いるんですよね。隠れてないで出てきてくれませんか?」
 宇佐美は誰かに呼びかける。
「いいだろう」
 住居の影から男が現れた。黒いメガネをかけ、黒いシャツを身につけた痩せこけた男性だった。
「あなたがこの世界の主ですね」
「そうだ。我が輩こそがこの世界の主」
 男は宇佐美の問いに堂々と答える。
「今まで誘拐した女性たちはどこですか?」
 宇佐美は問いただす。
 彼女は知っていたのだ。この男が最近起きている連続失踪事件の犯人だということを。
「そうだなぁ。特別に教えてやろう。ここだ」
 男は住居の扉を開ける。そこには――。
「気持ち悪いですね」
 宇佐美がゴミを見る目で男を見る。
 住居の中には女性が山のように積まれていた。十人は超えている。彼女たちは目の焦点が合っていない。声も上げない。いや、上げる気力がないと言うべきだろう。ここで何をされたかは考えるまでもない。
「気持ち悪い? 何を言ってるんだい? 君もこの中に入るんだよ」
 宇佐美は背筋に悪寒が走るのを感じる。
「それは死んでもごめんですね」
 宇佐美はそう宣言し、右手を挙げる。
「UNITE」
 宇佐美が静かにつぶやく。
 すると、彼女の足下にいたウサギが跳躍、土埃が舞う。
「わっ」
 土埃に男がひるむ。
 その間に、ウサギがフード状になり、宇佐美に被さる。
 フードが被さると、変形、宇佐美の姿はうさ耳にピンクの寝巻きを纏ったような姿になった。バニーガールとは少し違う。
「UNITE」
 男もつぶやくと、猿が男に向かって突進する。
 猿はフード状になり、男に衝突。男は猿のような毛皮を纏った類人猿のような姿になった。
「行きますよ」
 男と宇佐美は同時に動き出す!
 先制したのは宇佐美、彼女の拳が男の顔面に直撃する。
「軽っ」
 男は大きく飛ばされる。いや、飛ばされすぎている。
「わざと後ろに飛んだんですね」
「そうだ」
 男は飛ばされた先にあった木を素早く上る。
 宇佐美は男を追い、彼が上った木を殴りつける。木は大きく揺れるが――。
「ムダだ」
 宇佐美が見上げた時には男はそこにいなかった。
 カサカサ。
 違う木が揺れる音。
「そこです!」
 宇佐美は跳躍するが、そこには男はいない。
「背中ががら空き」
 背後からの男の声。宇佐美の背中に衝撃が走る。
「痛っ」
 男の拳を受け、宇佐美は地面に墜落、土が舞う。
「まともにやったら不利ですね」
 宇佐美は立ち上がり、思考する。
 相手はひょろひょろとはいえ男性、戦闘において男女の体格差は小さくはない。宇佐美は小柄な女性だ。純粋な力勝負になると分が悪い。
 直線的なスピードであれば、宇佐美が僅かに上である。スピードを生かせば、体格差をある程度埋められる。純粋な身体能力であればトータルで見れば五分五分だろう。
 問題はフィールドであった。
 ウサギの跳躍力があれど、相手は木から木へ飛び移る。相手がいる場所を狙ってもすぐに逃げられる。
 それにこの場所は相手の『巣』、あちらにとって有利なフィールドだ。実力が互角だったとしたら、こちらの勝算は薄い。もし、勝機があるとすれば――。
「トドメだ!」
 男が叫ぶ。     
 ビュン!
 空を切る音。
 男は木から跳躍、目にも止まらぬ速度で宇佐美に爪を立てた。それが痛手になった。
「ガハッ」
 男の爪は宇佐美の頬をかすった。宇佐美の頬から血が流れる。
 男は理解できなかった。
 宇佐美の拳が自身の腹にめり込んでいることが。
「あなたが背後から襲うことは分かっていました」
 カウンター。相手は飛び道具を持たない。ならば、相手がこちらに近づいてくる一瞬に全てをかければいい。
「くっそ!」
 男は腹を押さえながら、再び木へ跳躍する。また木から木へと飛び移り、逃げ回ろうという魂胆だった。    
「やっぱり一撃じゃダメでしたか」
 相手を待ってたので、こちらのスピードを乗せれなかったのが痛かったですね。でも――。
 宇佐美は再び男が向かった木へ走り出す。
 宇佐美が木へ近づいた時を狙い、男は近くの木へ逃亡し――。
 メキ!
