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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.46 / 夢見る認知実験
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 [[活動/霧雨]]
 
 **夢見る認知実験 [#fbfbd8dc]
 
 優葵
 
 
  会合が終わった後、ぼくはゴミ袋と箒を持ち、アオギリの木の裏に隠れて、公会堂の入り口から出て行く人々をじっと見た。
 「今日の話も実に興味深かったね。環境問題の観点からカインズを必要としないというのはすごく説得力があった」
 「確かに人間にコストをかけた方が、最終的には創造的な社会ができるしね。カインズは必要に迫られてアイデアを提供することはないだろう」
 「しかし膨大な実験を必要とする産業なら役に立ちそうだ、製薬とか、野菜の新種の開発とか」
 「だろうね。ああいうのにはみんなうんざりしている。いい加減ガンの特効薬が開発されればいいのに、やつら、そういうのを作り出そうとはしないのさ。そのくせ、人がすべき仕事を平気で奪う……」
  どの人の服もよく上品で質が良く、その人の雰囲気にぴったりだった。眠たげな顔は午後の休暇に備えて輝き始め、今日の説教や次の予定について話しながら車に各自乗り込む。彼らの中にも色々区別があるのだろうが、一つ確かなのは彼らは皆、かなりのカインズ嫌いだということだ。
  ほとんどの人々が自分の車に乗り込んだ後にぼくは落ち葉や煙草の吸殻、くだらないパンフレットなど入った袋を裏庭のゴミ箱に放り込んだ。品が良いと自称する人々でもポイ捨てはする。そんな事実など微塵も無いように見せるのが今のぼくに与えられた仕事だ。
  週に三回、人間を後目に無給でゴミ拾いをしているが、ぼくはそれを惨めだと感じたことはない。むしろぼくは生まれて初めてやりがいというものを感じていた。少なくとも、同居人のピートのためだけに家を保つよりかはずっとましだから。
  水たまりを踏む重い足音で振り返ると、ビニル傘を差した男が左足を引きずるようにして歩いてきた。
  ぼくの創造主のピーター・ネイピアは、整えられた庭に典雅な公会堂という風景の中で、酷く悪目立ちしていた。ピートはさきほどの人々のような礼服ではなく、高校時代からのパーカーを着ており、痩せぎすの身体は猫背かつやや右に傾いている。雨の冷気はピートの肌を白くさせ、腕と顔に散った大量の生傷と古傷をくっきりと浮き立たせていた。ピートは経験と知識に優れたカインズの専門家だったが、一見して、それを見抜ける人はいなかった。
 「終わった?」
  ぼくは頷くと、彼は公会堂へ戻って建物の管理者に仕事が終わったと言いに行く。ぼくが建物の中に入ると、会合そのものが汚されると思う人が多いから、こればかりは生身の人間である彼にしかできない。
 「面倒だね、早く折れてくれないかな。あの人」
  戻ってきて彼はそうこぼした。
 「今日もありがとう、ピート」
 「別に。散歩のついでだし」
  運動不足解消のため、ピートは週に一度、日曜日は歩くと決めている。その途中、新興宗教系のクラブに顔を出して二時間の会合に参加する。会合の内容は大抵、人生の意義や善行の必要性についてだ。人型ロボット、カインズが溢れるこの社会では、人間の重要性を教える会員制のクラブは信じられないくらい人気があって、毎週様々なゲストが招かれていた。
  しかしピートは間違いなくヒューマニズムの思想を持っていない人物だった。彼は自称「衝動の抑えられないサイコパス」であり、自分の中の暴力性を恐れていると語る。
