残暑 †
狐砂走
とある昔話にこんなものがあった。
昔々、この世界を構成する為、大海と大気、大陽、大陰、大地が手を取り合いました。大海は果てしない海を作り、大気は澄み渡る空気を作り、大陰は涼しい温度を作り、大地は動物が住める足場を作りました。
しかし、大陽は近づく者を容赦無き灼熱で燃やし尽くし、世界を作ろうとしましたが結局破壊に手を貸す結果となりました。なので、世界が出来た時でも大陽はたった独り天上で輝きを放ちながら居座りました。
それから数万年後、一人の神はそれを見かねて大陽から一欠けら千切って大陽の灼熱を弱めました。なので今では「太陽」という名前になり、黒い点が付いており、その黒い点は神様が千切った時に出来た穴なんだと。
「暑いぃ......」
この日の気温は四十を超えていた。この地域では記録的な猛暑である。鼻に詰まりそうな程の湿気の籠った熱気と真上で純白の光が私の身体を照り付けた。
別に今日が猛暑だけであったら私はこれほどまでに不満を抱くことは無かっただろうし、猛暑も夏の一つの特徴と言えよう。しかし今日は十一月一日である。残暑にしては夏に比べて倍に増しているような気がする。町の歩道を歩けば乾燥しきったレンガの熱が運動靴の底から這いあがってくる。
ふと通った電気屋のガラスケースに飾ってある薄型テレビに目を向けると、
「いやぁ、今年は暑いですねぇ。どうやら地球と太陽との距離が歴史上最も短くなるのがこの日と聞いていますがどうでしょうか? 坂下さん」
「そうですねぇ......私の天文学的見解から述べますと......」
(ヤバい......辺りが霞んできた......)
地面に吸い寄せられるように這いつくばってしまった。出かける前に水でも飲んでおくべきだったか。もしくは、電気代が嵩むからとエアコンを出かける前から付けずに過ごしていたからなのか。
そして視界は光の差さない暗闇へと堕ちた。
重い瞼を再び開けようとした。どうせ地面を這う陽炎しかないだろうと思ったが、そもそも私は地面に這いつくばっているはずなのだが全く熱さを感じない。それどころか石レンガの感触さえ分からなかった。どちらかと言えば木の温もりが感じられ、何かの漢方薬が燃えたような鼻が曲がりそうな臭いが充満していた。ゆっくりと瞼を上げると目の前には障子が立っていた。けだるさと言う名の煙が空間を支配した場所でただ障子が並んでいた。煙は障子の向こうから出ているようだった。
右手で鼻を必死に抑えながら障子に手を掛けると、何百もの人が会話している声が聞こえた。自分の呼吸音は喧騒に飲まれ、障子は自我に向けての出入り禁止標識であった。
タンッ!
私は勢いよく障子を右へ引いた。誰かいるのだろうと思ったが違った。
私の目の前にあったのはガラクタであった。和太鼓に砂時計、地球儀、花瓶、柱時計など。それどころか信号機や機関車、クレーン車などの部屋にあるはずの無いものまであった。人なんて一人もいなかった。山のように積まれたガラクタで部屋を満たしており、人とは違う物々しさを醸し出していた。
ギイィ......ギイィ......
赤茶色に錆びついてしまった水飲み鳥は姿無き潤いに得ずと分かれども上下に動き、条理に背き続けた。
「どうぞぉー。こっちに来てくれないかしらぁ」
眠くてたまらないような女の声だった。
「大丈夫よぉ。妾は決して人を襲うような悪い輩ではないわぁ。話し相手になってくれるだけでいいのよぉ」
声のする方から噴き出していた。煙は彼女のため息のように見えた。
私は右手首を鼻に当てながら声のする方へ歩いた。もう前なんて一面灰色で見えやしなかった。唯一分かるとするならここは室内で床は畳であることだった。
「妾が見えるかしらぁ? ごめんねぇ、ちょっと換気するわぁ。最も、この部屋に窓なんてないけど」
すると前から吸い込まれるように煙が消えていった。周りは依然とガラクタだらけであったが目の前に十二単を着た髪が唯々長い女性がひじ掛けに肘を立てながら煙管を吸っていた。
「えっと......」
(この人誰? というか何故こんな所に......)