 宇佐美の拳が再び男の腹にめり込む。
「なっ!」
「セイ!」
 宇佐美に男は地面に飛ばされる。土埃が舞い、地面に亀裂が走る。
「あなたの動き、単調なんですよね」
 男は木から木へ跳躍する。立体的に動く。しかし、飛行能力はない。木から木へ飛ぶ瞬間、空中では身動きがとれない。次にどの木へ飛ぶかを予測できれば、飛び移るまでの僅かな瞬間であれば攻撃を当てることができる。
 もっとも、先ほどのカウンターが決まって、速度が落ちていなければ、攻撃を当てることは不可能だったかもしれないが。
「おしまいです」  
 
* 

 我が輩はいつも弱者だった。
 学校に行くたびにいつも殴られていた。見て見ぬふりをする教師。あざ笑うクラスメイト。見てくれない両親。
 高校は中退した。一歩も家を出ないことにした。
 引きこもって毎日ゲーム。両親は何かを言うけど、聞こえない。
 そんなある日、世界が変わった。
 二ヶ月前、我が輩は自分の世界を終わらせた。
 気が付いたら病院のベッドの上だった。
 世界は終わらせられなかった、否、新しい世界が始まったのだ。
 我が輩は力を手に入れていた。
 自分の異世界を作る力、自分の使い魔を召喚し、操る力。そして、使い魔と融合して自身を高める力。異世界に連れたい人を連れ去る力。
 力の使い方はなんとなく分かったので、何回か実験した。 
 我が輩をイジメたヤツをボコボコにした。
 ボコボコにしても気分は晴れない。せっかく力を手に入れたんだ。何かしたいな……ハーレム作りたいな。
 今まで陰キャで縁がなかったこと。一度ぐらいやってみてもいいよね。
 ある日、おかしなヤツが『我が輩たちを狩る存在』がいることを伝えてきた。そんなの返り討ちにしてやる。我が輩は世界を理想のものにしようとした。特訓もした。
 そうやって作り上げた世界が終わる? 
 我が輩の夢が終わる?
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
    

 男の体に変化が起こる。
「うぁああああ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
 男の変化に宇佐美は一歩後ずさる。
「何? 何が起きてるんですか?」
 男から黒いオーラがあふれ出る。止まらない。黒いオーラは天まで伸び、青空が灰色になる。 
「我が輩の世界は終わらない」
「嘘でしょ?」
 宇佐美は目を見開く。
 立ち上がった男の手に握られていた物が信じられなかったのだ。
 ババババッ!
「ひゃっ!」 
 宇佐美は跳躍し、森の中へ逃げ込む。
「なんの冗談ですか? それ」
 男の手に握られていた物は、二丁の黒いマシンガンであった。   
「そうだ。我が輩がこの世界で負ける訳がない、負ける訳がないんだぁああ!」
 ババババッ!
 再び二丁のマシンガンが火花を吹く。落ちる薬莢。
 地面が、木々がえぐられていく。
 宇佐美は森の中を逃げ回る。
「何なんですか! 土壇場で覚醒するなんて、これじゃ近づけないです!」
 宇佐美は走りながら思考する。
 マシンガンを使えるのは、おそらく、猿は人間と近いから、人間の武器を使えるとかだろう。
 こちらに遠距離攻撃手段はない。どうにかして近づかなければならない。
 逃げ回って弾切れを待つのもアリだけど、弾はまだまだ切れそうにない。切れる前にこちらの体力が尽きる。
 だったら方法は一つ。
 宇佐美は更にスピードを上げ、一気に男に突っ込む。
 男は弾丸を射出するが、一度も当たらない。
 銃口を見れば、弾丸を躱せる、なんて甘いことはなかった。
 宇佐美のスピード、反射神経を持ってしても、ほとんどは躱せても、全ては躱せていない。
 頬から血が流れる。腕から血が流れる。足から血が流れる。
 ウサギの強化服のおかげで致命傷は受けないが、ノーダメージにはならない。
 痛みにこらえ、歯を食いしばり、宇佐美は拳を握る。
「これで、終わりです!」
 宇佐美の渾身の拳が――。
「お返し」
 宇佐美の脇腹に黒い物がめり込む。
「がは……」
 男は銃を鈍器として使ったのだ。
「どうだい。先ほど自分がやったことをやり替えされた気分は?」
 宇佐美は衝撃に思わず数歩引く。
 ババババッ!
