プロジェクト・ハッピースマイル †
f
完璧な笑顔。そんなものはどうやったって定義しようがないはずなのだけれど、私はこれまでに二人、完璧な笑顔ができる人に出会っている。うまく説明するのは難しいけれど、いつもそのとき一番ふさわしい表情を浮かべている、その人の周りでは全ての出来事がうまくように見える、そういう人。
私が初めてそんな人と出会ったのは中学校にあがったばかりの頃。そして二人目はつい最近。高校の、ホームルームを共にする人たちのなかに、過去に出会ったのとそっくりな笑いかたをする女の子を一人見つけた。
*
中庭の隅にある古いベンチは、朝から昼過ぎにかけての間ちょうど校舎の影になり、入学式からしばらく経った四月の今日でも、一人で昼食をつつくにはまだ少しばかり肌寒かった。冷えた弁当箱からは、ケチャップの香りがうっすら漂う。オムライス弁当、連続三日目。わざわざおかずを作らなくても様になるところが良し。高校生になるのだから、お弁当くらいは自分で作ろうという決意は、ぎりぎりまだ失われていない。
頭上で響く賑々しい声を私は聞くともなしに聞いていた。すっかり定位置になったベンチに影を落とす校舎の三階には、私が属するN組の教室がある。ベンチからは開け放たれた窓には春の光がめいっぱい差し込んでいるのがよく見えた。
眩しそうだ、と私は思った。だけどたぶん、そこにいる人たちにとっては心地良いのだろうということも理解していた。まだ始まって一か月に満たない人間関係。排除されるほど悪目立ちしてはいないけれど、どうやら馴染むことは出来なさそうだという確信を得るにはすでに十分だった。
無意味な思考に沈みながら、弁当箱を抱えてベンチにぽつねんと座り込む私のそばに、誰かが立つ気配がした。
「今日もオムライスなんだ」
さりげない、柔らかな声色。つられて顔をあげる。私の目に入るのは、今この瞬間に最もふさわしい、端的に表現すれば「完璧」な、微笑。××高校一年N組――ちなみに席順は私からみて一列右の二つ前――桃原環(ルビ 環:まどか)が、私にむかって小さく手を振っていた。
「一緒に食べてもいい?」
片手に提げたランチバッグを小さく掲げて、環はまた感じよく微笑んだ。
「どうぞ」
拒否する理由もないとはいえ、環の笑顔には断ろうとも断れないような圧さえ感じる。半ば感心しながら私は、環のためにベンチの端に座りなおした。
「ありがとう」
環が嬉しそうに笑う。なんとなく直視できなくて、私は無言でこっくり頷いた。環の長い黒髪からは、かすかにラベンダーのような香りがした。
正直に言えば、この昼休みの間に環が私のところに来ることを、私は初めから予期していた。私がこのベンチで昼休みを過ごすようになってから、環はときどき私を昼食に誘う。毎日というわけではない。環が先生から呼び出されていないこと、教室でイレギュラーな事象が発生していないこと、それから私が他人と喋ってもいい気分になっていること。これら全ての条件を満たす日にだけ、不思議と環は私のところに現れる。
「今日はサンドイッチにしたんだ。私も自分で作ってみたんだけど、なかなかうまくできなくって」
私の隣に腰を下ろした環が、ランチバッグからかわいらしい弁当箱を取り出す。蓋を開けると、ハムとチーズのサンドイッチが綺麗に収まっているのが見える。少し恥ずかしそうにしながら自分の弁当箱を見せてくれる環は、私の目にも親しみやすくて、日陰に覆われたベンチにさえ一筋の光が差し込むような錯覚を覚えた。
「ううん。すごく……すごく上手。おいしそうだね」
環をまねるようにして、私も笑った。頬がぎこちなく歪むのが自分でもよく分かった。
「ふふっ、ありがとう」
また環が光のような笑顔をみせた。
なぜこうも上手くやれない。私はそっと陽光に白く輝く校舎の三階あたりを見上げる。あるいはなぜ、こうも上手くやれるのか。
楽しげにサンドイッチをぱくつく環を視界の端に捉えて、私は手元のオムライスにスプーンを突き刺した。
**
私がこんな調子で物事をどこか斜めに捉えるようになってしまったのは、私が中学校に入ってから少し経ったころからだった。ときは思春期真っ只中。自分も周りの人たちも、色々なことの目まぐるしい変化に溺れそうになりながら、なんとか毎日を過ごしていたころ。私は初めて、完璧な笑顔をみせる人、に出会った。
