八月三十一日 †
狐砂走
(ヤバい......どうしてこうなった)
私の机の上には数学問題集と白紙のノート、英作文用紙に理科の研究課題など、夏休みの難敵が堂々と鎮座していた。そして机の左奥に、飛び飛びの値しか刻めない量りは無言で現状を嘆いていた。日付は八月三十日で時間は二十三時五十九分。最後の審判まで二十四時間を切ろうとしていた。
できるならこうなる事は避けたかった。やろうとは思っていたがゲームの進行をなるべく進めたかったし、寝るという仕事があって忙しかったのだ。家庭と仕事は分けたく思い、先延ばしを連続で決行した結果がこのザマであった。
(もう知らん。どーにでもなれ)
私は布団に潜り込み寝た。床には翌日で役目を全うできると言わんばかりの知識の本や未だに夏に取り残され自分に情けをかける電子機器が散乱し、漂流者を救えなかった芥の器は紙やティッシュ玉で溢れており、床の溝を見ると埃が積もっていた。
意識は先の見えない常闇に沈み、現実を忘れ去ろうとした。
タッタッタッタ......
廊下を靴下でも履いたような布と木のぶつかる足音が私の意識を呼び覚ました。
(やけに騒がしい......)
親が廊下を掃除しているならこの音の原因も分かる。ただ、家にいるのは三人しかいない筈なのに足音の数は三どころか十を超えていた。
私は目を瞑りながら芋虫のように這ってドアを探した。
おかしい。
もしも私の右手に触れているものがドアであれば磨かれた木の表面が感じられるはずだが、頭で認識している情報は木というよりかは和紙に近く、凸凹が所々に存在した。
恐る恐る鉛の瞼を上げると目の前には襖があった。部屋が真っ暗である為、馴染み深い環境で少しは冷静でいられたが、どうやら襖の奥に足音の正体があるらしく、襖の淵は橙色の光が差し込み、空気中に舞っていた埃が光に当たっていた。
私は襖の端を両手で掴み、毎秒一ミリのペースで襖を左から右へ動かした。
そこには幅五十メートルの先の見えない廊下に天井が一円玉の大きさくらいにしか見えないほど高く、黒い袴を着た人々が着物や提灯を持って走っていた。見た様子だと歳はバラバラであったが少なくとも全員成人だった。
中には自分が両腕で思いっきり広げてもおそらくは届かないであろう大きさの鯛のお造りが載せられた船盛りを持っていたり、持っている人が両手で抱きかかえる程の徳利や朱色の漆のお椀を抱えていた。
即ち、どいつもこいつもサイズが桁違いであった。
私の居た部屋も違い、広さは四畳半の畳の間であり、四方を襖で囲われていた。襖のデザインは金箔や銀を惜しみなく使われており、この建物を建てた人は一体どんな金持ちなのかを想像してしまった。
私は橙色の光に包まれた大通りを避けるように襖を沢山開けながら歩いた。不思議とこの建物に自分は何故いるだろうとかは考えなかった。
始めの一枚目二枚目は慎重に開けていたが、三枚目からは面倒になって普通に開けて歩いて行った。
十三枚目の襖の前まで来たときには後ろを見れば、足音はせず、暗い畳の空間が広がっていた。
正直、こんなに襖があるんだから一気に連続で開けたいと思った。
開けた後、一瞬後悔してしまった。
目の前には自分の身長の倍はあるような大男が立っていた。丸い灰色の陶器の酒瓶を持ち、わざとなのかは分からないが酒瓶には黒い筆文字で「馬鹿」と書かれていた。大男の服装は女物の紅い紅葉風景が描かれた着物を羽織り、裸足だった。顔は髭面で無秩序に長いとは言えないが手入れしてないなと思わせる程であり、歯は一部欠けており、酔っているのか赤かった。
「ひっく......俺の昔話を聞きてぇか?」
酔いすぎてボケているのか私に対して昔話を聞かせてきた。面倒な奴である。
「昔々、とある国で帝は国を治めていました。才能も財力、運も持っていませんでしたが、誰よりも寛大でした。国に入る者は難民であれ、敵国であれ友好的であり、入国を許しました。国民はその寛大さ故に尊敬はしたものの、治安は悪く、彼を呪う人もいました。
