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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.45 / 踊り子のお妃様
Last-modified: 2020-03-19 (木) 09:16:34 (1738d)
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活動/霧雨

踊り子のお妃様

 ある国に、偏屈でたいそう綺麗好きだと有名な王子がいました。王子は長い間、結婚相手を選ぶのを渋って王様を困らせていましたが、あるときとうとう妃を娶ることにしました。それは瞳を取り囲む長い睫毛と、黒檀のような黒髪が、見る者の心を奪うほどに美しい、旅の一座の踊り子でした。周りの人は身分違いだと反対しましたが、その姿に惚れ込んだ王子は頑として聞かずそのまま踊り子を妃にしてしまったのでした。

 それから幾か月かが経ちました。王様は若い夫婦になかなか子供ができる様子がないことに頭を悩ませておりました。
 心配した王様はある日、お妃の侍女にこっそり尋ねました。
「息子は妻と仲良くやっているだろうか」
 侍女は困ったように答えました。
「王子さまは気難しいお方です。夜ごと楽器を演奏されては、お妃さまが踊るのを飽かず眺めていらっしゃいます。しかし幾晩経ちましても、お妃さまの手を握ることすら嫌がっていらっしゃいます」

 それを聞いた王様は怒って、すぐに王子とお妃を呼びつけると「子を授かるまでは決して戻ってこないように」と言い渡しました。そしてそれまでの間、森の中の小さい狩猟小屋で過ごすように命じると、二人を城から追い出してしまいました。王子がいくら許しを乞うても駄目でした。綺麗好きな王子はきっと森の中での生活に耐えられず、すぐに城に戻れるようにするに違いないと王様は考えていたのでした。

 二人は一匹だけ与えられた馬に乗り、青白い空の下を森に向かって駆けてゆきました。王子は城を追われたことを不服に思い、むっつりと黙りこくっていましたが、お妃のほうは幾分晴れやかな顔をしておりました。というのも、お妃は長い間を踊り子として過ごしておりまして、大勢の前で踊り、楽しませることをなによりの喜びとしていましたので、王子と結婚して城の中で暮らすようになってからというもの、その機会にとんと恵まれず寂しく思っていたのです。

 森は薄明るく、馬は残り雪を踏み散らしながらトコトコ駆けてゆきました。突然、行く手に黒い影が現れたかと思うと、大きな犬が馬に吠えかかりました。馬はびっくりして、いななき、急に後ろ足で立ち上がりました。
 立ち上がった馬の背中から、お妃がぽーんと跳ね飛ばされました。王子が触れるのを嫌がって、あんまりしっかりお妃を抱いておかなかったのです。お妃はどさりと地面に落ちるとそのまま死んでしまったのでした。

「お妃を死なせてしまったと知れると大変だ」
 王子は恐ろしくなってそこでガタガタ震えておりました。しばらくそうしていましたが、ふと「本当は死んでいるのではなく、眠っているだけかもしれない」と思い直しました。そう思うと、少し気分がよくなるような心地がしました。犬を連れていた狩人が王子の前におずおずと現れると、王子はその狩人に命じて、お妃を小屋まで運ばせました。
「お前の犬は僕の馬を驚かせたね」
 小屋に着き、お妃を寝台に寝かせると、王子は怯える狩人にそう言いました。
「お前は僕に埋め合わせをしなければならないよ」
 そこで狩人は、今日見たものを決して口外しないと誓いました。王子は満足して、確かに口外しないように念を押すと、狩人に馬をやって帰らせました。

 夜になっても、王子はまだお妃が目を覚ますのを待っていました。お妃は死んでいるので、当然目を覚ますはずもありません。
「夜風にあたれば、お妃の気分も良くなるかもしれない」
 王子はそう考えて、窓を少し開けました。月明りの下、ひとかたまりのサクラソウが小屋のすぐそばでしっとり輝いておりました。それから王子は小屋にあったリュートを手に取り、お妃がいちばんよく踊る曲をぽろぽろ弾きはじめました。
 祈るような思いで王子がリュートを演奏していると、果たしてお妃はむくりと起き上がり、寝台の上で花びらのようにステップを踏みはじめたのでした。リズムに合わせ、艶やかな黒髪が夜風と共にさらさら舞いました。月光の下のサクラソウも、お妃の動きにつられたようにゆら、ゆら、とそよぎました。
 お妃の踊りは美しく、見る者の心を浮き立たせるような力がありました。王子はそれまでの不安な気持ちも忘れ、夢中になってリュートを弾き続けました。