その人――今ではもう「にこちゃん」というあだ名しか思い出せないけれど――にこちゃんは中学一年生のとき私と同じ組になり、私が中学校に入って初めて隣同士の席になった人だった。
「今日からよろしく」
にこちゃんはどこか悪戯っぽい雰囲気を持った女の子だった。初めて教室の席に着いた日に、隣にいる私にそう挨拶をして、眩しい笑顔をみせてくれた。気さくで、だけど礼儀正しくて、一緒にいるとすごく楽しい。誰からも愛されて、自然とみんなの中心となる人。にこちゃんがいるだけで、難しいこと全部が好転していくように思えた。
もともと人見知りが激しい私も、にこちゃんとはすぐに打ち解けた。他に友達らしい友達はできなかったけれど、それほど気にはならなかった。誰とでも仲良くなれるにこちゃんのことを、ときどき羨ましくも思ったけれど、私はおおむね楽しい気持ちで毎日を過ごした。
そんな状況に異変が起きたのは、夏休みも目前に迫った頃のことだった。
「ねえどうしよう」
長引く梅雨の蒸し暑い雨が降りしきる日だったと思う。二人でだらだら下校していた通学路の途中で、にこちゃんがいつになく真剣な顔で私を見た。
「どうしたの?」
私は、にこちゃんの表情に内心ぎょっとしながら応えた。決して揺るぐことなど無いと思っていた、爛漫とした笑顔はその瞬間、にこちゃんのどこにも見当たらなかった。
「あのね」
にこちゃんは辺りを念入りに見渡して、誰もいないことを確認すると、私に小さく手招きをした。
(あのね、私、……君に告られちゃった)
にこちゃんは少し伸びあがるようにして、私にそう耳打ちした。頭上で触れ合った傘から雫が落ちて、私の首筋に一筋の痕をつけた。にこちゃんの綺麗なショートカットからは良い香りがしていて、私はそれを、ラベンダーだなと思いながら感じていた。
素早く離れたにこちゃんを、私はぼんやりと眺めていた。にこちゃんはまだ、不安げな、それでいて切実な顔をしていた。それはまるで、にこちゃんに話を聞いてもらいたがっているときのクラスメイトや、私自身に似た顔だった。
「良かったじゃん」
私はなんとかそれだけの言葉を絞り出した。いつもと違うにこちゃんの様子が、私にはひどく怖かった。
「良くないよ」
にこちゃんは苛立ったようにそう答えた。にこちゃんの表情がまた少し変わった。思い返せば、怒りと失望が混ざったような表情だったのだろうと思う。けれどそのときの私には、にこちゃんの表情がいちいち変化するのが恐ろしくて、その一つ一つの意味を理解しようとすることなどできなかった。
「にこちゃんはさ、好きじゃないの?」
強い緊張を感じながら、私はにこちゃんに質問を投げかけた。
「そういうことじゃないんだよね」
拒絶するように、にこちゃんは言った。
「私はそういう風に誰かと仲良くなっちゃいけないんだよ」
そしてにこちゃんはそっぽを向いた。私はもう、にこちゃんに何も言えなくなって、にこちゃんの半歩後ろを黙って歩いた。それからは二人ともずっと黙っていた。
黙ったまま歩いていると、程なくしていつもさよならを言う横断歩道に辿りついた。私は迷った。今日は黙ったまま別れるのが相応しいような気もしていた。
黙ったまま歩いていこうとする私の前で、にこちゃんが、渡るべき青信号の前で一瞬立ち止まった。
「じゃーあ、ねっ」
そう言って私のほうを勢いよく振り返ったにこちゃんは、真夏の日差しのように眩しい笑顔をしていた。
「じゃあね」
私はまたびっくりして、つられたようにそう言った。押し殺して泣いていたようにむくんだまぶたが、にぱっ、と笑みを形作るところが私の目に焼き付いた。そこにあったのはまさに完璧な、完璧としか言いようのない、笑顔。
私はいつまでも立ち止まったまま、遠ざかっていくにこちゃんを見送っていた。小さく見えるにこちゃんが今どんな顔をしているのかは、私からはもう知ることはできなかった。
*
「オムライス弁当ってさ、作るの大変じゃないの?」
環のやわらかい声色で、私は現実に引き戻された。返事をしようとしたところで、自分が口に含んだ覚えもない鶏肉を延々と咀嚼し続けていることに気づいて、水筒のお茶で流し込む。
