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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.44 / キョエー舞踏曲
Last-modified: 2020-03-19 (木) 08:51:31 (1499d)
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活動/霧雨

キョエー舞踏曲

鮎川つくる

   円を切ってご覧
   反らして繋いでご覧
   ご覧、内と外が入れ替わった

   1  elegante
 ぼくは子供の頃見た劇団の、作り込まれた都市で黒い喉奥を見せている劇場を拠点にしているようなものではなく、もっとぼくたちの近くに存在してる、劇のなにかあれこれをとりとめもなくさらさらと思い出していた。脳裡に薄布を貼って描く。緑のびろうどの、光を繊維に閉じ込めておくカーテン幕、埃っぽい体育館の、頭と頭の隙間を窺うバスケット・ボールのライン、全てが地面から染み出して、木製の床にしみを作っていた。幕が上がれば、絵の具一色の青と木が安い。きっと古い時代から貰ったであろう枠線も、控えめな優雅さと反吐の出る俗悪さの酔いを生み出すだけの二次的な補填的の装置に成り下がってしまっている。今思い出したが人形劇だった。豪華な人の形を(多少の人類的な規模のエゴイズムは無視しよう)模した人形と、水溜りから引き上げた土色をしたキョエー……。そうキョエー、キョエーと言っていた、口の動きや喉の、出っ張りが上下する様子を思い出してもキョエーと言っていた。手袋でできたキョエーは、人形たちを順に喰らって行った、順序など、ABCのような気まぐれで。
 キョエーの色から、ぼくはそのとき人は土に還るといった類の思いを持っていた。やけに訳のわからぬことを、誤って摂取した場合、人間の意思を思い出して非・存在、非・現実性で調和を図る。いや、これは後付け記憶だろう。こんな話がある、三島由紀夫は産湯に使った記憶があると自伝的小説で書いたが、ある医者は脳みその作りからそれを否定していた。もっとも、自身のために手頃な例を取っ捕まえて有利な呪いを押し付ける行動は、なんとも幼稚な行と言わざるを得ないが。……やはり純粋なキョエーに対する記憶とは言い難い。たくさんの修飾とたくさんの理想のラッカー掛けを施されていて、土産物として売り叩く自信があるくらいだ。
 なにもかも不確かかもしれないという気持ちが支配的な心情になってくると、たちまちはっきり形を保っていた線は歪んでいく。歪み方は全くのオンテンバールではなくどうやらある一点への収束を主張しているらしい。ぼくは教師の耳を傾ける姿勢を参考にしてじいっと待っていた。やがて、いつもを過ごすぼくの暗い部屋にふわふわ浮遊する部品――机と椅子(雲に例えるなら、机がかなとこ雲、椅子が並雲だ)の輪郭に向かい、重なり、収束し、終わった。
 机、ぼくの狭い部屋の多くを占め、傍らに人がいないが若く振舞っている大きな木の成れ果ては、涙のような焦げ茶色に塗装された植物体の死体であって、そのことに気が付いてからは、どうしようもない悪臭を導き出し、その根源に位置付けられている。魚と一緒くたになって鼻を打ち殴る。机に付属した椅子も、同系統のデザインで成立している。どうして同系統であると結論したのかはよくわからないが。ぼくの部屋はこれで終いだ、全部だ、あとは埃の地質が堆積しているのみ、ねずみ色パジャマの地層、よそ行きの一張羅の地層、これらがカビとなって群生する。カビの布は、毛布よりもずっと暖かく断熱効果もありそうだから、掃除もせずに好きにさせている、それに柔らかい。
 おっと窓を忘れていた、黒い縁取りで縦長の窓、北向きだから日当たりは良くないが、その分眩しさに悩むことはない。きつい西日に延々照らされるよりかはましだ。額縁に縛られた中身は、とりどりの空を映し出す。雲が何種類も見える、三種類くらいだろうか。あのもくもくの連中に名前をつけて一体何になる?
 椅子を机の下に押しやって窓辺に向かうと、空以外のあれこれが見えてくる、壁が厚くなって生まれた建物、道に石ころを多量に転がしてできた石畳の道、そして二種類の液体を混ぜ合わせる魔術で生まれた呪われた人間たち……特に街を歩くときの人間は肥大した入れ物を作らせてその中でしか歩くことができないらしい。たぶん襲われるから、たぶん打ち負かされるから、襲われたり負けたりすると悲惨だ、上から降ってきた呪いを次々に押し付けられて、最後には動けなくなり止まった気管に酸素を詰めようと喉奥に指を突っ込み、残念なことに管に指が突き刺さって血に溺れてしまう。そうならないように呪いよけの籠に入ったのが最初だったのだろう。この実験は原因に対しては無力であったが、ある一つの重要で普遍的でもう仕込まれてしまっている性質を明らかにした、大聖堂でもいい、国会議事堂でもいい、見ていると消えたくなってくる建物の効果だ。そいつを利用して巨大な人間を模した入れ物を作ると、たちまち普及した。ぼくはごめんだ、これこそ呪われている。悪意でいっぱいの始まりに、考えないことの美学、「深刻に」ではなく「真剣に」ということがどうしてわからないのだろう。ぼくは手を銃の形にして、奴らの、容器内で縮こまっている哀れな動物に向かって(そう動物、ぼくも動物だ)、撃つ。命中する、脳みそが吹っ飛ぶ。動物的な乾いた皮と、植物的なみずみずしいトマトの中身。汁は全て容器内に溜まる、氷を入れてストローを指してやって、ドリンクスタンドなんかで新聞と一緒に売ってやるといい。新時代の健康法。そんなことを考えていたぼく自身が気持ち悪くなって吐いた、吐いた真似をした。