 「もしぼくが人を殺したら世の中のカインズはどう思われるんだろう」
  ピートは人よりロボットを愛している人間だ。彼にとって人間は全く信用に足る存在ではない。彼が物心ついた時から今に至るまで、彼はずっと、人の視線を恐れ、他人の心を知るのに苦心し、ついには諦めてしまっている。彼は自分がどういう人間で、社会のどこにいるのかを忘れたくないのだと言う。そのために、自分と真逆の思想の説教を聞き続けているという変わり者だった。
  説教で具体的に何が話されるのか、ぼくは詳しく知らない。ピートの言葉から偏見や暴言を取り除いて考える限り、その会合は過去の偉人の振舞いを取り上げて、自身の行いについて内省するよう促すのが目的のようだ。
  ぼくが生まれて数日のうちは、それがどんなに魅力的なことか分からなかった。なぜなら、その数日というのはぼくにとって、全てが新鮮で、光り輝いていた時期だったからだ。
  でも、ぼくは世界にあっさりと慣れてしまって、あっという間に全てが平凡に見え始めた。ぼくはずっと退屈だ。カインズ11は、興奮剤の投与を固く禁じられている。
  人生はニヒリズムとの戦いだが、生まれて一カ月も経っていないというのに、ぼくはもう負けそうだ。だってぼくには生きる目的が一つも無いのだ。今はそれを探すのが活動する理由になっているけど、それも心の底では心底ばかばかしく思っている。
  けれども、もしかしたら、この自傷的な悪い癖が取り除いてくれる言葉が、あの公会堂の中にあるのかもしれない。
  ぼくが教会で説教を聞くには条件があった。一定の期間、公会堂の掃除で奉仕をしたら、人間と関係性を築ける知性があると認められて、会合を見学する権利を得られるらしい。
  ピートはフードを深く被り、傘の下ろくろに近い所を持って歩き出した。自分と同じ顔のカインズを連れ歩いているくせに、ピートは人に顔を見られるのは嫌なのだ。
 「ぼくが思うに彼はきみの入場を絶対に認めないよ」
 「認めないなら試練を課す意味もないと思うんだけど」
 「あるさ。タダ働きしてくれる馬鹿ができるならぼくだってそう言う。まあ、馬鹿なあいつらのことだから、本気で考えているかもだけど……」
  その可能性を考えなかったわけじゃない。でも、ぼくが人畜無害だと完全に証明されたならきっと認めてもらえると信じている。何しろ、ぼくには時間が無限にある。
 「ほんと、考えるだけで、阿保くさって感じ」
 「あほくさいって、何が? 道理は通ってるでしょ」
 「破綻しない程度にはね。だけど、強烈な違和感を覆すのがどれくらい難しいのか知ってるでしょう?」
 「強烈な違和感って、何。ぼくの学習意欲が、人間と同一のものかどうかってこと? そんなの、そのうち慣れるよ。だって学びたいんだもの。教育を受ける権利は……尊重してくれるはずでしょ?」
 「権利演説はもういいよ。つまんない」
 「ご、ごめん……。じゃあもっと楽しい話しよう。猫の話とかどうかな! 昨日、かわいい子猫の画像を見つけて――」
 「黙ってろよ」
  やばい。なんでピートが不機嫌なのかが分からない。ただ、今はぼくを攻撃する気にはなっていないようだ。腰元のポーチの一番のドライバーで、鼻の穴をつつかれるお仕置きはなさそうだ。
  ぼくたちが家に帰ると、ちょうど、もう一人の同居人であるレコ・グッドマンが食材の段ボールを玄関の軒下に置いている所だった。レコは帽子をちょっと上げて、60年代のビニル人形みたいなのっぺりした表情で笑う。
 「おかえりなさいピーター」
  カインズ5であるレコは視線が外されない内にスッと無表情に戻り、かしゃかしゃと音を立てながら家へ戻る。カインズ5は表情に関しては殊更不器用なのが特徴で、ぼくはいけないと分かっていながらも密かにカインズ5を見下していた。