彼女は倦怠という気体を軽く吐くと、
「妾のことはそうねぇ......近所のお姉さんと言ったら言いのだけれど流石にこんな場所見たことなんて無いわよねぇ。ここでは『大名』って呼ばれる事が多いわ。そしてここは妾の主人の一室。最も、主人はこの部屋が苦手なようだけど......って今回は随分とお若いのねぇ。あなたがどうやってここに来たか知っているわぁ。酷かったでしょうねぇ、苦しかったでしょうねぇ。ねぇ、この部屋の物から一つだけ持ち出していいわよぉ? 何にしたい?」
私は後ずさりした。何か裏がある気がした。いや、裏でしかない。彼女の質問にたった一つの解答があるんじゃないかと思った。正しければ私の勝ち、間違えたら彼女の勝ち。
「ねぇ、どうしたのぉ? もしかして迷っているのかしらぁ。そうねぇ......」
彼女の後ろから何千ものガラクタが流れる音がした。
そして現れたのは......
カチカチカチカチ......ゴーン......ゴーン......ゴーン
「この部屋にある物は全て大きいわぁ。妾の後ろに立っている時計も同じ。彼に名前を付けるならぁ......『大きなノッポの古時計』だわぁ。タイムリミットはこの時計の短針が子(ね)を差すとき。貴方の世界では一時間って言うのかしらねぇ......それでは決まったら妾を探すことよぉ? いいわねぇ......」
煙草の匂いは次第に強くなっていくと共に彼女は灰色の煙に飲まれていった。
「ちょっと待っ......」
私は彼女がいた所に向かって右手で煙をかき分けながら進んだが、もうそこには何も無かった。
いや、厳密にいえばガラクタと私と目の前の古時計だった。
そしてこの部屋に訪れた時から聞こえていた夥しい数の話し声が再び聞こえた。
「あら、見慣れない子がいるわ」
「また何かを貰いに来たんだろ? あの大名様がやることだ」
「でも、それにしては時間が経ちすぎてるぞ。これは食っても潰してもいいってことだろ」
「なら、誰が一番こいつを潰せるか遊ぼうよ」
多くの視線を浴びせられているような感覚に陥り、ある一言で始まった。
「そ う し よ う !」
誰もが経験したことのない鬼ごっこが始まった。
妾の主人はなぜ妾を手放したのでしょうか。
煙管を持ちながら床にバラまかれた文を読み漁った。どれも主人が書いた文章であり、どれも自分が主人にとって必要とされているのだと実感するには十分だった。
「そろそろ人を玩具にするのはやめてもらおうか。なぁ、お嬢さん」
霞の向こうからドタッドタッと足音が聞こえた。歩いて来たのは古時計と同じくらいの身長を持った大男だった。女物の着物を羽織り、腰には「馬鹿」と墨汁で書かれた酒瓶を吊るしていた。
「珍しいですわぁ。この部屋を特定できるのは主人と妾だけだと思っていたわぁ。しかもあなた、かなり大きな体をしておられるのねぇ」
主人は大きいものが何より好きだった。故に人物やモノを集めていた。なのでこの部屋に大きな人物が紛れ込んでいても不思議ではなかった。
「俺か? そりゃあ勿論だ。あんたの主人の......『大帝』さんからは『大馬鹿者』って呼ばれているからな。ここには何度も来たことはあるさ。それよりさぁ......」
その殿方は乱雑に伸びた顎鬚を摩りながら僅かに口角を上げた。
「お嬢さん、何故大帝にそこまで執着する? この部屋にある物は全部大帝が才を尽くして集めた「大物」だ。俺もその一つに入るんだろうが......最近の新聞にも載っているんだが、猛暑を起こしたのは他でもないあんただ。馬鹿の俺でも分かる。『太陽』ではく『大陽』。本物のお日様より何倍も熱い万物の根源の一つ。どうして大帝の宝を現世に放る?」
この殿方は妾のやっていることが分かるようだった。大陽は主人が最初に見つけた宝。見つけた時、主人が妾に対して喜んでいた様子は今でも忘れられない。だけれどもこうでもしないかぎり主人は妾を欲さない。
「よくお分かりのようねぇ.....特別に妾の身の上話でも聞かせてあげましょう。何故妾がこんなことをしなくてはならないのかぁ......」