「……いや。チキンライスさえ作って冷凍しておけば卵を焼いてのせるだけだから。簡単だよ」
会話にほとんど意味はない。それでも環は、心から楽しそうに振る舞い続ける。まるで二人は一緒にいるだけで何より幸福になれる友人同士であるかのような。他愛のないアンビバレント。他の人たちは気が付いていないのだろうか。私は、環のそのわずかな違和感のなかに、泣きはらした顔で笑ってみせた、にこちゃんの気配を感じていた。
**
私がにこちゃんの耳打ちを聞いた、その次の日からにこちゃんは夏風邪をひいて学校を休んだ。にこちゃんがいない教室は、それだけでどんより沈んでみえた。
同じ週、私は保健室の先生に呼び出された。
「あなた、にこちゃんと仲が良かったでしょ? 最近、にこちゃんから何か言われたりしなかった?」
中学校の保健室の先生は、白衣を着た妙齢の女の人だった。微笑を浮かべ、穏やかな口調で私を問いただそうとする。優しそうな作り笑いだと私は思った。どうしようもなく目元が硬い。にこちゃんの笑顔とは比べ物にならない。
「にこちゃんがどうかしたんですか?」
何かがおかしい。そう思ったから、私は何も知らないふりをして答えた。
「ううん。なんでもないの。時間をもらってごめんなさいね」
にこちゃんの夏風邪は長引いた。一人で学校にいるあいだ、私はできるだけ先生たちの話に耳を澄ましていた。ときどき、にこちゃんの名前が聞こえた。何度かは私の名前も聞こえた。プロジェクト。インシデント。続行か。有効性の確認。だが、続行不能。漏れ聞こえる意味不明の言葉たちを私は頭に叩き込んだ。
結局、にこちゃんの風邪が夏休みまでに治ることはなかった。夏休みの間に会おうにも、にこちゃんの連絡先を全く知らなかったことに私はそのとき初めて気が付いた。二学期が始まる日、にこちゃんが「家庭の事情」で既に転校していることをホームルームの時間に告げられた。悲しかった。けれど、そうなることは夏のあいだから、ずっとわかっていたような気もした。
*
チキンライスに混ぜ込んだ、ミックスベジタブルのニンジンは、噛み潰すと妙に甘ったるい後味を残した。
「私さあ」
期待通り、環がこちらに注意を向ける気配がした。
「私さ、そんなに危なっかしくないよ」
意味深なセリフ。我ながらちょっと恥ずかしい。かまをかけるように、気取って呟く。
「なにそれ」
じっと注視する私の前で、環は手に取りかけたサンドイッチを弁当箱にそっと戻し、軽やかにくすりと笑ってみせた。
にこちゃんの――そして環の正体、あるいはそこにいる理由は、広く知られているものではないものの、極秘事項というほどのものでもない。
「プロジェクト・ハッピースマイル」
新興宗教顔負けのセンスで名付けられた、市教委主導のそのプロジェクトは、学校現場からいじめ等によって笑顔を奪われる生徒をゼロにしようという理念を掲げる。五年ほど前の新聞で、プロジェクトの試験運用開始が小さく報じられていた。
環の笑顔は揺らがない。
プロジェクトの具体的な内容。クラスに一人、あるいは規模によって学年に一人、生徒間でのトラブル解決とケアを担う専門スタッフを配備。ただしスタッフの存在は、一般生徒には明かさない。専門スタッフには一般生徒と同学年の人物を起用、一般生徒と学校生活を共にしながらあらゆる出来事に目を光らせる。
「そして保護観察対象の生徒を、クラスメイトとしてサポートする学友かつ助言者(ルビ 学友かつ助言者:ピア・メンター)。環ちゃん、あなたもその一人なんじゃない?」
あくまでさりげなく、なんでもないように。そう念じる私の思いとは裏腹に、スプーンを握る手が細かく震えた。
「そんな制度、よく知っているね」
環は肯定も否定もしなかった。
「調べたから。ネットとか、図書館とか、全部使って。沢山調べたから」
「じゃあたぶん、私よりずっと詳しいよ」
環は春の日差しのように穏やかに微笑んだ。あの日別れ際にみた、にこちゃんの笑顔が脳裏でちかちかとフラッシュバックする。指先に共振するように、身体全体が震えはじめる。
「すごく緊張しているよね、大丈夫?」
小刻みに震え続ける私に、環はわずかに体を寄せた。ゆっくりと、しかし迷いのない口調で続ける。