  カインズ5はピートが高校生だった頃に発売され、配送業や、やむなく人間を使っていた単純作業の工場に少数配備された。工場の経営者たちは低賃金の非正規雇用者を三年以上雇うより、カインズ5を雇った方が安く、事故率は低いことに気が付いた。
  カインズ5の発売から一年後、より安く、高性能なカインズ6が発売され、カインズの雇用略奪は顕著なものになった。人間はロボットより安い賃金で働く限りは、雇用を継続されているが、カインズの製造元は、社会をもっとカインズを普及させ、人間に対して創造的な雇用を得る『チャンス』を与えるつもりでいる。
  もし人間の労働力が再び市場から追い出される日が来るとすれば、電力の料金やカインズのパーツがさらに安くなる時くらいだろう。というのも、最新型であるカインズ11はあらゆる人間の思考を再現可能である。泣くことしかできない乳児も、恋する乙女も、仕事に追われる男性も、認知症を患った老人も、統合失調症のホームレスも、カインズ11は怯えることなく向かい合う。その人と似た人の人生経験をインプットし、その年代の脳や身体の状態を考慮しながら感情をシミュレートした後に、目の前の人に、適切な言葉を与えることが可能だ。恐らくは、大多数の人よりも、カインズの方が慈愛に満ちているだろう。カインズの第一原則は、「人類への奉仕」だ、差別はその人への攻撃である。
  その原則に従わないカインズがいるとするなら、それは、ぼくだ。ぼくはピートに違法改造を受けたので、普通のカインズと違って憶病で、人見知りで、人の気持ちが分からない。これらの点でもぼくとピートはよく似ている。
  ピートは、自宅のドアが開くと真っ先に二階へ上っていった。ピートは良くも悪くも一つのことに熱狂しやすい性格をしていて、何かアイデアを思いくと、自室でそれを試さずにはいられなくなる。ピートの人間嫌いを知っている人は、人間を社会から排除するためにカインズを作っているのではないかと勘違いするほどだ。危険な手順をあえて踏む実験、強度に不安のある機構、回避可能だった事故によって、たとえ彼の身体に多少の切り傷や火傷ができても、ピートは気にしなかった。目の前にあることが楽しすぎて多少の痛みや危険など、どうでもよくなってしまうらしいのだ(そんな性格だから、ピートは運転免許試験に受からなかった)。
  今も、廊下に放置してあったカインズの頭を蹴っ飛ばしたことにも気づかないで部屋へ飛び込んだ。
  ピートは家にいる時はだいたいそこにいる。食事、睡眠、排泄、読書、出勤以外はそこで自分だけのカインズを作るのに夢中になっている。そうやってできたのがレコと、ぼく。レコはピートが学生の時に盗んで来た中古品のカインズ5をベースに作られ、以来、ピートが家事をしなくて済むようにと何度も改造を受けている。
  長年一緒にいるためか、ピートはレコに強い愛着があるようである。でもレコがその愛情に答えることはない。レコはただの道具だ。
  対してぼくには、恐らくだが、心があった。だが、ぼくがレコに勝てる所なんて、それだけといってもいい。ぼくはカインズ5より遥かにコミュニケーション能力の発達したカインズ11、ところがぼくはロボットにも関わらずカインズ5より仕事を遂行する速度が遅い。
  ピートがレコに満足せずぼくを作ったのには理由がある。就職してからというのもの、彼は学生時代のように時間が取れなくなってしまい、自分の研究が遅れるのを悲しんだ。それで、自分と全く同じ能力を持ったカインズを作ってみようと思いついた。