 男はすかさず至近距離からマシンガン連射。
 宇佐美は躱せずに全弾受ける。
「あぁあああああああ!」
「これで終わりだぞっ」
 男が発砲を止める。
 反撃のチャンス、とはならなかった。
 宇佐美はゆっくりと地面に崩れ落ちた。
 宇佐美とウサギが分離する。
「噂に聞いていた『我が輩たちを狩る存在』も大したことなかったですな」
「悔し……いです……」
 宇佐美が力無くつぶやく。
「君も我が輩のコレクションにしてあげよう」
 男が手を伸ばす。
 宇佐美は逃げようとするが、体に力が入らない。
「い、嫌で……す」
「待ちなさい」
 凜とした声が響く。
「へぇ、逃げなかったんだ」
 男が顔を上げる。
 その先にいたのは――。
「どうして? 渚さん、みぎわさん……」
 荒れた森の中、渚とみぎわが立っていた。

「どうしてって、決まってるでしょ。私はスタァよ。ファンを見捨てて自分だけ助かるなんて嫌よ」
 宇佐美の質問に渚はハッキリ答える。
 実は逃げようか一瞬迷った。でも、ファンを見捨てて逃げるなんてスタァとして、プライドが許せなかった。ただそれだけのことだ。     
「わざわざ来てくれたんだね。捕まえ直す手間が省けたよ」
 男は醜い笑みを浮かべる。
「宇佐美さん。あの類人猿が猿たちの親玉?」
 渚は男を無視して宇佐美に歩み寄る。
「あの男が、女性たちを連れ去っていた犯人です……」
「そう。ありがとう」
 渚は立ち上がり、男に向き直る。
「彼女たちを解放しなさい」
「解放しろと言われてするとでも思ってるのかな?」
 男が舐めきって答える。現に渚と男とでは天と地ほどの力の差がある。
「解放しなさい」
 渚は折れない。
 彼女は背筋を伸ばし、まっすぐと男を見据えている。
「ムカつきますねぇ。その上から目線」
 男はイラつき始める。渚は毅然としている。
 彼女は折れない。
「じゃあ、あなたが我が輩の夜伽になってくれるのなら考えてあげて――」
「それでいいから彼女たちを解放しなさい」
 渚は男の提案を即答する。
「渚さん」
「即答ですか、気にくわないですねぇ。あなたはスタァとかではないのですかぁ?」
 男はさらに不機嫌になる。
「えぇ。スタァよ。だから、ファンを助けるの」
 渚は凜とした声で答える。
 その眼差しに迷いはない。
「まぁ、いいや。スタァの身体、いただきまーす」
 男は渚に駆け寄――。
「アターック!」
 みぎわが男に突撃。不意の攻撃に男は思わずよろめく。
「みぎわ……」
「渚ちゃんは自分を大切にして!」
 みぎわが怒鳴りつける。先ほどまでのゆるふわじゃない。
「じゃあ、どうすればいいのよ! 私じゃアレには勝てない。あんたも勝てない。何か知ってそうな宇佐美さんも負けた。じゃあ私が犠牲になるしかないじゃない! アレが約束を守ってくれるかもしれない可能性にかけるしかないじゃない!」
 渚も思いのままに叫ぶ。
「勝てるよ」
 みぎわが静かに返答する。その目に曇りはない。
「え?」
「渚ちゃんとぼくが一つになれば誰にも負けない」
「一つになるって……どうやって?」
 渚は戸惑う。急に意味が分からないことを言われたからだ。
「渚さん、ムリです。これは本来――」
 宇佐美も反論する。
「できるよ。UNITEって言って。ぼくと一つになるイメージをして」
「え、えぇ」
 渚は戸惑う。
 みぎわと一つになるイメージ?
 でも、やるしかない。目の前のアレに勝てる可能性が少しでもあるのならば。無理矢理でもイメージしてやる。
 渚は瞳を閉じ、深呼吸する。
「UNITE」
 渚が静かにつぶやくと、みぎわの体が宙に浮き、パーカー状になる。
「何これ?」
 渚が突然のみぎわの変形に驚いている間に――。 
「行くよー」
 パーカーになったみぎわが渚に被さる。
「ちょっ! え? 何?」
「はぁっ!」
 みぎわのかけ声と共に周りに水しぶきが飛ぶ。
「嘘……」
 宇佐美が思わず声を漏らす。 
 渚の姿は、灰色の雛ペンギンのようなパーカーを纏い、腕は長袖で隠れ、足は黒いブーツ、例えるなら、ペンギンのパーカーを羽織ったモデルとでも言うべきだろう。
「もうちょっとマシな衣装はなかったのかしら」
 フードをめくった渚がつぶやく。
「どんなヤツだろうと、我が輩には勝てない!」
 ババババッ!
