一人の世界、世界の一人 ―― 伯白 †
淡いオレンジのカーテンの隙間から冬の柔らかい朝日が差し込んでくる。
僕は眠りと目覚めの挟間が好きじゃない。この僅かな時間は僕の心を蝕み、知りたくもない現実を叩き付けてくる。
日常が壊れたのはわずか数日前、命の脆さに気付かされ、世界の非情さを突き付けられ、自分の無力を呪うようになったのもその日。
そして、その日からずっと彼女には会っていない。
結局の所、僕は何も知らなかった。人生を知った振りをして、自分は特別だと思いあがっていた。所詮は、僕も無意味に日常を暮らす若者の一人に過ぎなかった。
僕が失った物は世界、世界が奪っていった物は一つの命。この矛盾が憎い。等価交換なんて嘘にすぎない、思わず唇をかみしめる。
僕の思考を遮るように目覚ましの機械音が鳴り響く。
今日のまどろみはもう終わり。やっと私は逃げ出せる・・・・・・。
自室から抜け出し、居間に降りる。無音の世界が僕を迎えてくれる。これほど無音が苦痛に感じる日々は今まではなかったのに・・・・・・。
無音をかき消すために、テレビを点ける。テレビに流れるのはいたって普通のニュース。当たり障りのない、選び抜かれた言葉が飛び交っている。面白くない、面白くない、面白くない。
何かから逃げるようにしてテレビを消す。この動作も何度繰り返しただろうか。数日前なら朝のテレビは大事な情報源だった。友人と会話を合わせるために毎日見ていた、それが楽しいかなんて関係ない。ただ、世界が僕にそれを要求しているような気がしていた、だから見続けていた、けど今は必要ない。
無音の支配する世界も嫌、音のある世界も嫌。どうすればいいのかが分からなくて頭が狂ってしまいそうだ。
この世界に僕の居場所は有るのだろうか・・・。
結局、僕は外に出る。車のエンジン音、店先のメロディ、人々の会話、人々の足音、どれもまだマシな音に聞こえる。全ての音が僕に向けられた物でないからだろう。そんな事を思いながら死人のような足取りで人々の間を通り抜けていく。
先ほどから聞き覚えのあるメロディが耳を擽っている。それはクリスマスの定番曲。初めて今がクリスマスの季節であることを思い出した。
ふと、記憶が甦る。繋がった手、恥ずかしげな笑顔、からかう様な口調。全ては記憶、全ては過去。人の記憶の良さが、今はただ憎い。
彼女と過ごした季節に冬は無い。しかし、きっと過ごせると信じていた。いや、疑いもしなかった。
気がつけば、いつもの公園に来ていた。
そこは公園とは名ばかりで、遊具もベンチも無いただの空き地だった。けど、二人ともここが好きだった。
月を見た、金星を見た、彼女を見た。そう、すべては輝いていた。疑いようもなく、ただ気高く、高貴に。
「どうして泣いているの?」
不意に後ろから声をかけられる。
「なぜ、そんなに悲しい涙を流すの?」
別の方向から違う声がかけられる。
声の主を探そうと後ろを向くと、そこには少年と少女が立っていた。
気付かないうちに涙を流していただけでなく、人も近付いてきていたらしい。
「どうして泣いているの?」
再び同じ質問が少女から投げかけられる。
素直に答えなくて良いと分かっていながらも、口は本当の事を話していた。
自分の無力さ、世界の非情さ、そしてさっきまでの事を。
「それで終わり?」
少女はただ、そう訪ねてきた。
「それが涙の原因?」
少年は不思議そうな表情を浮かべている。
「そんな事で君は涙を流していたの?」
僕は声を出さずにただ頷いた。
「ねぇ、また悲劇のヒーローが出てきたよ」
「そんな事言っちゃだめだよ。彼にも少しは事情はあるようだし。それにまだ完全に成り切ったわけじゃないし」
「確かにそうだけど、どうしようも無いよ」
「そうでもないよ。ただ気付かせて、もう一度歩ませるだけでも僕らの存在価値にはなるよ」
「分かった。取りあえずやるだけはやってみるよ」
僕を無視して二人は話していたが、ひと段落付くとこちらに二人とも向き直した。
二人は並んでこちらを見ている。
彼らは何度か深呼吸をすると、ゆっくりとその言葉を紡ぎ始めた。
「君の涙は偽物だよ」
「君に涙は偽善だよ」
二人は歌うように、ハーモニーをもって語り掛けてくる。
僕は、どうしてかただ黙ってその言葉を聞いていた。
「君は本当は泣いてはいない」
「本当の君は酔っている」
「舞台の主役に酔っている」
「それは悲しい悲劇の舞台」
その言葉にはどこか胸が痛むような気がした。
しかし、僕は聞き入る。
ただ、彼らが怒っている気がしたから。
「君は悲劇のヒーロー、ああ可哀想」
「君は喜劇のヒーロー、私にとっては」
「それは悲しい物語、愛しい人が消えてしまった」
「それは可笑しい物語、君はある日ヒーローになった」
「君は泣いた、三日三晩」
「君は喜んだ、三日三晩」
「そして知った、世界の辛さ」
「そして作った、悲劇の脚本」
「君の心は宙ぶらり、ただ彼女を思い涙にくれる」
「君の心は宙ぶらり、ただ自分の立場に酔いしれる」
二人の物語はどこか違う人物の話。
しかし、とても良く似た話に思えた。
「君の涙は誰が為」
「君の思いは何処へ行く」
不意に二人の言葉は止まった。
二人はただ、僕を見つめていた。
「もう、やめようよ。君の涙は本来彼女の為に在るべきだ」
少年は少し疲れた様子だが、しっかりと僕の目を見据えて話しかけてくる。
「君はヒーローじゃない。ただの一人にしか過ぎない」
少女は怒った目でじっと見つめてくる。
「本当はヒーローになりきったらどうしようもないけど、君には少しだけ彼女への思いが 残っていた」
「だから助けてあげる。もう一度世界に戻ろう」
「彼女の思いが残った世界へ」
二人の言葉は優しくて、僕を否定する言葉だったのに、嬉しくなった。
そして、今度ははっきりと泣いた。
「もう、大丈夫そうだね。君はもう一度生きられるよ。世界を」
「お墓、行ってあげてね。きっと彼女は待ってるから」
僕は泣きながら頷いた。
僕は彼女の悲劇を自分にとっての悲劇にしてしまっていた。
そして悲劇のヒーローを気取っていた。
二人と出会わなければ、今も僕は悲劇の台本を進めていただろう。
「もう、大丈夫だよ。悲劇の台本は捨てたから」
季節は冬、雪が咲く日、僕は彼女にそう呟いた。