 このぼくの住む香辛料で隠された塩漬けされゆっくりと有用に腐っていく港町は、よく美しい印象とともに再生される、あるいは思い出の中に想起される。しかし、レンズはいつも正しく像を結ぶとは限らない。スクリーンに写った像も、曲げられた光の集合物だ。雨が降るとてらてらとまたたく歩きにくい石畳やすぐ錆びてしまう鉄製の螺旋階段、潮風は魚を通って吹く、つまり魚の死体の匂いだ、ぼくは生きるために死体を食らう超自然の死体と、いくつ差があると言うのだろう。空気に浮かぶ死体の感覚を集めてまとわりつけて(服を着る様子を想像せよ)巨人となる。この作業を行うのがキョエーだ。ぼくはキョエーが住んでいることを認識している、キョエーがこの閉鎖的宇宙船内に入り込み、細菌なとちっぽけな屑と感じさせる以上に異常な繁栄をしているとぼくは認識している。だがどうだ、石畳の上を危なっかしそうに歩くあいつらは知らない。ははは、ははははは。そうキョエー。くりくり目玉の、みみずのような生き物。鼻のひん曲がる匂いを着けて、目を破壊する色彩を選んだ生き物、人間という最強の楽園に住み着いた生き物。煙草というのは、このキョエーを追い出すために自然に身についた習慣の一つかと思う。吐き出した煙は空気と混じり合って溶けてしまう。
 結局、容器をまとってしまわないと外も歩くことができないのは、キョエーがそうされているからである。キョエー、キョエー、ぼくは君と話をしているのかな、それとも人間と話をしているのかな。
 時計に目をやると、体内時計が今日も正確で、脳のしわ一つ一つに彫刻された作業工程表は、出発する時間を示していた。精神と肉体はしばしば分離し、眠っている間に準備はすっかり整っている。
 ぼくの暗い部屋の出入り口に立ち塞がる扉を開けると、使用される喜びの声をあげた。無視して裸電球の垂れる廊下を進む。老化した廊下がぎしぎしと木の唸り声を上げる、うるさい、黙っていろ、という代わりにそそくさと進む。ワックスに沈んだぼうっと黄色くなった円球を見た。深海なら、このまま行くと哀れなことよ、朝食か昼食か夕食かの材料はろくに料理もされずに食われちまうが、ぼくは幸いにも外に出ることができた。
 暗い部屋、薄暗い廊下、少し開けて外の光が輪郭を投げかける石造りの玄関ホール、陽光が拡散している石畳と、順に光に慣れていったお陰で、目がくらくらするだとかはなかった。道路の上をせわしなく駆けてゆく人々、「忙しい」を「心を亡くす」と読む奴は、木登りに失敗した愚かで憐れな猿だ。効率に言及する奴も同じだ。地面に埋まって仕舞え、柔らかな非道徳を用いて擬似の救済に埋もれて仕舞え。風がぼくを横から殴る。ああ! なまったるい魚の臭い!
 突然の怒りに靴の先を玄関階段に埋め込もうとした。大きくもなく小さくもない中途半端な音が鳴ったが誰も見ていなかった、が、全員が見ていたことにした。電球とスイッチ、誰がスイッチを押した? ぼくか? 一回息を吸い、そして吐いた。吐くときは、できるだけゲロのぶよぶよとした水っぽい白さとだらだらとした悪臭を思い出す。全部ぶちまけたい、胸に溜まった水や、脳みそにこびりつく黒いタールを。
 素晴らしい晴れた朝だというのに擦れ違う人々は雨だか晴れだかよくわからないちぐはぐな格好をしていた。いや、気にしていないのだろう、空は美しい、美しいものに関心がなかったり、美しいと思うことができないとは、なんと残念で……可哀想な人々だろう。カメラや活版印刷機に似た色のコートは水を弾く全天候型だ。人の流れに乗ってゆくと、ぼくの足は自動で修正を開始し、勤め先の喫茶店の方へ歩いていった。喫茶店の主人は矮小七・三センチメートルのキョエーしか持ってない。客は矮小持ちの近くにいると自らのキョエーも縮み上がってしまうと思っているから来ない。閑職に回されて、やりがいを、という思いはない。キョエーから離れたい、あの気色の悪い両眼に見つめられると、ぼくの腕や足の関節ががたがたと鳴り、脳みそにこびり付き、叫び声をあげたくなる。
ぼくは歩いていた、しかし全く思っていなかった、自然に足は歩いていた。ぼくは何を考えていた? ……風呂場の掃除、女の両腕、最近潰れた弁当屋……
 擦れ違うときに使い慣れた足の動かし方を間違えてしまって男と肩が当たった。
「失礼。ぼくには二本の足は多すぎるらしい」ぼくはできるだけ素早く言った。息を早くしたせいか、血液はぼくを振動させた。
「君、キョエーは……、」
 男の温かな胸の中でこちらに向かって全人類に向けられた歓待の眼差しをキョエーは始めたので、ぼくは睨みつけてさっさと立ち去った。キョエーに内面を蝕まれて許しを懇願すれば良い。キョエーに飼われておりました、私はキョエーに飼われておりましたと!
 朝は素晴らしいんだ、本当はこんな港街で過ごすのではなくて、若草色の草の歌のなか高原にて宝石色の紅茶といくつかの野菜と澄んだ塩味のスープを食べつつ、ショパンを聴くのだ。だが彼らのせいでずぶ濡れの木曜日だ。思えばろくな木曜日を過ごしたことはない。子供の頃も、嫌いな体育は決まって木曜日をあてがわれていた。
 煉瓦でできた近代ビルの殻に陥没した陰気な喫茶店――オッコン――は口を開いて待っている。プランターに生えた草も成熟しきった陰鬱な色をしている。冷たい取っ手を我慢して扉を開くと、頭上から降り注ぐ鉄のさえずり、次に鳴いたら、お前の喉首を締め上げてやる。
 コーヒーの香り、コーヒーは豆だ、豆の何がいい、紅茶だろう、人間は葉っぱの方が仲良しだ。オッコンの様子は大きな一つ目の臭くて足の多い虫か何かが、薬でハイになりながらのたうち回りやがったみたいだ。薬というのは焦げを水に溶かして飲むやつだ。ああ、陰鬱、鬱々勃々、オッコンの椅子に座る。ギイといった。もっと啼け、啼いて仕舞え。
 主人が起きてくるまでに、たとえ起きても滅多に出てこない。何しろ七・三センチだからな、出てきたところで馬鹿にされるだけだ。キョエーに鉛筆でも食わせるか、手術……もっともそんなものがあるかは知らないが、すればいい。そういえば、伴侶動物くらいの大きさがないと手術が脳みその回路に乗ることすらない、やわやわの芋虫を手術してごらん、はさみが命を吸い出し蒸発だ。また息を吐いて、レコードをかける。モーツアルトの交響曲第二十番、どのオーケストラが演奏したかなんてどうでもいい。コーヒーの染み付いた床にモップがけをして、定位置に戻る。今日の新聞を広げた。ま、大抵は繰り返しとゴシップの脂ぎった紙面だ、食えたもんじゃない、新聞を毎日心を込めて読んでいたらあっという間に豚になってしまうだろう。でっぷりした肉にぺろぺろな皮に覆われちまう!