殿方は黙ったままその場で胡坐を掻いた。
「主人......今の大帝は昔は『帝』と呼ばれていました。妾はいつも主人の傍を片時も離れずについておりました。主人は阿呆なのか優しいのか分かりませんが人に対しては誰でも寛容でした。難民でも敵の廻者でもその人達が困ったりするとすぐに助けていました。しかし、これでは国民は不安を煽るだけでございます。とある噂では帝暗殺の話もありました。そんな時、主人はこう言いました。
『もっと寛大になって己の能力を持てばきっと全ての民は幸せになれるはずだ』
主人は民を自分の城に招いて宴会を開きました。勿論妾は否定しましたが主人は聞こうとしません。結果なんて目に見えてました。
民は主人の大切なものを全て奪い、人とは到底思えない蛮行をしました。
すると、何やら儀式みたいなものを主人は始めて、全ての民の持つ才能と寿命を全て奪い、『帝』から『大帝』となられました。
結果として全ての民を犠牲にして永遠と万物の才能を主人は得たのできっと喜ぶだろうと思いました。なのに、主人の目は虚ろで輝きなどございませんでした。主人は無人の街をただ見つめていました。
主人の名前をご存じでしょうか? 当然誰も知るはずがないのです。大帝の名前は『大帝』であって他にはないと。
殿方の質問に答えましょう。妾は憎いのです。何故主人の名前をお捨てになったのか。妾は『大名』であり、名前という一種の事物です。大帝の名前は他の誰よりも権力や名誉に満ち溢れたブランドのようなものです。よって妾は大名となりました。しかし、主人はそんな妾を捨てました。そして今ではこの部屋から出られないのです。
殿方に質問しましょう。主人は妾の事を忘れてしまったのでしょうか? もしお忘れになったとしたら、妾は主人の心の底に刻みつけましょう。妾がどんな姿をし、どんな事をしたのかを知らしめましょう。故に妾はここで彷徨う人間達に宝を一つ持たせて現世に返します。当然、どれも人間が扱いきれない程の大物である為、人間は無駄に大きくなり、殿方のようにここへ何度も足を踏み入れることになるのです。そして主人からの裁きが来る。妾の話は終いです」
殿方は胸倉からおちょこを取り出すと、腰にかかっている酒瓶から酒を注ぎ、勢いよく飲んだ。
「......愚問、愚問愚問愚問愚問、全く持って愚問でしかないぞお嬢さん。大帝に最も長く付き添っているにしては何も分かっていない......本当に大帝の名前か?」
妾は気付いていなかった。
妾の右手には扇子を持っていて扇子の天は殿方の頭を向けていた。もはや発作だった。
その意味は恐らく大馬鹿者からの侮辱に対する憤怒での殺意だった。殿方の真上にはガラクタが降った。決して紙吹雪や鉢などの手緩いものではなく、列車や自動車などの自分より遥に重い物が降った。
一秒も立たずに殿方の座っていた場所は無意識の怒りの山となった。
そして後からまた気付く。
はぁ......はぁ......はぁ......こほっ
妾は必死であったのか息切れを起こしていた。
「......やれやれ。女の怒りは怖い怖い。俺はしがない中年なのにそこまで殺意をもたれるなんて命がいくつあっても足りない」
怒りの山の隙間から腕毛の多い血管が浮き出た腕が飛び出した。
列車や重機の山は紙吹雪のように舞い上がり、鉄の雪が降った。
その雪は畳に触れると暴音と共に穴が開いた。
「忘れたか忘れていないかの疑問なぞ本人に聞けばいい。俺に聞こうとするなよ。この部屋に出られないのではなく、お嬢さんが出ようとしないんだよ。あいつは馬鹿みたいに寛大で万物の才能はあれど、元は無能の人間だった。今も自分が人間であることを忘れてはおらず、失った物に対して何らかの思いはあったろう。名前を完全に切り離すなんてことがあいつにできる訳がないだろうに......名前とは人間であることの証明だ。
いいか、例え行いが人間離れしても、人間だ。もし人間を辞めたら唯の怪物でしかない。それくらい誰でも分かる。お嬢さんはあいつを唯の怪物と思うか?」