帝は考えました。『もっと寛大になって己の能力を持てばきっと全ての民は幸せになれるはずだ』と。
帝は自分の城に民を呼び、宴会を開くと民はこれでもかと食い散らかし、奪い、襲い、民自身の欲をさらけ出しました。遂には『帝』の家族まで奪われました。
帝は怒り狂いました。欲に溺れた者に裁きと、悪魔を呼ぶため民の中からより欲の高い者を生贄にし、全ての民の持つ命、才能、運を全て剥奪しました。
帝は晴れて『大帝』となり、才能も財力、運も手に入れました。
しかし、国民も難民も、敵国の民でさえ誰もいません。
国にはたった一人しかいませんでした......と。
どうだ? 面白いだろ」
「ははぁ......」
分かんないけど、その昔話がバッドエンドなのは分かった。
「はっ! こうしてはいられんな。宴会にいかなければ
ここでは見ない顔だねぇ......どこかで会った? まぁ、そんな事もあるのかなぁ?」
彼はこちらを見ると顎を右手で摩りながら、
「そういえば、これからやらなければならない物があったような気がしてならないんだが知らない?」
「いえ......」
勿論知るわけがないし、会った事も無かった。
「そうかぁ......んーじゃあ、これ預けとく」
そう言って彼の胸倉から何十個もあるような鍵の束を渡された。
「ほれ、重いし鍵なんてどれも一緒に見えてしょうがない。んーじゃあ、俺は宴会に向かうから達者でな......そうそう、『大蛇』に出会わないよう気ぃつけろよ? あいつ見境なくかみついてくる招かれざる客だしなぁ......行くとこ無かったらそのまま真っすぐ歩いていれば倉庫があるし、そこで暫く待ってたら?」
彼はそう言ってそのまま去っていた。彼の足音はタンスでも引いて動かしているかのように重い足取りだった。
私は彼の言う通り、ひたすら真っすぐ歩いた。
襖にぶつかっては開け、ぶつかっては開けを繰り返して五分程歩くと急に白い襖が現れた。『大襖』。黒い筆文字で書かれていたが見るからに普通の襖である。ただ、そこら中にさび付いた鎖で開けられないように鍵がかけられていた。
先程渡された鍵を試しにいくつか鍵穴に入れてみると開いた。そうやって合計百以上の錠を開けた。
私の足元には鉄錆の匂いで充満し、錆びた鉄粉が巻き散っていた。
襖を開けるとそこには書類の束があった。内容は様々であり、国家の負債手形や芸能人のスキャンダル、何語で書かれているか分からない魔法書みたいなやつだったり、遺骨もあった。
(あれ? こんな所に丸い水晶?)
琥珀色の大きな水晶があった。最初、地球儀かと思ったが、島なんてなかった。黒い円が描かれていた。
このとき、触れなければよかったと後悔した。
(これは水晶じゃない......蛇の目だ!)
気づいた時にはもう遅く、倉庫の書類の束を倒しながら蛇は起き上がった。書類の山のあちこちから黒い鱗で覆われた体が飛び出し、蛇の高さは五十メートル以上はあった。
(逃げないと......)
大男は襖を開けると俺と同じくらいの人々が豪華な料理が置かれた長机の近くに座っていた。
「遅かったではないか? どこで油売ってた?『大馬鹿者』」
声の方向を見ると蒼いスーツを着た肥満の男がいた。
「これはこれは。お初にお目にかかる。『大臣』。また何か不祥事でも起こした故にここに来たのかなぁ?」
まあ、大方、ここに来る輩は何かしらの背負いきれない程の課題に囚われた者しか来ないから、この大臣だってそうだろうと思った。
「何の話だ。私は事務仕事で忙しいのでね。今回の宴会の主はかの『大帝』。あらゆる過去を焼き尽くす力を持っている。中々こんな有名人に会えることなんて無いだろう。この『大船』に乗るのでさえ代償を支払ったんだ......この機会を存分に生かさなければ」
(代償ねぇ......)