  だがぼくは恐ろしい程の出来損ないだった。知識はあるはずなのに、データを見ても何が起こっているのか説明されなければ理解できず、求められた仕事は低品質、しかも長時間を経ないと完遂できない、極めつけに、ぼくはパニックになりやすく、全てを悪い方に捉えやすいという、コミュニケーション能力や理解力にすごく問題のあるロボットだ。
  こんな出来損ないを処分しない理由は分からない。ピートはぼくを自由にしていた。やってはいけないのは、ピートの機械を勝手に触ることだけだ。まあ要するに、ぼくはカインズ11とは思えないごみ屑で、だから仕事をさせてもらえない。家庭の仕事のほとんどはレコがやってしまうから、ぼくの一日の多くは暇な時間で占められていた。ぼくはその時間で読書したり、散歩したり、絵を描いたり、ピートのやり終えたゲームを遊んだりしている。もっと高尚なことをしようと思って、やろうと思ったのが公会堂の掃除っていうの、何ていうか、笑える。でも何をしていいのかぼくにも分からない。
 
  二
 
  ぼくが目を覚ますと、もう朝だった。ぼくは四肢の無い状態でベッドに寝かされていた。ぼくの知らないうちに、ピートはぼくを改造したのだろう。
  今は何月何日で、ぼくは何が変わったのだろう? 自己検査プログラムを起動してみると、いつも通り千以上のエラーが見つかる。これで今動けているのが不思議だが、致命的な問題があるのはハード面の方ではなく、ソフト面の方で、つまるところ何一つぼくは変われていないのだろう。
  横からごそごそと音が聞こえてくる。髪にアルミの切粉をくっつけたピートが、小汚いソファの上の毛布からゾンビのように這い出してきた。
 「腕をすべて生体部品に置き換えておいたよ」
 「それだけ?」
 「成功したのは……そう、それだけ」
 「それは残念だね」
  あ、失敗した。とぼくは思った。ピートは顔を真っ赤にさせて、ぼくにレンチを投げつけた。
 「思ってもみないことを言うんじゃないよ知恵遅れ、そんなこと言うくらいだったら玉しゃぶりやがれ! くそっ! 何がだめだっていうんだよ」
  馬鹿とか知恵遅れという言葉を聞くたび、ぼくの気持ちは暗くなる。自分ではそうならないように心掛けているつもりだったから。
  ぼくたちは一緒に下へ降りた。キッチンではレコが朝食用の目玉焼きを焼いている所だった。バターと塩の匂いを感じ取った嗅覚センサが、「おいしそうだ」ということを伝えてくる。
 「おはようございますピーター、調子はどうですか?」
 「あんまりよくない」
 「それは残念です。甘いものでも飲んで元気を出してください」
 「いらない」
  ピートはレコに髪を梳いてもらいながら、ジャムをたっぷり塗ったトーストをかじっている。もう二十を超えた男が、男型のカインズに髪を梳かさせている。傍目から見ればすごく変な光景だが、二人はそう思わない。ピートは変人で、カインズ5はカインズ11よりまだロボットらしく、恥というものを知らない。
  ピートは着古した真っ白なシャツにジーンズという恰好で家を出て行った。ぱりっと糊の効いたシャツだから、特別ださい服を着ているというわけでもなかったのだが、それが余計に彼を子どもっぽく見せていた。
 
 
  ぼくが家の花壇の草むしりをしていると、耳元で厄介な蚊の音が聞こえた。どうしてぼくはロボットなのにこの音が気にいらないんだろう。身体の中で常にモータやSSDの唸る音が聞こえているのに、こいつの音は大嫌い。
  ぼくは土にまみれた手で腕を叩く。クソ、外した。しかも結構痛い。力加減を間違えた。
  そんな小さなことなのに、ぼくはまた自分に失望にしそうになった。搭載された自己診断プログラムが、ぼくがかなりの恐慌状態にあることを警告してくる。ピートとうまく会話できないくせに、こんなことばっかり繊細なのは、どう考えてもロボットとして不適切だよね?