「......」
別に主人を怪物だと思った事はない。しかし、何故か主人は妾を遠ざけようとしているしか思えない。この部屋だって本当は封印なんて施されておらず、襖一枚先には廊下があり、きっと主人はその先にいるのだろうが、主人は妾にこう言った。
「余の名よ。余は少し前の宿題とやらをせねばならない。だが、余の宝を守るものはいなくなってしまう。だから余が帰ってくるまでここで管理をしてほしい。そう案ずるでない。すぐに戻る。そうしたら皆で宴会でも開いて宿題のことについて話すさ。大丈夫。名を捨てる訳じゃないさ」
主人は笑顔で目を合わせてそう言ったが、立ち去る後ろ姿は何ともか弱く、帝になる前の事を思い出させてしまう。
殿方は膝の土埃を軽く手で払うと、
「そんじゃあ、ちょっと『あいつ』に挨拶してくる。お嬢さんは客に塩送って堕落させるなんてつまらないことやめて、本当にやりてぇ事をしろ。んじゃ」
そう言うと、殿方は煙の奥に消えていった。
......トトトトト......
歩いても歩いても全く壁が見当たらない。天井とガラクタはあるが襖は一切見つからない。
少し一休みと、隠れて座ると辺りに目を配ると現実とは思えない事が起きていた。
カック......カック......
ざっと一メートルはある獅子舞の頭とその頭に似つかわしい滝のような唐草模様の緑の布の物がきょろきょろと振り向きながら歩き、
バァン......バァン......
重苦しい足音の先には鈍い黄土色の大仏が右手で合唱しながら歩いており、金属で出来ているとは思えない程大仏の体は柔軟に動いていたが、足跡の大きさと深さから慈悲深い仏とは思えなかった。
他にも扇風機や信号機、火鉢に琵琶や、はたまたキャンディーのような包み紙をしたアルミ製の紙の群れまであらゆるものが蠢いていた。
私はこんな所からすぐにでも抜け出したいと思った矢先、何かが右手に触れ、トグルスイッチのような出っ張りのあるスイッチが押される音がした。
あまりに五月蠅すぎて手に取ってみればそれはアナログ式の目覚まし時計だった。それにしては赤や青といったコードが剥き出しで緑の電子基板も見えるものだった。
いや、そんなことはどうでもいい。目覚まし時計にかまっている状況ではない。私の背後には数多の人ならざる視線が感じられた。先程まで足音や物音が一切しない。
振り向くと......
ついさっきまで彷徨っていた獅子舞は此方を向いてニタニタと笑い、歯ぎしりさせていた。大仏は膝立ててしゃがみ背後には円く後光が輝いていた。
ピアノは黒い鍵盤と白い鍵盤を反転させて見せつけ、折り紙で出来た鶴の群れは床で頭を此方に向けて座っていたり、物々に囲まれていた。
カチカチカチカチ.....
目覚まし時計の裏底には黒の油性ペンで「BIG BANG!」と書かれていた。この目覚ましもただの時計じゃなさそうだった。
そして誰かの声が聞こえた。
「あれってもしかして『大爆発』(ビッグバン)?」
その一言から、
「大爆発様の機嫌を損ねるとここら一帯吹き飛ぶぞ......」
「でも機嫌が凄い良かった時も大爆発が起きてたぞ?」
「じゃあどうすりゃあいいんだよ!」
「触れない方が吉だ。あんな爆弾を奪うやつはいない」
「でもあいつが持ってるぞ? どうする?」
物々の会話が聞こえる中、私の周りが暗くなった。私の目線には草履を履いた二つの足が見えたが四十センチはあるかと思われる程大きく、陶器の酒瓶に「馬鹿」と墨で書かれていた。
「おやおや。騒がしいから来てみたら。お前が大名の言ってたやつか......ってまだ大きく堕落していないところからすると、ここの物をぱちってもないってかあ。まさかその爆弾魔に目付けられるなんてツイてないなあ......なぁにそれ投げてこっちによこせ。解除するからさ」
彼の言葉が終わった瞬間、周りにいた物達は一斉に散った。
「あいつ何言ってやがる!」
「気狂ってるぞ! 周りの事も気にしねぇで」
右手にある目覚まし時計はそんな騒ぎも気にせず、
カチカチカチカチ......
