これが人生 -『充たされざる者』(カズオ・イシグロ) †
人生の不条理を恐るべき文芸力でぶん殴ってくる物理小説、それが『充たされざる者』だ。作者はご存じノーベル賞作家カズオ・イシグロ。900ページ越えの本編の内容をまとめると、主人公で語り手であるピアニスト、ライダーは演奏会のためにある街にやってきたが、全くピアノを弾けない。これだけ。弾きたいのに、次々やってくる些事が邪魔をする。時には街の人々が、時には家族が。これがえんえん続く。
カズオ・イシグロは淡々とイメージや内容を積み重ね、巨大な物語を丁寧に、精巧に建築していく印象があるが、この『充たされざる者』でもその能力はいかんなく発揮されている。翻訳のせいかどうかは分からないが、カズオ・イシグロがこの小説で用いている文体は、ぼくが読んできた中で一番完成している文体であると思う。読んでいて全くストレスや引っかかりがなく、なめらかに進んでいく。亡霊に操られているような打ちのめされた気分になってくる。自分の足で歩いているのか、歩かされているのか、よく分からなくなってくる。そしてたどり着く、印象的なラスト・シーン。『見えない都市』とどこな共通した息づかいを感じた。
この小説を読んでいるとき、また読んだ後、なにか小さな邪魔――電話が鳴るとか、料金の支払いの期限を思い出すとか――が入ったとき、この小説がすっと身体の中に入ってゆき、忘れられない小説になる。