「もしよければ、だけどさ、私に聞かせてくれないかな。どうしてそんなに一生懸命そのプロジェクトのことを調べなくちゃいけなかったか。どうして今、そうやってひどく震えているのか」
私には、環の言葉が的確に、私がいま一番求めている許しを私に与えようとしているのがわかった。少しでも気を緩めると、今すぐ環の目の前で泣き出してしまうのではないかと、私は恐れた。
「私、あんまり話すのが上手じゃないから」
これが、私の精一杯の抵抗。
「いいよ。大丈夫だよ」
環のやさしさが、私の恐れを押し潰してゆくような気がした。同時に、環に縋りついて泣く自分のイメージが私のなかに浮かんだ。
「……情けない」
「どうして?」
「もう、嫌だから。あなたみたいな人のことを消費するのは。そんなの駄目だから」
要領を得ない私の説明に苛立ちをみせることもなく、環はさらにもう少し私に体を寄せた。
「それ、もっと聞かせてもらえないかな」
ラベンダーがすっと香って、私の心に染みた。恐れや抵抗する意思が不思議とほどけるように消えていった。
気が付くと私はぽつり、ぽつりと話始めていた。にこちゃんと過ごした日のことを。にこちゃんが初めて見せた不安のことを。最後に見せた笑顔と、突然の転校の意味を知りたくて、それ以来情報を集め続けたことを。はじめからすべて告白することを望んでいたかのように、私は話し続けた。
「だからさ、私、にこちゃんに申し訳なくて。だって同じ中学一年生だったのに。にこちゃんは一人だけ、ずっと誰にもなんにも言えず、頑張っていたんだなあって」
私はそこでようやく話すのをやめた。私が落ち着くのを待ってから、環はじっと私の目を見て言った。
「でもね、あなたが苦しむ必要はないんだよ」
環の瞳が私の姿を映しているのを見た。とんっと高いところから突き落とされたような気分。頭の芯が不思議と冷えていくような感覚がした。ああこれが、私が一番欲しかった許しなんだろうなと、妙に冷静な自分が思った。
にも関わらず、目尻からはひどく熱い液体がぽろぽろこぼれ落ちていた。
「あはは。はは。あんまりにも出来すぎてる」
涙が止まらないままで、私は笑った。体の震えはもう止まっていた。ただ情けなくてたまらなかった。私はいったい何度また、同じことで間違えればいいのだろう。
「あーあ、ごめんね。くだらなかったね、ばかみたいだね。よりにもよって環ちゃんにそんなこと言わせちゃうなんて」
涙で霞んで、私にはそのときの環の表情を知ることはできなかった。
少しだけ残ったオムライスを、私はよく見えもしないままかき込んだ。真新しい制服の袖で荒く涙をぬぐう。ほとんど噛まずに飲みこんだオムライスは、わずかにしょっぱい味だけがした。
「今日はごめんね」
弁当箱を片付け終わると、私は環を振り払うようにベンチから素早く立ち上がった。
「ねえ」
環が呼び止めるように声をあげた。私は影に沈むベンチを振り返った。
「知ってる? そのプロジェクト、メンターへの負担が大きすぎるから中学生には適用不可になったってこと」
私は頷いた。
「だけどそんなの中学生じゃなくたって、だめだよ」
「でもさ。私も、その、にこちゃんって子も、きっとそういう方法でしか生きていけなかったんじゃないかなって。私はそう思ってる」
環は最後の最後まで、よく抑制された綺麗な表情で私のことを見上げていた。
「にこちゃんのこと、知っているの」
「ううん。想像しただけ」
環はそっと首を振った。長い黒髪が環の顔の周りでさらさら揺れた。
「環ちゃんは……」
どうしてこんなことしているの。苦しくないの。寂しくないの。
何か聞かなければいけないような気がしたけれど、どれも言葉にすることは許されないような気もした。
「なあに?」
「なんでもない。教室、先に戻ってるから」
わかった、というように環はそっと頷いた。今この瞬間に最もふさわしい程度だけ、控えめに表情を和らげて。
次に環と相対するとき、私はどんな顔をするだろう。足早に廊下を歩きながら、私はそれを考える。あるいは次に環が私の前に現れるとき、どんな顔をしているのだろう。きっと環が見せるだろう、濁りのない完璧な笑みのことを思って、私はひどく寂しいような気持ちになった。