エド・ウッド †
- 出演: ジョニー・デップ, マーティン・ランドー, パトリシア・アークエット, ビル・マーレー, サラ・ジェシカ・パーカー
- 監督: ティム・バートン
- 評者: 哉
- 日付: 2007-03-20
お薦め対象 †
限界を感じはじめている方へ。
あらすじ †
映画監督志望の青年エド・ウッドは、性転換手術をテーマにした映画に取り組もうとするが、出資してくれるプロデューサーがいない。彼は往年のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシを口説き、彼を出演させることを条件に、資金を集めようとする。
感想 †
何で読んだんだっけな?
現代の抱える問題、ニートとかそういう負の産物というか、それらが大きくなった一因に、メディアにおけるフィクションが幸せばかりを描くから、というのがあるらしいです。事実、わたしたちは自分の将来や目的、生活といったものについて、どうしてもテレビや漫画といった視覚的に捕らえやすい作品に、影響を受けやすい傾向にあるように思います。
例えば、キャプテン翼が流行すれば、小中高生男子はサッカー部に集まりますし、スラムダンクが始まればバスケ部員が増えるといった具合です。
恋は絶対に成就するし、努力は必ず報われる。解り合えないなんてないし、いつもハッピーエンド。
それらと、リアルの自分とを対比させて考えてしまう。そして、そのギャップに耐えられず、結果として心が苛まれてしまう。
バッチョがこんな名言を残しています。
「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない」
つまり、わたしたちは得ることよりも、失うことに固執するみたいです。
テレビゲームが悪いなんていう偏見はもっていませんが、少なくとも、あれらで物質的に失うことはほとんどありません。それに、ゲームにはセーブという概念とリセットという手段があります。まさに、自分の思い通りにならなかったら、やり直すことができる世界。とっても便利です。
と、まあわたしのレヴューは前置きが長くて申し訳ないのですが、何が言いたいのかというと、
「才能がない人間のする努力に、意味はあるのか」
という非常にシビアかつ口に出したくない言葉なわけです。
本作「エド・ウッド」を観ていただければわかりますし、インターネットでエド・ウッドを検索していただければ、すぐに彼の人となりや功績(というか恥?)がでてきます。
彼はダメな人間です。才能なんてこれっぽちもなくて、ただ映画好きが高じて映画監督になり、自ら脚本を書き出演やプロデューサまでこなそうとするけれど、そのどれもが空回りするタイプ。ただ、それなら別の道を模索すればいいのに、彼は自分の才能がないことに気づかずに最低な映画を撮り続ける。
夢が叶わない=挫折とはならずに、とりあえず映画を撮るために東奔西走します。
いや、彼の中で夢と映画が一致しているかどうかが怪しいです。エド・ウッドの人生において、映画を撮ること以上に大切なことはなく、その出来の良し悪しは関係ありません。客観的な視点で物事を把握しきれておらず、それならば、周りの人間が彼の暴走を止めなければいけないのに、誰もがエド・ウッドの指示に従って動きます。
何故か?彼が監督だからです。
現実は小説よりも奇なり。
彼は、誰かのために映画を作るのではなく、自分がそれを作る過程を楽しんでいるように感じました。だから、金銭でどれほど苦労しようとも、出演を断わられようとも、決して映画を作ることを諦めないうえに、それがどんなにクオリティが低かろうと、作ったことに満足してしまう。
これを観ていると、なんだかヘコんでしまいます。まるで自分自身のことを言われているみたい。結局、自分の限界を決めてしまっていているのは自分で、下手くそでもいいからやってみればいいのにと。
どっちがいいのかはわかりませんが、失敗が報われるときが来るかもしれない、ことがあるかもしれないということです。止めるのは簡単だし、やらないということで、本当はできるという可能性を守ることもできるけれど、笑われてもやりたいようにやりゃあいいじゃん、と問いかけてくる映画であるような気がしました。