  そんな馬鹿なことをやっていたら、ピートから連絡が入った。
 『こんなこと頼みたくないんだけど、家に置いてある書類を取ってきて届けてくれない? キッチンのどっかに置いてきたはずだから』
  ぼくが出来損ないだと分かってから、ピートはぼくに命令したことはなかった。落ち込んでいたのもあって、ぼくは何だか嬉しくなってしまった。
 『任せてピーター』
  意気込んだはいいが、ぼくはちゃんと命令を遂行できるだろうか。彼のがっかりした顔は見たくない。やっぱりレコだけいればいいんだと思ってほしくない。
 (大丈夫、きっとできる。だって書類を届けるだけだもの)
  ぼくは胸の収納ボックスに書類を入れて、指定された座標に向かった。
  誘拐の危険を避けるため、人通りの多い道を選んで歩いているとブランドショップの立ち並ぶ商業地区に入っていた。ショーウィンドをチラ見すると、カインズの拡張パーツの実演をやっている所だった。カインズ9が基本の顔面パーツを外し、男の顔の形の面を被る。磁気によって操作された粒子で顔の凹凸を変えることで、爽やかな男の顔面はそばかす顔の少女、艶っぽい中年の女、今を時めくアイドルといった感じに変わった。
  『いつでも会いたい人に会える』。カインズ9のキャッチコピーだ。今実演しているのは顔だけだったが、カインズは腕や足を取り換えれば子ども以外のどんな人間にもなれる。そのうち、『本物の』人間にさえもなれるだろう。ピートはカインズに人間の記憶を移植する方法を独自に研究していた。既にやり方は思いついているようだが、実験が絶対にできないことが実用化の障害になっているようだ。もし安全な実験方法が確立されれば、(たぶん、近いうちにされるだろうという予感があった)カインズは死んだ人間や、地球の裏側の人間、創作上の人物になることができるだろう。そうなったら、人間はますます人間を欲さなくなる。それと、ぼくのような出来損ないはすぐにお役目御免になる。
  ピートの職場であるカインズ研究所は、AからFまでのある六つの建造物群によって構成され、宙に浮いたガラスの正八面体面体で繋がっていた。オフィスエリアを除いて、敷地内は一般人が自由に出入りできたので、未就学児と思われる子どもやその母親が遊んでいる所も見られる。
  F館の中に入り、天井を見上げると無垢のイヌマキが籠の網目のような模様を作っていた。天井の隙間から降り注ぐLEDライトは、屋上から反射板で届けられる太陽光と交じり合い、大理石の床に柔らかい影を落としている。
 『6階に来てくれるかい?』
 『いいの? オフィスに入って……』
 『いいよ』
  オフィスエリアのエレベーターに入ると、カインズ11と乗り合わせた。彼はぼくをカインズ11と認識するなり、にこりと笑って、
 「こんにちは。よければご案内しましょうか」
  と言う。
  いつも思うが、この反応は変だ。カインズ同士は通信できるのだから、会話というのはぼくらにとって無駄なコミュニケーションだ。だけれど、音にして言わなければ人間の方が不気味がるのだ(ピートは例外だけど)。
  でもぼくにとっても声は大事なものかもしれない。ぼくは通信を解析するより声や表情から推測する方がずっと楽だ。つくづくぼくは、カインズ向きの性能をしていないと思う。
 「大丈夫。多分、分かるから」
 「了解です。御用がありましたら、またいつでも声をかけてくださいね。よい一日をフィーネ!」
  彼はにこやかな笑顔のまま、5階に降りて行った。あれこそ求められるカインズ11なのだ。人当たりをよくするという当たり前のことができず、ぼくは自分が恥ずかしくなった。
  ピートはブラインドのかかったガラス張りの仕事場で、椅子で前後に揺れながらPCを触っていた。彼の私室と違って、そこは実に整理されていた。