なぜそうしたのか分からなかったが、右手を後ろに下げた瞬間、彼に向けて放してしまった。
長針が子の位置に到達するまで五秒。いや、五秒なのか分からない。なぜならこの爆弾は気分によって変わるからだ。私から彼の手に到達するまでとてもじゃないが五秒間漂っていたとは思えない。
そう、彼の手に触れたとき、長針は子に到達したのだ。
戦艦の主砲が放たれた音がした。眩しい白光と激しい音。狂騒の花火が舞った。
床の畳は燃焼し、黒い煙のマントが辺りを包み込む。
そんな中、
「いやあ、こりゃあ驚いた! 本当に激しい爆発だったよー。成程、花火を間近で見たらきっと綺麗だろうなあと思ったが、危険すぎるな。ふむ、学んだよ」
黒いマントから覗かせたのは紅葉で囲まれた街並みの着物。彼の左手には爆発したはずの爆弾。
(いや、そもそも花火は危険なもの......)
「この爆弾はどうやら俺が嫌いなようだ。よし、返す」
(はい?)
そう疑問を持つにはあまりにも遅かった。目の前にはもう、彼の好奇心が飛んできていた。一瞬時計の針が見えたが、もう子の位置だった。
こういう時、時間が遅く感じてしまい今までの人生を振り返るのだろうが、残念ながらそんな暇さえ与えなかった。
場違いな喇叭と紙吹雪。
爆弾からはスマイルマークの丸い頭にバネの首が飛び出ていた。
爆弾の中身には、
「きみ! びっくりしちゃった? きにいったやつはふきとばないからあんしんしてね」
冗談でも笑えない。
「はあ......全く、大帝の宝はどれも単なる好奇心だけで集めた大物と言われているが、好奇心じゃ済まないだろお......これ」
その大男は頭を掻きながら呆然の息を漏らしていた。
「おめぇも散々だなあ。大陽に気を失われて今度はこの部屋で物達に追われるとは。一体どんな不幸話なんだか。んじゃ、現世に戻してやるから俺の仕事が終わるまで付いてこい」
余は鏡を見た。自身が帝になってから変わらず幼い体。自分の腕は細く、爪先は岩でも引っ掻いたようにボロボロで弱々しく、大帝になった時の風景が今でも忘れられない。
余は金色の装飾が成された軍服の姿を見ながら後悔と天命の存在を噛みしめながら赤いクッションと黄金の木で構成された椅子に座り、目の前に積まれた机上の書類の束を眺めた。どれも無価値な物から生まれた放射性廃棄物である。
書類の中から一枚手を伸ばすとそこには人の経歴書が書いてあった。何とか会社に入社しただの、何とか大学に入っただのと。
それだけなら余のストレスが肥大することも無かっただろう。
そこには麻薬や暗殺、賄賂などの表には決して出てこないような言わば黒歴史も書いてあった。書類の束の量からどれだけこの世には「大物」の部類に入る人々がいるのか実感できる。別に大物が嫌いなわけではなく、寧ろ好んで大物を集めたいとは思っていた。だが大帝になる前に対しての反省点は言うまでもなく、人を信じすぎた事に他ならない。故に見分けなければならない。その人は集められる者に値するか。
しかし、寛大でなければならない。寛大さは人々を救済すると決まっている。それは決して間違ってない。そう、決してまちがえていないのだ......