   2  comodo
「ねえ、先生、どうやって人形を動かしていたんでしょう」幕間の時間にそっとぼくは先生に尋ねた。
 ぼくはどうして生き物以外がああも細かく動くのかが理解できなかった、信じることができなかった。車や着ぐるみは中身に人間がある。けれど、この人形はとても人が入ることのできるような隙間だなんて。
 先生は、劇団の人に聞いてごらんなさい、と答えたが、ぼく自身からの働きかけというあまり経験したことのない場合であって、行動が省略されれば良いのにな、と思っていたが、それ以上何も言わなかった。
「あの……」
 部屋の中なのにサングラスをかけている、ぼくからいちばん近くに立っていた劇団の人に聞くと、先生との会話が聞こえていたのだろう、滑らかに案内される。
 見にくい額縁は近づいて行くたびに、ぼくでも作ることのできそうだという感じがして、想像以上にずさんで醜かった。細かいところに気持ちが入っていない。こう、数歩の前後運動でここまで見方が変わるだろうかな、と思った。
 劇団の人が示した人形は、頭のずっと上に「井」の形に組まれた木と糸で繋がっていた。目の前で人形がお辞儀をする。透明な糸は手のひらに乗せみても、ちっとも見ることができなかった。気を抜くと、触っている感触すら怪しくなる。