俺は宴会場の辺りを見渡した。
虚飾は舞台で踊り、燃料は無駄に捨てながら鯨はアルコールの海に溺れていた。箱から仕舞いきれないブリキの玩具は空のカレンダーを印刷し、乾いた朱肉と万年筆は行方不明となっていた。
『大神』、『大統領』、『大海賊』、『大金持ち』、『大帝』、『大王』、『大罪人』、『大怪盗』、『大魔法使い』など伝承や現実にいた人物が飲んでいた。
少し耳を澄ませば、
「何十年にもわたって国からの借金を背負い、明日になればデモが起きて終わりだったが、『大帝』様がどうにかしてくれるらしい。今日はついてるよ。私はいつだって国民を支配できる権力を持っている。こんな美味しい地位手放すものかね。」
「我は人間ごときに邪神として木の切れ端か何かに封印されてしまったが今日で終わりだ。この宴会が終わったら人間どもに正しい裁きを加えてやる。そして二度と我に歯向かわぬよう人間の全てを奪い去ってやろう」
「いやぁ、なんと恐ろしい。その時は私へご贔屓お願いしますよ」
彼らの会話を聞けば、とにかく物騒な話題が彼方此方に飛んでいた。とても人の会話とは思えない。
そんな中、『大罪人』は茶色く薄汚れてた途切れ途切れの包帯で全身を纏い、手足を一部錆びついた鉄枷で拘束されていた。あまりにも話しかけずらい風貌である為、誰もその人に話しかける者はいなかった。何も言わず、包帯の隙間から全体を常に見渡しているようにみえた。
「やあ、賢き者」
声のする方向へ顔を向くと、小さな少年がいた。
「『大帝』君。今日の客はどうだぁい? 巨大なモノを集めるのが趣味なおめぇさんにとって今回はかなりの強者揃いだと思うけどねぇ? 俺は酔っているのか、この大船に小さき者が乗っているように見えたよ」
「それでどうしたの?」
「あっ......酔った勢いで大襖の鍵渡しちゃった。まぁ、仕方ないよね」
俺が鍵を少年に渡した事を口走った瞬間、辺りが凍り付いた。
周りの声は、
「ありえんだろ......きっと間違いだ」
「あの『大馬鹿者』のことだ、思い違いだろ」
皆々は先程まで大帝による宿題の焼却を楽しみにし、酔っていたが、どうやら酔いは冷めたらしい。
「おい、馬鹿野郎! 君が何したのか分かっているのか!」
背後から畳を踏み潰すながら歩いてきたのは『大臣』だった。
「何か不味い事でもあるのか? 俺は大帝から大襖を任されている。どうしようが俺の勝手だよなぁ? なぁ、大帝」
俺は腰を低くして大帝との高さを合わせた。
「無論、余は寛大であり、鍵くらい『大馬鹿者』に任せてもよいと思ったのだ。今日は八月三十一日、あらゆる全ての拭いきれない罪や課題を清算する特別な日。こんなとっても良い時なのだから、ここに来る者は一つや二つのミスで嘆くような器の小さき者ではないと思った。大臣、器の小さき者は嫌いなのだよ」
「何を流暢に酔っとる! こうしてはおられん、大襖はどこだ!」
「あー、それなんだけどね......」
俺は場所を言おうとしたがその必要は無かった。
大襖の側からこっちに来たらしい。
従者の慌てふためく声、木がバキバキと破壊されゆく音と風穴の吹くような鳴き声。
瞬きをする度に音は拡大していった。
襖が破られ、目を向けると少年と大蛇の姿、そして紙吹雪のように舞っていたのは宴で楽しんでいた者の『宿題』であった。
「皆、俺の大蛇がすまない! どうやらこの大船でも奴にとっては狭すぎたらしい。 俺もただ酒一杯飲めたから宴はこれにて終わり。じゃあな、大帝。酒上手かったぜ」
「ハハハハハハハ......余も宴会でこれほどまで派手な去り際は見たことない。また来年も楽しみにしているよ」
俺は少年をハムスターをつまむように手に取ると、大蛇の頭に乗って
「ここから出るぞ小僧。宿題なんて俺には好き勝手暴れてるから意識したことはねぇが、『大臣』の宿題、暗殺事件の大臣に繋がる証拠として挙がったシャンパンを手にいれたから良しとしよう。そうそう、ここにはおめぇさんの宿題はない。ただ、この大船に呼ばれる者は大帝の基準である『大きな者』に当てはまる。何か心当たりはあるか?」
「いや......」
少年の様子を見たが、全く見当が付かない様子だった。
大蛇は黒袴の従者を紙吹雪の舞うが如く飛ばしながら木の板は通った跡だけ棘が天井に牙を向けながら。
「皆の者! 余は一つの問いかけに答えてほしい。ここにいる全員に言っている。逃げ出すわけではないだろう?」
大臣の額は汗びっしょりであり、彼の手は爪を手のひらに食い込ませすぎて血だらけであった。
「そんな遊びに付き合っている場合じゃなぁい! 今、最優先事項なのは私の奪われた『証拠』なのだ! ったく......私はここから席を外させてもらう」
彼はそんな事を言っていた。未だにこんな人間がいるのか。
「......余が答えてほしいと言っているのだ......」
私は腰に携えていた愛刀を握り......