 しばらくして、王子が一番高い音の弦を弾くと、弦はぱしん、と音を出して切れてしまいました。王子はびっくりしてリュートから手を離しました。音楽が止まるとお妃はぴたりと動きをとめ、また寝台のうえに死体らしく横たわりました。
 王子はもう何も考えられないほどくたくたになって、井戸の水を飲もうと小屋の扉を開けました。すでに日はすっかり高くなっていました。王子が足元に目を移すと、不思議なことに小屋のまわりは、綺麗に咲いたサクラソウですっかり埋め尽くされておりました。

 王子は大急ぎで小屋の中に戻り、手袋をはめると、サクラソウを両手いっぱいに摘み取って、お妃の体を囲むように飾り付けました。
「お妃、お妃、目を覚ましておくれ。あんなに素敵に踊っただろう」
 いくら声をかけてもお妃は冷たく眠ったままでした。王子には、口づけることなど思いもよりませんでした。眠りについた愛するものを起こす魔法は、いつだって口づけだというのにです。

 再び夜になりました。フクロウの鳴声が、夜風に乗って流れてくる晩でした。王子はまた窓を少し開けて、一番高い音の弦が切れたリュートを弾きはじめました。お妃はまたむくりと起き上がり、寝台の上で羽根のようにステップを踏みはじめました。
 まもなく窓から暗い影がさっと小屋の中に飛び込みました。演奏を止めないまま王子が見れば、それは両手ほどの大きさをした一羽のフクロウでした。フクロウは真っ直ぐお妃のところに飛んでゆくと、一緒に踊るかのようにリズムよく羽根をはばたかせました。
 お妃は嬉しくてたまらないというように何度も宙にとびあがり、そのたびに素晴らしいポーズをとってみせました。フクロウもそれにあわせて、お妃のまわりを優雅に飛び回りました。寄せては離れ、また惹きつけられるように交差するお妃とフクロウを、王子は釘付けになったようにして見つめていました。

 しばらくして、王子が一番低い音の弦を弾くと、弦はぱしん、と音を出して切れてしまいました。王子はまたびっくりしてリュートから手を離しました。音楽が止まるとお妃はやはりぴたりと動きをとめ、寝台のうえに死体らしく横たわりました。寝台からフクロウが二羽舞い上がると、じゃれあうようにして窓から外に出てゆきました。
 日はもうすっかり高くなっていました。王子はまた手袋をはめ、床に散らばった羽根を集めて髪飾りのようにお妃の黒髪に挿しました。
「お妃、お妃、目を覚ましておくれ。あんなに素敵に踊っただろう」
 それでもお妃が目を覚ます様子はありません。寝台で眠るお妃が幾分小さくなったような気がして、王子は首をかしげましたが、最後には気のせいだろうと思いなおしました。

 また夜が来ました。風が鳴り、春嵐の気配がする晩でした。王子は窓を少し開けて、一番高い音と一番低い音の弦が切れたリュートを弾きはじめました。お妃はまたむくりと起き上がり、寝台の上で蝶のようにステップを踏みはじめました。
 しばらくして、今度は窓から一頭のアゲハチョウが静かに小屋の中に滑りこみました。王子は虫を嫌っていましたが、演奏を止めるのが惜しいと思いそのまま弾きつづけました。アゲハチョウもお妃のところに向かってゆくと、音楽に合わせてひらり、ひらりと飛び回りました。
 お妃は喜びにあふれた様子で、軽やかに回転してみせました。アゲハチョウは応えるようにお妃のまわりを優雅に旋回しはじめました。
 お妃がくるくる回り、アゲハチョウも回りました。お妃のまわりを一回りするたびに、アゲハチョウは二倍、二倍と増えていきました。まもなくお妃は、渦のようなアゲハチョウの群れに囲まれてしまいました。王子はその不思議な光景に、我を忘れて見とれていました。