   3  con malinconia
 鈴のつぶやきがした、陰鬱なオッコンと、モーツァルトの高い響き、ミスマッチ、紅茶とミルクだ。入ってきた客は、良い恰幅をした男だ。髪の毛がきっちり生える場所を指定されている。無毛の部分は柔らかな色白の皮膚で覆われており、清潔な豚、あと一段階で狭いガラスケースに収まる豚に見える。うなじのあたりが丸くすべすべしているからであろうか。じっと目線を向けると、実に豚らしく鳴き声が聞こえてきそうだ。プギィ、プギィ。
 男は窓際の席に座った。少々射し込む光が窓枠を机に焼き付けている。近代ビルとオッコンの隙間に生えている、とても食事をするに適していない土ぼこりばかりの花壇、そこに咲く花、見せつけるための生殖器官。
 男は、滑らかな動作で煙草を取り出し火をつけた。吸って吐くことでのぼる煙は、喫煙で失った時間の残滓の塊であり、その男にとって煙は服飾の一部であるのだろう。出来るだけ生命を軽視する様子を示すことで、歪んだ尊敬が正しい尊敬に変換されるとでも思っているらしい。この悪臭が歪みの主だった成分であると言われたら、どう反論を用意し囲んでやろうかと考えていた。乱雑さ加減は増加して行き、鼻は匂いに慣れてしまって、煙も香りも消えた、男の身体もその分消えた。よく着席時に大きく股を開くきらいのある人がいるが、この男もそうであった。これは股間に鎮座する生殖器の輪郭を布に押し付けることで、ある種の印刷機のようにその大きさや形状を誇示しているのである。男の場合、精子の質や機能を議論した方がよっぽど生産的だが、押し付けることがやめられないらしい、よって一種の快感を得る動作であるという誰が言ったか分からない仮説も、真実味を持って受け入れられる。
「注文は。お決まりで……」
「私たちの国では、色を鉱物で言い表すんです」
 どうやら小さないきちがいがあったようだ、念押しにもう一回。
「注文は。」
「実に合理的ですよ、色の誤解というのがない、美妙で微妙な色の差異を表すことができますからね」
 閉口して「ですから……」いきちがい。
「空は、君たちの言葉で言うと、灰色と青色を三と一の割合で混ぜ合わせたものだな。私たちの言葉で言うとマ……ディ、ああ、あの陰鬱な雲が重なって行く」
 肝心の未知の言語は、母国語を紹介する際の邪魔な流暢さで全く聴き取れなかった、が、聞き返すこともしない。男は両手を広げてぼくに分かりやすく説明していた、力がこもっている、これもある種のデモンストレーションでしかない。博覧強記とは言わないが、ぼく自身読書以外に趣味として宣言するものはなく、ま、結局は知識には自信があるが、そんな国の存在は知らないし、ここまで特徴的だと何かしらの良き題材として再生に次ぐ再生で擦り切れているはずだが、なんという水々しさだろう。自らの想像した内的世界と現実の外的世界を反対向きの不安定なウルトラCによって平衡を変えたのだろうか、だとすると目の前に人の一般形をしたこいつにどう話しかけろと言うのだろう。
 すると、男はぼくの表情を読んだのだろう、言葉なしの相互心情交換装置は電気なしで駆動する。
「三方向を山に囲まれ、海から陸に吹く恒常的な風のせいで雲が止むことが無いんですよ、もちろん雨も多かった」
 私たちの国はね、そのときぼくは「私たちの国<「国」に傍点>」という言葉からいつか読んだ文学のことを考えていた。バンドネオンが登場する、ドイツで生まれ、大西洋を渡った偉大な楽器の音がする。すこし間が空いて、
「これは、いい曲ですね」
 ピアノ協奏曲は、ピアノの独奏部分に差し掛かっていた。音楽に明るくないぼくは、的確に音楽を摘むことはできない。
 時として、因果のうち原因が何かをとんと推測できないだなんてことは常であり、今回もそうなる、いやそうしてやる。
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、神童モーツァルトのピアノ協奏曲第二十番です、ピアノ協奏曲を聞いていると、なるほどピアノはp・fであると思いませんか……鍵盤に世界を全て載せることもできれば、空白に埋める部分空間的な音も出せる、何十人ものお喋りを退かしながらも、いちばん前に踊り出す」
 男は黙っていた……「誰かを黙らせたからと言って、納得させられたとは限らない」……モーツァルトを聞いているようにも、ただ黙っているようにも見えた。先ほど散々唾を飛ばした色遣いで、この音楽を表現していただきたいなあ。階段を上がるような、ガラス瓶を叩くようなさっぱりした音が重ねられてゆく。重なった先は、歪み、幸福な歪みは隠れた願望や扇情を見えやすくする。被せていっぱいの反抗抵抗をして胸襟で苦しみのたうちまわるキョエー。
 音楽は止まった、そりゃ音楽は無限ではない。雨とおんなじだ。
「次はピアソラをかけようと思うんです、アストル・ピアソラ」「なあに、ついさっきあなたの話を聴いていたらバンドネオンを思い出してね……」「『Bandoneon』の『Band』は発明者の名前なんですよ」何か話せば良いのに。
 石油の重さを感じるレコードを取り替えてかけた。「ル・グラン・タンゴ」が滑らかに開始した。
 静けさが川となって流れて行く、ぼくたちを埋めて行く、川底に突き刺さって行く。座っている男はすぐに息を詰まらせるだろう、だが、正直に手をあげるだなんてことは、彼にはできないのだ。崩壊を判決を弾劾を待っている、探海灯にぼつんと一人照らされながら……さぞ甘美? いいや、無意味無意味、酔って生きて夢の中で死ぬようなもんさ。慰めにもならない。空腹を紛らわすために、不味い冷蔵庫食品を生で食うようなもんだ、楽、楽で、無、無意味な。
 男はぼくの方を向かずに口をぱくぱくとさせていた、酸素は十分足りているぜ。きっとこの二分間も永遠に感じているのだろう。あらゆるものが終了と達成と諦観に飼われていると知ってもだ。
「バイオリンやらチェロやら弦楽器というのは、緊張なんですよ、弦の震えは足首の震え、ピアノは硬くも柔らかくもできます、ここで緊張の開放ですね、ぼくたちはいま投げ出されたんですよ」何が言いたいのだろう。相変わらず男は黙っている。
 流石にぼくも不安になってしまって、「ぼくたちの言葉とあなたの国の鉱物の、辞典みたいなものはないんですか」と聞いた。男はようやく正しく全体の調和のとれた動作を蘇らせた。気持ち良さを引っ掻き恥を知って、痛みを自ら作って、糸を垂らしてやる、が、もちろん切れやすいやつだ……切れやすいが、また引っ掻く、傷が付く。
 男はこの香辛料の港町の色と祖国のそれぞれの辞典を見せてくれる。えんじ色の表紙に金色の文字『諸外国の言語に於ける色の表現と、我が祖国の鉱物の対応表』、ああ、なんていやらしい題だろう。開くと蠅の頭程しかない小さな文字がのたうち回っている。殺虫剤でもかけられたか。しかし香りは古い紙の匂いだ、あちこちで古さだけ集めて成り立つつぎはぎ、縫い目はほつれている。よくわからない文字で、短い単語と、それに対応するいくつもの短い単語が表に整列している。我々の進歩に何か寄与するものがここにはあるか。
「細かい註には、各国の言語の成長過程や神話にも注意を払って集めた関連性などを記載しているんですよ」
 ぼくの読むものではない。男の胸では、見るともちろん、培養器のキョエーは踊っている、いや、キョエーごときに「踊っている」は勿体ない。培養器内でセックスするみたいに動いていやがる。
「この曲、音の配置が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』みたいじゃないですか、新印象派のジョルジュ・スーラの」
 男は立ち上がってぼくに一瞥もくれず何も言わずオッコンを立ち去っていった。擦れ違いのときに便所の芳香剤のにおいがした。
「またの御来店を、お客様」
 男が完全に店を出ていってから、ぼくは恭しく頭を下げた、爪先まで気が満ちている。

   4  con allegrezza
「さあ、劇の第二幕ですよ、席にお戻りなさい」
 ぼくはびっくりしてぱっ、と振り返ると、先生が立っていた。
 言いつけ通り、一人分空いたてらてら光る木の板の上に座る。板はすこし冷たい。緑のびろうどの幕がもう一度閉じて、また開かれた。相変わらず背景は安っぽい。