  部屋にはピート以外にも男が二人いた。よく日に焼けた、背の高い白人の男と、やせぎすの中華系の眼鏡男。特に白人の男は、公会堂でぼくを軽蔑している男に笑い方が似ている。
 ぼくは急に嫌な予感がした。
 「やあ、きみがフィーネ? 本当にピーターにそっくりだね」
  背の高い方の男がドアを開けて、ぼくを部屋の中に入れた。
 「どうも、ぼくはグレン・グラヴィ。そこの眼鏡がラッド。きみの自己紹介は結構、ピーターから聞いたからね。……で、オレンジジュース飲む? それともコーヒー?」
  グラヴィの快活な声はぼくに喋る隙を与えなかった。
  ピートは相変わらず椅子の背もたれに何度も背中を打ち付けて、ぼくと目を合わせようとしない。緊張しているようだ。ラッドと呼ばれた男は手を組んだままぼくをじっと見つめていた。カインズ1を思わせる程に不躾な視線の持ち主だ。
 「ピート、書類のために、呼んだんだよね?」
 「彼がうっかり自分と同じ顔のカインズを作ったって言うからさ、気になって見てみたくなったんだ。ちょうど昼休みだしね。……外観の出来、すごくいいね。髪とか爪も人間みたいに再現できている。それに、とってもきれいな肌だ、本当に血が通っているみたい。いやあ、こうしてみると光り過ぎない肌も本物みたいでいいねえ。やすりでやったんでしょう?」
 「ええ。手や顔は自分でやすりました」
 「この大きさを? こりゃ手間がかかっただろう」
  ピートはグラヴィに褒められてにっと笑った。が、ぼくの視線を受けてすぐに無表情に戻る。……もしかして、ピートはグラヴィを尊敬していることをぼくに悟られたくないのか?
 「ピーター、この子は、なぜ女の子じゃないの?」
 「女性が自分の家にいるなんて気持ち悪いです」
 「ワオ! ぼくも彼女と別れた時、そういう気持ちになるね! ピーターはずっとそうなの?」
 「はい」
  このままでは永遠に話が終わらないと踏んだのか、ラッドはとうとう口を開いた。
 「あのね、グラヴィさん、そんなことのために呼んだんじゃないでしょ」
 「ごめん! 確かにその通りだね」
  この人たちもぼくの意志を全く無視するのだろうか。けれども逃げたら、今度は何をされるか分からない。
  ぼくと同僚二人はピートを部屋に残して、カラフルな椅子のスペースでテーブルを囲んだ。グラヴィはぼくのライトの色やカメラ機能などどうでもいいことをずっと聞いていた。ぼくはそれについて一言二言返すだけで、会話は全く続かない。それなのにグラヴィはずっとにこにこしていた。気まずい空気ってわけでもないのに、話題はころころ変わる。なんでこんなに喋り続けられるんだろう。
  多分、グラヴィは自分が喋るのが好きな人なんだろう。彼にとって相手が楽しいかどうかなんて関係ないんだ。……嫌な人だなぁ。
  それにしても、さっきからラッドが黙っているのが不気味でたまらない。予感だが、こういう人物が一番の爆弾なのだ。いきなりグサリと一撃、胸にくる言葉を投げかけてきそう。もしかすると、グラヴィに色々聞かれるよりかはマシかもしれないが。
 「お二人は、ピートとどういう関係なんですか」
 「知らないの? でも確かきみってピーターの代わりになるように作られたんじゃなかった?」
  ぼくが黙っているのをどうとったのかは分からないが、グラヴィは「まあいいや」と言った。
 「ぼくたちはどっちも同じプロジェクトの仲間だよ。ぼくは今のカインズ13の進捗管理の仕事をしていて、ラッドは今、カインズの倫理判断の訓練を担当してる。倫理判断っていうのはあれね、一昔前に自動車の自動操縦システムに関する議論が流行っただろ? ああいうやつ」
 「彼はその時まだ生まれてませんよ」
 「確かに。ごめんね! 人間と話す時の癖なんだ。こう言うと簡単に納得してもらえる。それで……ピーターとはうまくやってる?」