 もう二、三度お妃が回転すると、小屋は竜巻のようなアゲハチョウでいっぱいになりました。あまりに増えたアゲハチョウたちが、王子のところまで掠めて飛ぶようになると、王子はいい加減恐ろしくなってリュートを放り投げました。リュートは壁に激突し、何本もの弦がぱしんぱしんと音をたてて切れました。
 音楽が止まるとお妃はやはりぴたりと動きをとめ、寝台のうえにまた死体らしく横たわりました。もはや数えきれないアゲハチョウたちも回転をやめ、みな連なって窓から飛び去ってゆきました。
 またも日はすっかり高くなっていました。たくさんのアゲハチョウが一度に翅を振ったので、小屋の床は金色の鱗粉ですっかり染まってしまいました。王子は急いで手袋をはめると、鱗粉をすべてほうきで掃き、お妃の寝台のまわりに集めました。お妃の体も金色にまみれ、その黒髪は星を頂く夜空のようでありました。
「お妃、お妃、目を覚ましておくれ。あんなに素敵に踊っただろう」
 いつもと同じように王子が声をかけても、やはりお妃のまぶたが開くことはありません。お妃はいまやはっきりと小さくなって、もはや王子の半分くらいの背丈しかありませんでした。王子はひどく寂しいような気持ちになりました。

 また夜が来ましたが、王子は、今度は窓を開けませんでした。放り投げてたくさんの弦が切れてしまったリュートを弾くかわりに、王子は自分で歌を口ずさみはじめました。お妃はむくりと起き上がり、王子を誘うようにステップを踏みはじめました。王子は歌いながらそっと寝台に近づくと、お妃の手をはじめてしっかりと握りました。
 そのまま二人は夜が明けるまで踊りつづけました。その間王子はずっと歌っていました。踊って、歌って、息は切れることも忘れ、口づけを交わすだけの暇もありませんでした。歌って、歌って、もはや声も出なくなって、それでも王子はお妃の手を離そうとはしませんでした。

 ふっと王子が下を見ると、そこにはもうお妃の美しい黒髪はありませんでした。代わりに、王子と同じ生まれつき灰色がかった金髪をした、そろそろ三つになるかというほどの男の子がいました。
「お父しゃま」
 男の子が舌ったらずに言いました。それは王子が幼い頃、王様を呼んでいた言い方と全く同じようでした。王子にはこれが自分の息子だということがすぐにわかりました。それなのにお妃にはほんの少しも似ていませんでした。髪も、顔かたちも、まだ甲高い声すらも、王子にばかり似ていました。

 お妃は、もうどこにもいなくなってしまったのでした。寝台にはサクラソウと、フクロウの羽根と、アゲハチョウの鱗粉、それから王子の息子である男の子だけが残されていました。わずかな名残すら残すことなく、お妃は綺麗さっぽり消えてしまいました。王子は男の子を抱きしめておいおいと泣きました。

 王子は男の子の手を引いて、森を抜け、城に戻りました。それから王様に男の子を引き会わせると「これを僕だと思って育ててください」と告げました。そして男の子を置いたまま、行方を告げずに城をあとにしました。
 王様は驚き、王子が行方知れずになったことでたいそう悲しみましたが、王子が連れ帰った男の子のことは大切に育てました。男の子はすくすく成長し、王子とそっくりの姿で、しかし人を喜ばせるのが好きな、気立ての良い青年になりました。そしてその青年は一人の娘を深く愛し、夫婦となると、新しい王様、お妃様として末永く国を良く治めました。

 行方をくらませた王子のその後は、誰にもわかりません。ですので、あの男の子がどんな人物になったかを、彼が知っているかどうかも誰にもわかりません。