「あらぁ......書類仕事なんて大変そうですねぇ......手伝ってあげましょうかぁ......」
視界の端から黒髪のカーテンが中央に迫り、両肩にはそっと手を置かれているが、少々の体の動きでは振りほどけない程に掴み、決して余が逃げる事を許さなかった。
「妾はあの物置部屋で待ちながらどれほどまでにこの時を望んでいたのでしょうかぁ......主人はご自身の名前を今でも覚えているのでしょうかぁ? いえ、ありえません。なぜなら名前を捨てるというのは名前を使う許しを得られず、即ち名前を想う事ができない事なのですからぁ......」
彼女の両手は肩から離れ、余の上半身を執着のベールで取り囲むように後ろから抱き、
「主人? そこまでしてこの妾が恐ろしいでしょうかぁ? 何もおっしゃらない主人もいいでしょうぅ......」
このまま言わずに座っていてもどうしようもない。大名が余の命令を無視することは決してなく、離れろと言えば離れてくれるのだろうが、余の名前が意思を持って生まれた鏡の姫君である為、余の考える事は彼女も考える事である。きっと別の方法で近寄るのだろう。
「あのさぁ......」
余は彼女にどうしても聞かなければならない事があった。薄々そうなのではないかとは思ったが、そうなのだと信じたくなかった。
「何でしょうぅ......主人の欲する事なら何でも差し上げましょうぅ......」
......
......
......
「余を大帝にしたのは君なんじゃないか?」
大名とは大帝の名前として昇華された大物だと人々から噂されど、そうじゃない。大名という大物が作った最高傑作の人間、それが余なのだと思った。
「ふふふ......だとして、機嫌が優れないのは何故でしょうぅ......」
続けて、
「余の思う事が事実であるならば、大帝になる前の宴会を開いた理由は寛大さを世に示す為ではなく、最初から国民全体を大帝という人間を作り出す為の贄として使う為という事になる。即ち、まるで帝の時から大帝になる算段を建てていたのだろう。そうなのだろう、余の名よ。そして其方がそう仕向けたのであれば、余の頭の片隅にそう仕向ければいいのではないかという思いがあったのだろう?余は最初から国民を惨殺する事を考えていたと」
「......」
彼女の真意が口から漏れるまでの何もない時間は大帝といえど、苦しい。
「妾は主人がこの世に生まれた時から傍にずぅっといました。国民からはよく酷い暴行を受ける様子が毎日見せられ、愛する主人を傷つける有象無象を祓う方法を考えました。
はぁ......今日も悪口と暴行。
......明日も明後日も明々後日も同じ。
何が寛大でしょうぅ......主人は素晴らしい帝であり、誰に対しても脅威でなければならない。そうでなければ反乱が起きて主人は消えてしまう。主人がいない妾など意味がない。
『良い事思いついたぁ......主人を知る全ての人間を薪にして才能と知識の炎を作りましょうぅ。主人以外の傷つける全ての生物なんてこの世からいなくなればよいのですぅ』
なんて可哀そうな主人......」
彼女の影は余を覆いつくし、その影法師は次第に大きくなっていった。それは一人の女性の姿ではなく、無数のガラクタの山であった。余の記憶の剣山は喋り、
「主人は手に入れた大物のどこかに名前を必ずつけていましたでしょうぅ? 即ち、妾は大きい物々全部であり、一つの名前。最近は大きい物を収集しなくなりましたねぇ。物は忘れ去られば廃棄物と化しますぅ......ならば、永遠に妾の存在を忘れないように致しましょうぅ......」
彼女がこうなってしまったのは余の責任なのだろう。国を滅ぼしたのも余であり、余がこうして居座り続けているのは決して償われない罪を背負う為であろう。余は国民を愛せど、手放し、今も大物を愛せど......
余が生み出してしまった「大」、集めてしまった「大」はいずれ自身に歯向かい、討たれるのだろう。これは無差別に全部を愛そうとした罰なのだろう。
日の光は大桶の水面を輝かせた。
この理解し難い部屋に連れてこられた私には疲労という二文字しか頭になく、視界は暗闇に包まれる。
その際に最後に目で捉えたのは、大馬鹿者が大桶の水面に写った日を盃で救った様子であった。それだけなら何の問題もないのだが、大桶の水面にはもう「日」は無かった。
......