 男がマシンガンを連射する。
 ビュン!
 渚は足に水を纏い、弾幕に向かって回し蹴り一閃。
 水流に弾丸は全て打ち落とされる。
「それがどうした!」
 ババババッ!
 弾丸は続く。
 渚も回し蹴りで対抗するが、追いつかない。
「ひゃっ」
 弾丸が命中し、渚を追い詰める。
 ババババッ!
 くっ。このままじゃ――。
 渚が自身の敗北を覚悟した時、
「ぼくが護るよ」
 彼女の頭の中で声がした。
 ババババッ!
 土煙で渚の姿が隠れる。
「やった!」
 男は笑みを浮かべる。
「すごい威力だったよ-」
 ふんわりした声が響く。
「なに……」
 土煙が晴れる。
 そこにいたのはフードを被った無傷の渚だった。
「この野郎!」
 男は再びマシンガンを連射する。
 渚は袖に隠れた左腕を突き出す。すると、彼女の前に水の盾が生成され、弾丸を全て受け止めた。
「何発も撃てるなんてすごい。でも、海はもっとすごいんだよー」 
 男はやけになってマシンガンを連射するが、水の盾は破れない。
 今、渚の体は渚の意思では動いていない。今、彼女の体を動かしているのはみぎわだ。
 どうやら、ペンギンパーカーのフードを外すと渚、被るとみぎわに体の主導権が移るシステムらしい。
 不思議な感じ。自身の体を他人が操る。そのことに違和感を覚えていた。
 でも、嫌な感じじゃない。むしろ懐かしいとさえ思ってしまう。
 その理由が彼女には分からなかった。
「えい」
 渚、否、みぎわは右手で、野球ボールほどの大きさの水の玉を二つ生成し、投げつけた。
 投げつけられた水の玉は男、ではなく、男が持っていたマシンガンの銃口を塞いだ。
 男は構わず弾丸を放とうとするが、弾丸は水の玉で防がれ、発射されない。
「くそ! クソ! クソクソクソクソ! くそう!」
 男はマシンガンを投げ捨て、膝から崩れ落ちた。
「ここは我が輩の世界なんだ……現実じゃうまくいかなかったのに、ここでならうまくいくと思ったのに……我が輩の世界でも同じように……」
 男の目から大粒の涙がこぼれる。
「辛かったんだよね。誰にも分かってもらえなかったことが」
 みぎわが語りかける。   
「怖かったんだよね。周りの人たちが」
 みぎわは優しく微笑みながら、男に歩み寄る。
 男はうつむいたまま返事をしなかった。
「大丈夫だよ。ぼくがいるから」
 みぎわが男の手に肩を置く。 
 それは励ましでも、同情でもなかった。憐憫だった。男の不幸を自分の不幸のように悲しみ、みぎわも涙を流した。
「もう怖いことはないんだよ」
 我が子の悲しみを嘆く母親のような優しい声だった。
 宇佐美もつられて涙をこぼしそうになる。
「分かったような口をきくな!」
 男が絶叫し、みぎわの腕を払う。
「うまくいく? だったら、ここでおとなしく、我が輩のコレクションにされるんだ!」
 男はみぎわを突き飛ばす。
「わっ」
 みぎわは飛ばされ、体勢を崩す。男は隙を逃さず、拳を振り上げる。
「みぎわ、変わりなさい」
 渚の声と共にみぎわがフードを外す。
 ドガッ!