   5  lamentabile
 オッコンに客は来ない、が、時折、意味のわからない客が招かれる。いや、本当に「招かれる」という表現が適切だ。ろくに看板も出していない喫茶店に誰が入ろうと思うか。
 ある日宝石商が来た、だから「宝石なんてそこらの石なんだな、ただの物質の集まりなんだな、それに死んで仕舞えば持って行けない」と言った、宝石商は帰っていった。ある日花瓶に花を挿した客がやってきた、だから「花というのは植物の生殖器官なんだな、そうやって切り取って愛でるというのは、他人の陰茎を切り取って愛撫することと同じなんだな」(股関の膨らみを確認して)「丁度包丁がありますからあなたの陰茎をぜひ露出させて頂きたいですね、花瓶に挿したいと思っていましたから」と言った、客は帰っていった。
 潮風は香辛料と魚の腐った臭いを運び、ぼくらは糸と針で縫い付ける。救いようのないどす黒い終末の色に、薄い壊れかけの布を縫い付ける。気色悪い生の拍動に、人工的に合成した死を重ね合わせ、踊って喜んで嬉しがっている。生死への冒涜、傲慢、高慢、浅はか……まとめると、「失礼」! ああ、愚かなことよ。
 感情の高層建築は、自然の怒りを買いやすく、また高い重心は崩れやすく、よく壊されている。子を捨つる薮はあれど身を捨つる薮はなし、なんて表現が出ちまうくらいに疲れている、そう、ただ疲れているだけさ。
 暗い部屋に戻ってからの沈鬱な空気は、どぐろを巻いて流れ、ぼくは浮かんで行く、残骸のように。より弱いものを踏み付ける素晴らしさにおいて、この世で勝るものはない。オッコンはいつも踏みつけられている。しかし足を置いたところで、何も得ることはできない。せいぜいスタートラインに整列する権利を得るくらいだ。矮小七センチ台に何を言われてもぼくの魂は傷つかないが、どうして七センチを叩くためにここまでしなくてはならない? 饐えた臭いを固めて作る言葉で叩く。恥恥恥恥……
 「グランド・ジャット島の日曜日の午後」? 「神童ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」?
 ピアノがどうかしたって? 青臭さ全面の熟れる前のバナナを齧って欣喜雀躍、ちっぽけなスズメなんて撃たれちまえ。キョエーキョエーキョエーキョエー……縫い目だらけのちぐはぐをせいぜい楽しめや、糸も針もぼくの一部を使えばいい。膜でもやろうか(生物は膜でできているといっても過言でない)、管をやろうか、硬い骨格をやろうか。ぼくの存在を全方位から標識し、罠は作動する。脳内に設置されている溶解液のタンクが破裂し、内容物が拡がって行く、ぴしゃあ、ぐしゃあ。ひぐひぐ。毛布や色々の布を頭から被っても、ぼくの深奥で行われる激情の変動にはなんの慰めにもならない。蒸発していく。焦げ跡でも残れば御の字。ああ、キョエーよ、ぼくの中にはいないらしいな、自らの培養器だなんてどうやっても見えない、ぼくにもしっかり仕掛けられてはいるらしいが、肝心の中身がいない。キョエーがいたならは肉体を全て捧げる対価を支払うから、無限のあらゆるものが希釈された抽象世界に旅出させておくれ。「文句を言う」という行動をやめにしようじゃないか、先送り……宿題といってやろうか、あいつもこいつも大統領でさえ宿題嫌いの世で叫ぶ勇気を讃えておくれ。やめにしよう、やめにしよう。進歩の為に時間は流れるべきだろう、過去の偉人の生を無駄にするのは「失礼」だ。ぼくは髪をくしゃくしゃにかき回す。数本の抜け毛がゆったりゆたやの調子で落ちた。ため息、知っているとも、取り憑いている矛盾に、かっこで囲まれたかっこ(「……『……』……」)なんだか蒸し暑い、服の袖を伸ばして額を拭く、汗が繊維に移る。無理やり寝かしつける、眠れない。ぼくも浮き世も、もう溺れそうだ。水、水、ああ――

   6  con bravura
 第二幕でも同じようにキョエーが登場した。土色、砂場で転んで起き上がった後の、何処からともなく混入した砂つぶのじゃりじゃりとした、食べ物でないせいで余計に気持ち悪くなってしまう感触がぼくの口いっぱいに広がって行く。キョエーはまた人形たちを喰らっていっている。周りを見ると、集中力がすっかり切れてしまって空気がだらだらに水平に広がっていた。けれどぼくは、さっきよりもずっと引き込まれた。キョエーの五本指一つ一つを同時に完全に見て、全てを理解しているみたいだった。キョエーが気まぐれに人形たちを喰べ終わって幕が降りる。
サングラスの劇団員の人が額の裏から出てきてお辞儀をした。キョエーの手袋をしていた。先生が拍手をしたので、みんな真似して手を叩く。
ぼくはまた舞台の方に近づいていった。
「キョエーをよく見せてくれませんか」
 吐く息吸う息ぎっとんぎっとん上下する。緊張しているんだろうか、失敗してはいけない、が先走ってくらくらしそうだ。
「いっ」
 劇団員の人は、キョエーは、いきなりぼくの腕を掴んだ。掴む手には徐々に力がかけられていく。ぼくの腕は予想外の負荷がかかってしまって混乱している。待っておくれよ、ぼくだって何がなんだかよくわかっていないんだから……
「どうして、離してくださいよ」
「痛いのかい」
 素敵に言えばソーダ水の声、悪く言えば冷蔵庫の氷の声だった。サングラスのせいで、もっと太い声だと思っていたので少しびっくりしてしまう。それとも、確認や試験のために、できる限り邪魔なものをなくした結果なんだろうか。
 まとわりつく茶色とぼくの薄橙の境界が混じり合ってしまいそうだ、もしそうならぼく寄りのキョエーになるのか、キョエー寄りのぼくになるのか?
 そりゃそうじゃないですか、誰だって掴まれたら痛いですよ、と言うと劇団員の人は笑って、付いてくると良い、と短く言った。