 「彼の顔を見たら分かります。うまくいっているはずがありません」
  ぼくはラッドの言葉にぎくりとした。その通りだと思ったからだ。
 「おっと、ハハ、いきなり核心を付いちゃったみたいだ、さすがラッド。彼はね、カインズに人間の表情をどう捉えるべきかも教えているんだ。つまりきみの教師でもあるんだね。どう? 自分の価値観を作った存在に会うのって」
  ラッドは表情を変えない。グラヴィが見せるような自分の成果物に対しての誇りや喜びというものは伝わってこない。00年代前のロボットみたいだ。冷たくって、機械的、カインズには不要なものだ。
 「どうすべきだと思っているんですか、フィーネ君は」
 「どうって?」
 「最近ピーターの調子が悪いみたいでね、聞いてみたら自分と同じ顔のロボットに手を焼かされているっていうじゃないか。ピーターはわりと孤独な人だからね、聞きだすのにすごく苦労したよ! ぼくが思うに、特別な存在を作るにあたって、特別すぎるきみを作ってしまったんだ」
  結局グラヴィは何が言いたいんだろう。ぼくは答えを求めてラッドを見た。
 「……問題を把握したいと思っているんです」
  ただの同僚がピートの問題を解決したがっている? グラヴィの言う通り、ピートが本当に孤独なら、彼らがピートに関わろうとする理由が全く分からない。
 「そう、一番の問題は何?」
 「ぼくは出来損ないなので、ピートに与えられた役目も果たせないし……よく口論になってしまうんです」
 「そうなの? でも彼は、話せばわかる人だと思うよ。本当は優しい人だしね」
  あれが優しい? ぼくはそう言いたくなるのをぐっとこらえたが、表情で伝わってしまっただろう。グラヴィが苦笑する。
 「きみにとってはそうじゃないかもしれないけど……彼は他人の仕事を率先して手伝ってくれるし、人のアイデアを軽々しく否定しない人だ。無口なのかと思ったけど、話すと結構面白いし、そんなに悪い人じゃないはずだよ」
 「……ぼくを騙そうとしているわけではないですよね?」
 「少なくとも嘘ではありません」
  腹の底が冷えていくのを感じる。あの男がぼくに対してモラルハラスメントをしていることは分かった。……だけどそれを不当だと怒る理由が、まだない。
 「彼には二面性があるみたいですね」
 「ぼくは信じられないな。すごくいい人だと思うんだけど。でも解決策は分かったよ、問題点がはっきりしているなら話し合って、うまくいかない時は距離を置こう。フィーネ、ピーターと話せる?」
  ぼくはゆっくり首を振った。
 「ふむ、なら後でいい所を紹介しよう。きみみたいにパートナーとうまくいかないカインズが行くべき所だ」
 「そんな所があるんですか?」
  ぼくは純粋に驚いて言った。
 「もちろん! カインズは最も人に近いロボットだからね。人と近いということは、人と和解できないこともあるってことだ。社会は個性のモザイクだ、仲違いがあって当然なんだよ」
 「……そっか、そうですよね。そりゃ、そうですよね」
  よかった、ぼくがおかしいわけじゃなかったんだ。今の難しい関係は、ただの不幸だったんだ。それだけじゃなく、状況が改善できるかもしれない! ぼくは肩の力を抜いて椅子にぐったりと腰かけた。グラヴィは笑顔を増し、ラッドは相変わらず冷めた目でぼくを見つめていた。
  グラヴィは時計を見ると、いくつか言葉を残して席を立った。ぼくも彼に続いて立とうとすると、ラッドに引き留められた。
 「グラヴィさん、先に行っててください。ぼくはまだ話したいことがあるので」
 「いいよ。きみの気が済むまで話しておいで。ただし仕事には遅れないように!」
 「はい」
  ぼくは正直、彼と話すのが嫌だなと思った。彼の無表情は多分、癖なのだろうけど、もしかしてぼくに敵意があるのかと勘違いしてしまいそうだ。