......
......
耳を引き千切るかのような警鐘。数秒経とうが私を起こさずには居られない時計が呼んだ。
目を開けると何年も付き添ってきた自室の天井が見え、埃臭い床とやり残した宿題で埋め尽くされた勉強机が私の傍で横たわっていた。部屋が暑くないという事はちゃんと秋なのだろう。何も変わらない日常。そう、夢だったのだ。今までのガラクタや女性、大男は夢なのだ。
少しの安堵と懐疑に頭を占領されながら、目覚まし時計に手をかけた。どうも寝起きなのか時計をしっかりと掴む事は叶わず、自分の顔面に落ちてしまった。
懐疑は確信へ、安堵は不安へ。
その目覚まし時計には黒いペンで「BIG BANG!」と書かれていた。
「あちゃあー。これは一体何が起きたのかな、大帝」
一人の人間を元の世界に返し、やるべき事をし、大帝と一杯やろうと思ったのだが、どうやらそれどころじゃなかった。
薄型テレビにエアコン、岩石は成されるままの紙粘土と化し、弓の弦は緊張する意味を成さず、達磨の目は空虚でしか見れない盲目となり、本来のやるべき事を失ってしまった物達が転がっていた。
真価を失ってしまった山の中央にただ一人、机の上で書類に判子又は黒い万年筆で書き込む少年がいた。何も変わらないいつもの大物の総元締めとしての大帝の姿であった。
少年が此方を一目見ると、
「こんな仕事をしなければならないとは、ここを抜け出して旅行したいよ。其方、一度この『大帝』の座を譲ってもいいか?大馬鹿者」
真顔で口癖のように俺に冗談を言ってくる所も変わらない。
「やるか、馬鹿。俺はそこまで暇じゃないし、どうせそう言って譲るつもりはないだろ......というか、この部屋のあり様は......そうか、あいつか」
言わずもこの部屋を惨状に変えたのは大名なんだろう。
「余の大名がこの部屋にやって来たのさ。彼女が来た理由なんて分かりきっていた。自分に振り向いてくれないからこちらから来たんだろう。そして襲ってきたが彼女だって分かっていた筈だ。余は全ての才能と知識を得た人間であり、所有する大物は全部余が自ら探してきた物だから、彼女のやる事なんて全部知り尽くしていたさ」
それで。
「自分の宝を自ら壊すとはもったいないねぇ、大帝」
下に目を配れば足元には何かの破片が無数に落ちている。
「後で元に戻すさ。何より余は魔術や技術の道を知っている。それくらい何てことない......なぁ、大馬鹿者。大名は傍から見れば恐ろしい怪物なのかもしれないが、ここにいるときのあいつは普通の女性なんだよ。余に今も付き従う召使は万を超えるが、あいつはその人達を守る役を任されている。あいつの日課は朝、全員にそれぞれするべき事が全部書かれた手紙を送る。そして手紙の最後には必ず、
『もし何かあれば倉庫へお越しください。今日もあなたに良い事が訪れる事を願います』
ここまで律儀に召使や物を管理する人はあいつくらいだ。流石に余でも手足共に二本ずつの一人の人間。失う訳にはいかないさ」
執着の姫君として襲ってきた妖(おんな)とは似ても似つかない「人らしい」部分だった。大帝は大物の収集に執着したが、大物もまた大帝に執着する。
「大陽は回収した。また千切らなければならないとは、だから俺には大陽なんて手に余る」
俺はその場で胡坐を掻きながら自分がまだ「馬鹿」と呼ばれなかった時を想像した。自分でも己の人生が数奇なものだと改めて思う。
「余と同じくらい怪異な奴がそう言うか。 とりあえず、今日の仕事は終わったし、大名を復活させたら一緒に宴会でもしようじゃないか? たぶんあいつは快く受けると思うし、離さなければならない事も山のごとく多いからな」
俺は自分の酒瓶の底を確認したが、酒瓶は潤いを失くし、新たな豊穣の滴りを探していた。答えは言うまでもない。