   7  con melancolia
 ぼくは、ぼく自身が「この程度のこと」で処理能力を一杯にしておセンチになっていることが気にくわない。何しろ外を我が物顔で堂々闊歩する(ことを演じている)連中は、一旦降下を始めると戻ってこれないと言うのを、重力に逆らわないからだ従うからだと思っている、が、実際両膝が肩車してくれる重量をすっかり忘れてしまっている。しかし、ぼくはこのように「この程度」の反駁を用意してやることしかできない。さらさらと砂の流れのように滑らかな発音をしたい。
 オッコンは相も変わらず辛気臭い気ぶっせいな体内で存在している。ぼくはこの喫茶店じゅう全てをぶっ壊すのを頭の内でやってみた、なんの慰めにもならなかった。窓際に並ぶテーブルと椅子、泥がこびりつくカウンター、その後ろから窺う大量のガラスや陶器の入った食器棚、店中央を大きく占めるなにかの台(一部雑誌入れに使っている)には観葉植物が無秩序に生えている。店の壁側に張り付くテーブルと椅子、隅に押しやられた古いピアノ……古時計、黒電話、ピンク色のレジスター、天井の緑や山吹色。
 うるさい鈴の音がしたためそちらを向くと、あまりの勢いの良さに目が膨らんだ様な気がした、男が一人、立っていた。窓際に座る。どうしてどうもこうも窓際に座るのだろう、外に出たいという気持ちと同時に背負う確率との間の子なんだろうか。そして、ここまで素っ気ない男というのも珍しいだろう、軽蔑されないくらいのしかし圧倒しない服飾の加減、柔らかそうな物腰、無造作な髪型のようだが、どこかしら調和のとれている、中道を敷き詰めた男、どんな声をしているんだろう。
「ご注文は、お決まりで」
「ピアノはありますか」
 ぼくは壁に立て掛けられ、黒色が禿げ上がって原料を露出しているピアノを指差す。そういえば何も音楽をかけていなかった。流行歌ではなく、評価が固まっている古典的音楽を。
「調律なんてめちゃくちゃですよ、騒音の母親にしかなれないんだな」
 男は少し笑う、口が自然と上下に開き、けもののような位置に生えた八重歯が見えた。
「調律なんてどうでもいいんです、たいがいは個性の範囲ですよ」「それとも、あなたなら『なあに、一九三九年でラの音が決まるまで、各自全くの自由だったんですから、モーツァルトまで直さなくちゃいけなくなる』と言うんでしょうか」
 こちらを覗き込んでくるような目を向けてきたので、すっと猫背が起き上がる。目玉は探り、ぼくの表面を走っていく。ぼくはこの男にむっとした、髪が油でぎとぎとになっているわけでもなく、身体から体臭を上回る悪臭がするわけでもないが。
 男はゆっくり立ち上がりピアノの前に座ると、こちらも向かずに話し始めた。夜の窓に表情が写るように、笑っているかそうでないかくらいには区別がつく。
「彼女を追ってこの街にやって来たんですけれど、もう三年になりましたね。祖国は不安定で帰るのが難しいんですよ」
 それはなんとも能動的で、と言いたくなった。が、そう言ってなんになる? 難しい、と表現したことが、能率的に意味が込められており、なんとも理解しやすい。
「あなたは何も分かっていない。あなたの好きなレコードは誰の演奏が録音されていたか知っていますか」
 独り言のようであったので、喫茶店がここまで静寂でないと分からなかったであろう。
「……いや知りませんね」「恥ずかしながら」
 は・ず・か・し・な・が・ら、気付かぬうちに息を込めて発音していた、しかしこれが精一杯だった。なるべく服飾を取り払ったつもりだった。
「いじわるな試験でした」「別に知らなくて良い。しかしあなたは分かっていない、音楽はどこにあるのかということに。収納可能で自由に飛び回る粒を取っ捕まえて板に貼り付けにすることでしか満足を得られない肉体になってしまっている、いや、違うな」「(あなたは、演奏者を知覚するのが、怖いのか)」
 男は目を見開き満月にして、口元に手を当てた。
「だったらどうだって言うんです」
「(市販の種には発芽率というのが書いてある……)」「街中で名前も知らない、どんな格好をして何をしにここに来たか、そのほかの断片、ぼくの場合なら彼女を追って来た、三年になる、とかを知っている、そして調律も気にかけないようなピアノの前に座って、駅や喫茶店のなかでね、弾くのが最も良い」
「……」
「対等だということです、ありのままということです、座席と舞台という段差に切断された面ではなくて、同じ平坦な連続的な面ということです」
そして男は続けて「あなたのキョエーは何センチで?」
 早く終わってくれないだろうか、あちこちの壁面(冷たい鉄製)が徐々に縮まって来てしまっていて、ぼくは満足に息も吸えない。
「ぼくには、キョエーはいないんですよ」
「あなた……」
 今まで見下す目玉の色を何重にも重ねられている、知っている。けれど、男は本気の「心配」をしているようだった。
「そこまで生活に無様な敬意を払っているというのに、キョエーがいないだなんて防御反応を示すんですか、多量に自らのキョエーの存在を誇示しているではありませんか」
「じゃあどうすればいいか知っているんですか、提示によって啓蒙できるんですか」
「ありのままと言っているじゃないですか。あなたは豪華な会話をしていますけど、その中身まで考えたことがないんですか」
「いいや、あなたの方が豪華な会話をしているんだな」ぼくは男に言う。
「正直に言うと、ぼくも完全にぼくのキョエーを撲滅できていないのです」青菜に塩、男はげんなりする。
「あなたの目的は」
「懐中時計の中から……ガムを取り除いでいる……」「もっと早くにあなたに会うべきでした、もう遅すぎたようだ。今更ピアノの音がなんの助けになるでしょう」
 男は立ち上がり、ふらふらと出口に向かって行く。ぼくは背中を蹴飛ばす。男は飛ぶ、泡の声を出して崩れる。立ち上がるところにもう一度蹴りを入れて、店の外に出した。ぼくは「ざまあみろ」と言った。