 男の頬に黒いブーツがめり込み、そのまま地面に叩きつけられる。
 水を纏った回し蹴り一閃。地面に叩きつけた衝撃で、水柱が天まで伸びる
「最初からこうすればよかったのよ」
 渚が小さくつぶやく。
 渚の一撃を受け、地面に倒れた男が猿と分離する。
「くそう……」
 男が力無くつぶやく。
 もう反撃する気はなさそうね。
 渚もみぎわと分離する。
 ピキッ。
 空間にヒビが入る。
「何これ?」
「この世界が崩れるんです」
 宇佐美がつぶやく。
「世界が崩れる?」
「はい。世界を作っていた存在が強いダメージを受けると、世界が崩壊するシステムなんです」
 なるほどね。この世界を作っていた存在、猿か男が私の攻撃で強いダメージを受けたから、こうなってるのね。
 そういえば、私が猿を蹴り飛ばした時、元の世界が見えたのも、同じ理由なのかしら。世界を崩壊させるほどのダメージではなかったから、出口が見えるだけでとどまったってところかしらね。   
「世界が崩壊すると、どうなるの? 元の世界に戻れるの?」
「そうですね。元の世界に戻ります。私たちがこの世界に入った場所に戻されます」
 なるほどね。じゃあ、気がついたら変なところにいるってことはないのね。私の場合、マンション……あ――。
「あはは。我が輩の世界が終わる。我が輩はもう輝けない……」
 男がブツブツとつぶやきながら、左袖をめくる。
「それ……」
 宇佐美は思わず声をもらす。
 男の手には傷跡があった。刃物で切ったような傷だ。
「そういうことね」
「我が輩はずっと弱者だった。だから、これがなくなったら終わりなんだ……」
 渚は男を見下ろしながら、小さく息を吐く。
「特別よ。見せてあげる」
 渚は左手の袖をめくり、手首を見せる。
「何コレ?」
 男は目を見開く。
 彼女の手首にあったのは、彼の傷よりも、深い三本の傷だった。
「言いふらさないでね。あなたに見せてあげたのは特別よ」
「渚ちゃん……」
 男は返事をしない。
「えぇ。こんな私でも輝ける場所を見つけたのよ。あなたも見つけなさい。自分の輝ける場所を。きっとどこかにあるわ」
 渚は優しく微笑んだ。
 直後、世界は完全に崩壊した。               

 予想はしていた。
 あちらの世界から元の世界に戻った時は、あちらの世界に行く直前の場所に戻る。私が元いた世界で最後にいた場所、それは――。
 ヒュー。
 全身で風を感じる。
 極限状態っていうのかしら? 死の直前だと、思考が早くなるのね。
 私は八階からのダイブの最中に異世界に行った。
 最後にいた場所に戻るのであれば、空中で戻るのは分かっていることだった。
 下が水や草木であれば助かったかも知れないが、コンクリートの地面。待っているのは確実な死。
 まだ死ぬわけにはいかない。でも、ファンを助けて死ぬのであれば、スタァとして悪くない最期ね。
 私はゆっくりと目を閉じた。
「死なせない!」
 ふんわりとした、でも芯がある声が耳元で聞こえた。
 ドスン!
 重い衝撃が全身を駆け巡る。しかし、コンクリートの地面に落ちた感じじゃない。何かがクッションになったような。でもクッションなんて……。
 渚が恐る恐る目を開けると、そこにいたのは――。
「みぎわ!」
 すぐ目の前でみぎわが倒れていた。みぎわがクッションになったお陰で渚は助かったのだ。
「ちょっとしっかりしなさい! みぎわ!」
 彼女はみぎわを抱きかかえ、耳元で叫ぶ。
「なんで私なんかを庇って死ぬのよ! そもそもなんで私を護ってくれたのよ! っていうかあんた誰なのよ! 聞きたいことは山の如くあるのに! こんなところで死なないでよ! お願いだから目を開けてよ!」
 渚の目から熱いものがあふれる。
「う、うーん、渚ちゃん?」 
 みぎわがゆっくりと目を開ける。
「みぎわ……!」
「渚ちゃん、ケガない?」
 相変わらずこのペンギンは!
「あなた、私より自分の心配しなさいよ。私は平気よ。あなたがクッションになってくれたから」
「そうなんだ。よかった。君を護れて」
 みぎわは微笑む。
 あー! 何なのこのペンギンは! 少しは自分の心配しなさいよ!
「で、みぎわはどこへ帰るの? 帰る場所あるの?」
 渚が話を変える。
「帰る場所……あ」
 みぎわがぽかんとなる。この様子だと帰る場所がなさそうだ。
「帰る場所がないって……そもそもあなたどこから来たの?」
「えっと、それは……その……」
 みぎわはもぞもぞする。言えない場所なのか、そもそも知らないのか。
 渚は小さく息を吐く。
「まぁ、いいわ。帰る場所がないなら私の家に来なさい」
「いいの?」
「いいから言ってるのよ。このマンションはペット禁止じゃないし。私、ペンギンの一羽養えるぐらいは稼いでるわ」
「やったー!」
 みぎわが両手を挙げて喜ぶ。
 どこから来たのかぐらいは言って欲しいけど、言いたくないことをムリに言わせるのはよくないし。後、なぜか嫌じゃないのよね、このペンギンと一緒にいるのは。
 二人は一緒に歩き始めた。