「んっ......え? あああああああぁぁぁぁ」
余の何倍もある肉人形は右腕を抱えたまま叫んだ。
他の大物は他人事のように「かわいそうに」や「俺はああはならないな」などとほざいていた。
巨象は食べた林檎の味を忘れ、草木を散々踏み荒らしてきた脚は錆びついた鉄で覆われた。
「皆のもの、余は問いかける。何故皆は『大きい』?」
刀をしまい、刀の頭を摩りながら大物達を見つめた。
宴会場は数秒沈黙したあと、嘲笑で包まれた。
大統領は腹を抱えながら......
「そんなの決まっているじゃないか......金と名声があるからだ。私は自力でここまでのし上がった。ここにいる者達は生まれつきの才能や自力で地位を得たからここにいるのだ。それ以外に何がある?」
やはり、民は千年経とうが変わらない。いつまで『過ち』を繰り返せば気が済むのだろう。
そう、巨象は林檎を忘れようが、小象は林檎の食いカスを忘れず、見つめ続けた。
その様子を見ていた大罪人の包帯は大統領の発言直後、解けていった。
「おや? 始まってしまったか。儀式が」
俺は背中から何百にもわたる蜘蛛の子が這いずる回るような寒気がした。
「少年、ここが初めてっていうんなら、今から何が起きるか説明するよ」
俺は目線を少年の頭に向けた。
「大帝の昔話には続きがある。
大帝は全ての才能と財力を得た後、二度と起きないように無垢の人間達に自分の才能と財力の一部を振り分けた。
『その才能と財力を以て、余の為、世の為に全力を尽くし永久に罪を償うがよい。それが君達民の作った宿題である。余は万民の皇帝であり、いつでも見ている』
そして百年毎に民から剥奪した八月三十日の夜で才能と財力を受け継いだ大物を招集し、宿題ができたかどうか確認するのだと。
まぁ、この船に来る大物自体、宿題帳消しの為に来るような輩が来るから大帝にとっては不合格なんだろう。
そして不合格の者には裁きがやってくる」
「宴会で飲み食いする『暴食』、現状に尚不満を抱き続ける『憤怒』、十分な才能と財力を手にしても未だ他を欲する『強欲』と『色欲』、才能には似つかわしくない言動と態度の『傲慢』、他人の才能に未だに『嫉妬』、そして......大帝の下した宿題を未完のままに生きながらえる『怠惰』。
以上の罪を確認しました故、大帝への力の返却を発動致します」
余に向かって語り掛けてきた者は包帯だらけの大罪人であり、包帯が解けた奥に潜んでいた者。即ち大悪魔であった。
「我の目の前に悪魔など......汚らわしい! すぐに排除してみせようぞ」
大神は大悪魔の前に仁王立ちしたが、
「ん......」
大神の手はそこにはなかった。それどころか、秒読みで体が砂のように朽ちていった。それは大神だけでなく、
「なっ何だこれは! 私の足が無い! 大帝よ! 助けてくれ。頼む。何でもするから......」
大臣はおろか、その場にいた大物達の体は砂となっていった。
「君達に才能や財力の使い方を強いているのではない。ただ、自分の宿題ですら他人に要求する者に才能が使えるとは思えない。だから体は持て余した力から溢れ、崩壊する。特にお前達のように体だけが大きい者はな」
そして大物達の残した砂は余の元に戻っていった。
先程まで飲んで遊んでいた宴会場はこれ程までに広かったのだと改めて実感してしまった。
宴会場には余と『大悪魔』だけが残った。
「ああ、もう宴は終わり。結局宿題は果たせなかった。大物達は力を失い、元の姿になっていき、自分のか弱さを痛感するだろう。余が名も無い時と同じ事をするだけなのだ」
「結局、あなたは孤独なのですね。自分のか弱さを理解し、その上で万民に寛大であり続けた結果がこのザマです。それでもこの宴会は行い続けるのでしょうか?」
燕尾服を着た初老は口角を上げた。
「無論だ。余は寛大であり続ける。決して一人の例外もなく受け入れ、幸福に満ち溢れた世を作る。その為に民には課題を設けたのだ」
少年は大馬鹿者の話を聞いたが、途中から意識が朦朧とした。視界は白く霞、思考が行動と一致しなくなった。
......
......
ピピピピ......
慣れ親しんだ機械音と共に瞼を開けると眩しい白い光が眼を襲った。
(眠い......)
テレビを付けるとどうやらニュースが騒がしかったらしく、とある大臣の汚職事件、とある国の政権が倒れただの、世界の終末のような状況だった。
今日は八月三十一日夏休み最終日。机には宿題の山があった。