   8  pietoso
 劇団員の人に連れられて、見えなくされていた額の上を裏から見せてもらった。人形たちにとっての地面と、人形たちにとっての空。
「ご覧、人形たちは全部機械で動かされていた。キョエーはぼくが動かしているが、人形たちは機械だ。止まった思考のプロセスで動いている」
 指さされた方を見ると、なるほど「井」の形の木枠がはまる穴ぼこが空いて、その周りを銀色が取り囲んでいる。
「人形たちは動かされていることを知らない。この劇をみる君たちも知らない。誰が糸を絡ませているのか、いや、そもそも糸すら知らない、そして」
「キョエーに食べられるんですね」
 劇団員の人は満足そうに笑っていた、尖った歯が二本ちらっと見えた。

   9  lamentoso
 朝は大抵気分が良い。夜寝る前がいちばん悪い。だから、ぼくは終日転げ落ちていると言っていい。なぜ朝は気分が良いかと言うと、その前のかなり長い時間全く他人とのしがらみから放牧されているからだ。パズルのピースも、無理やり押し込められるよりは破裂したがっている。街行く人々の存在が鬱陶しい、奴らは何が素晴らしくて何がそうでないかに関して全く無知である。とるにたらない些事に頭を悩ませ、本当に考えなくてはならないことは適当に突っ込んでいる。どいつも時間がなく、金がない。踏み付けるのをなりよりの快楽にしている。
 だからぼくが扉を開け暗い部屋を飛び出すときは相当いかれてしまった精神状態であることは間違いない。

   10  pietoso
「小学校ひと学年合わせても、興味を持ってくれるのは一人いればいいくらいなんだ」
 ぼくはへえ、と返事した。「なんでなんでしょう」
「燃えつきた地図を持って、知っている住宅街の燃えつきた地図を持って、いるからなんだろうね」
 よくわからなかったのでぼくは静かに考えを巡らせる。
「焚き火にくべたのはこいつさ」
 劇団員の人はだらりとしたキョエーの手袋をぶらぶら目の前で振った。
「しかも、こいつらが歩かせているんだ、ところで君、『ゾンビアリ』というのを知っているかな」

   11  agitato
 ぼくは病院の前に立っていた。病院なんて嫌いだ、病院内という場所では、老人は常に年齢の尊厳を破壊されていて、自身の何倍か若い人間に、さらに何倍か若い人間のための言葉で会話を強要される。生き過ぎのためのぎこちない創造、子供と同じだ。しかしたちが悪いのは、彼らがすでに社会に対し及ぼした影響が大きすぎることと、ぼくたちの中に保存されている面影が邪魔をすることだ。死にかけの老人と死にかけの子供、ぼくはこれに挟まれている。登り道は辛く、下り道は身体への負担が大きい、いつもどこかしら崩れている。それに病院の待合椅子、扉の取っ手、ベッド、あらゆるものから死の気配がする。
待合に座って待って、文庫本でも取り出そうとするとぼくの名が呼ばれたので、案内された診察室に乗り込む。
 向かい合う黒い帽子の椅子と、白衣を着た医者、机に広がった真っ白なカルテ、どうして医者は白衣を着るか、身の潔白を証明して訴訟を逃れるために違いない。
 どうされました、と聞いてくる。自動音声にでもすれば良い、ボタンを押すと、再生される。
「ぼくにキョエーがいるかを検査してほしいのです」
 医者は、ぼくの胸のあたりを何度か摩る。聴診器を当てる、ぼくは聴診器を当ててもらうのが好きだ、なぜだろう……
「うん、キョエーはいますよ、立派なやつです」
 ぼくにキョエーがいる?
「長さは、体長は」
「……二七.五センチメートル」
「どうして見逃していたんでしょう」
「なに、よくあることですよ、何かのストレスから逃れるためにキョエーが培養器よりも奥に潜る、そして、潜った先の胸の奥底の血液を啜り、大抵巨大になります」
 目の前にいる、少し物知りだからとせこせこ金をむしる老人のキョエーは一六.七センチしかない。老人はその後も、「しかしここまで大きく成長した例は見たことが……」などとつらつら時間を潰している。ぼくが二七センチ?
「なんだ、ぼくにはそんな立派なキョエーがいるのか、あっ、お腹が空いたな、定食屋でも行こう」

   12  campriccioso
「散歩は好きかい」
「……ええ、好きですよ」
「なら上等だ」
 ぼくは劇団員の人の真意はよくわからなかったけれど、とにかく褒められたから、まあ、嬉しかった。

   13  appassionato
 ぼくは石畳を踏みつけ大股で堂々闊歩する。定食屋の扉を掴んで力一杯に開ける。かなり大きな音がする。
「なんでもいいんだ、とにかく食わせてくれ」適当に席に着き足を組む。組んだ膝の上に腕を置き上に頭を添える。
 それでも従業員は不安そうだ。ぼくは財布を取り出して、銅貨、金貨、通貨をテーブルに投げつける。
「腹が減っているときはどんな生き物でも短気になるもんですよ」
 次々に湯気がふらふら揺れる皿に乗った料理が運ばれてくる、カキフライ・フレンチトースト・ビーフシチュー・ハヤシライス・色とりどりの果物ジュース・冷製パスタ・生卵・チキン料理……逃げる逃げる、料理にされたくらいじゃまだまだ逃げ足は強靭だぜ? 皿を傾け口を添えて、物理学者に想いを馳せて、踊り子の喉づかいで食事を重ねる。空いたお皿は回収され、次の皿がやってくる。とにかく食べなくてはならない。これから多量のエネルギーを消費する、一種の革命を、元の位置に戻ってくることなく完遂しなくてはならない。
 歯を大切に、顎の調子はどうだ、まだ食べなくてはならない。野菜だろうか肉だろうか、おめかしした食材に鉄を刺して一つに混ざり合う。拳銃を撫でるみたく左手を摩る。単純にして滑稽な事実は、食事をすれば空腹がなくなるということだ、これを発見した。こうして考えてみると、我々の基準となっている数々の行動は、我々が生み出した変換手段を非常に憎んでいるらしい。ははは、アプトレイア・スコレース、窓の外を往く愚か者やぼくに給仕している馬鹿者は時間も金もない、思索に耽る精神的余剰も存在しない、ははは……
 消化に気を使ってやらないと脾臓が文句を言う、だからゆったり待ってから支払いを済ませて定食屋を出発したぼくは、ぼくのアパートメントに向かう。内部環境を整えたならば、外部環境も同じように整えなければ、差異に酔っ払ってしまう。
「おお……!」
 思わず声を出してしまう閾値を超えさせてしまうような魅力がある。力強い石や煉瓦はぼくに幸福を与え、ぼくをなだめる。ぼくのアパートメント……なんと素晴らしい建築だろう! ぼくは建築に明るいわけではないが、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、バウハウスといった直線を満たす数式上に存在する建築様式に違いない。
「ははは、どうかな、ぼくはこのアパートメントに住んでいるんだな」
「ぼくもう疲れているのかなあ、こんなに荘厳、荘厳な、アパートメントに住んでいるんですよ」
「あはは、頭を地面に打ち付けてご覧よ、地球というのは柔らかいのだな、全然痛くないや」
 たくさんの曲線が踊っている重い扉を開ける。おお、電球の光の温かみ、ぼくをバターにしておくれ。鳴る廊下の床板はチャイコフスキーの交響曲、壁の作りは月光、はめられた焦げた木は確かに支えとなってぼくをいじらしくくすぐる。
 廊下の電話をとって「すみませんが、部屋の内装を請け負うような会社につないでいただけませんかね」ぼくが成熟するための設備が必要だということは何万年も前からずっと書き込まれている。横の住人には十分な金を浴びせてあげて、広げる為に必須の空白の調達も完遂した。
 迅速に改築は進む、ぜんまい仕掛けの機構も一旦始まれば止められない。上等なベッドも入れる、上等な棚、上等な家具たち! ハロー!

 ぼくは新品の豪勢なベッドで眠る。見た夢は宝石、不幸なことに美しく見える呪いのせいで切られ剥られた宝石の夢……

   14  tempetoso
 目覚めは良好、睡眠の調子にうまく合わせることができたようだ。呼吸が全体で同調している。最後の、人間としての行動は、誕生から続けている息を吸うことにしよう。
 胸あたりの皮膚が熱くなりひび割れて行く。ぼくの中からぼくたちが飛び出して行く、たくさんの蝶。モルフォ蝶の何倍も眩しい構造色をしている。ぼくのアパートメントの部屋の窓から外に飛んで行く。空気の波に乗る。そうやって飛んで行け、飛んで、憐れで縮こまった「ともだち」たちに卵を産み付けてあげよう。卵が信号となって解放を生むだろう。赤ん坊ですら、鶏ですら、左右非対称よりも左右対称を敬愛する。
 はやる気持ちはぼくたちの二枚の翅を動かす生化学的なエネルギーとなり、期待感はぼくたちを浮かび上がらせる原因となる。たくさんのぼくが見える。ぼくたちは広場など適当に人の集まる所に襲いかかってゆく。背中に留まり、産卵管を肩など露出部位に突き刺す。産み付ける産み付ける、堅実な固体の感覚がぼくに伝わってくる、産む、産む、出す、出す……輸卵管を通過していく卵一つ一つの形状に、非常に満足した気持ちを覚えた。
 ぼくの一部が注入された人々はぼくと同じように内側からの祝福を受け、汚いぶよぶよの皮を破って飛び出す。あちこちで雨降りの逆が起こり、雨と同様に空を埋め尽くして行く。変化は伝播して行く。あちこちで蝶の夢が具現化する。血が漏れる。がらがら、がらがらと。
 ぼくはキョエーと手と手を取り合って、ぼくたちの舞踏曲で、踊っている。脚を踏みならし、頭を打ち付け、腕を曲げて、爆発する舞踏への嗜好をめいいっぱいに表現する。ショパンのポロネーズ、軍隊? 英雄? 第五番かな……ぼくは陶酔する、あまりの気持ちよさに倒れる瞬間、ぼくは蝶で溢れる街を見た、心臓から心臓への、血潮の舞踏を見た。

 キョエー、これでいいんですね、全てを、全てを。ぼくの身に、救済のおこぼれをくださいな。

   15  pietoso
 小さな構成成分の命を持つ雲に、街中が包まれた。
 ある男の元に一匹の蝶が留まる、香水やシャンデリア、一等の触りごごちの布地、一生の快楽を追い求める人々の巣箱でもここまでの翅の豪華さはないだろう。
「泣いてしまいそうだ」
 男は消え入る声でつぶやいたが、人だった皮が散乱する中で誰に伝わるというのだろう、男は蝶を握りつぶした。蝶は唯のモスグリーンの汁になった。男は実際泣いていた。
 蝶が飛んでいる、蝶が、飛んでいる。