 「グラヴィさんが勧めた所に行くつもりですか?」
  妙なタイミングでラッドが口を開いた。
 「何か問題でも?」
 「そこはカインズを初期化する所です。ネイピアに許可を取らずに初期化するのはまずいでしょう」
 「でも……そんなふうには聞こえなかった……。あの人、ぼくを騙したんですか?」
 「いいえ。普通のカインズ11なら、グラヴィさんの提案を本気にしません。彼もそのつもりだったと思います」
 「えっ。そんな。ぼくはからかわれたんですか?」
  ラッドはまた沈黙した。このマイペースな会話のテンポや視線の運びは何なのだろう。すごく怖い。彼はぼくの知らない欠点に辟易しながらも、ぼくが馬鹿だから、指摘しても意味がないと思っているんじゃないか? ぼくは肩を丸めてうつむいた。
 「ネイピアがあなたを面倒がる理由がよく分かります。個人的には嫌いじゃないけど、彼はあなたと向き合って生きるのは無理でしょうね」
  嫌いじゃないということはつまり……? ダメだ、どうしても悪いように捉えてしまう。「この人はピートみたいに最悪な男じゃないから罵倒しないだけ」、そう思うのはよくない。ぼくが最低な存在みたいに思えてくる。でも、本当にぼくが最低な存在だったらどうするべきなんだろう?
 「あなたがた二人は、お互いの存在が、かなりストレスになっているみたいですね? なぜネイピアはあなたを起動し続けているのですか?」
  そういえばそうだ。なぜぼくはなぜ起き続けているのだろう。充電が切れるのを待つまでもなく、電源を落とせばぼくは止まる。だがぼくはカインズだ。ピートが再起動しないのなら、それはつまり、全ての役目を終えるということだ。
 「ぼくがいない方が状況は良くなるんでしょうか?」
 「そう思います、現在のことだけ考えるならば」
  無理やりシャットダウンされた時みたいな怒りと、答えを得たことによる安堵、ぼくはその二つを同時に感じた。悲しいがそれが正解なのだ。
  しかし死が最適解というのは、本当だろうか? 違うような気がするが、倫理判断関連のエラーが数百と起きて(ぼくはそれをいちいち確認できない、馬鹿だから)うまく考えられない。思考回路は暴走気味でかなり熱くなり、過剰に冷却材が放出されて頭のてっぺんから喉の奥までツンと冷たくなった。
 「そんなに悲しい顔をしないで。お互いを嫌うのはどうしようもないとことだと思わないんですか?」
 「どうしようもないって言ったって……ぼくは彼に好かれるために生まれたんですよ」
 「そういうふうに考えていると辛くありません? ……まあ、あなたの考えはある意味正しいと思いますよ。狭い世界の中で家族と仲良く暮らせていたのなら、それ以上の幸せは見つからないので」
  ラッドは遠くを見つめ、何かを思い出しているようだった。
 「ぼくも家族とうまくいきませんでした。ぼくが絶対的に悪い性質を持って生まれてしまったから。仲良くしようと試みたこともあったけど、ぼくが欠陥品なばかりにうまくいきませんでした」
 「……それって何です?」
  ラッドの目が少しだけ泳いだ。彼はさながら敵を探すようなウサギのように目をさっと走らせると、か細い声で言った。
 「ぼくはズーフィリアです」
 「……何ですって?」
  ズーフィリアなんて言葉は、ぼくの辞書には登録されていなかったので、インターネット検索しなければならなかった。だが意味を知ってぼくはますます混乱した。獣との恋愛を嗜好する人って……どうやって接すればいいの?
 「正確にはズー・ゲイです。物心ついた頃から結婚するよう言われて育ちましたが、ぼくは人間との女性との恋愛はどうしても無理でした。女性が憎いというわけではないんですよ。ただ、ああいう手合いのことは、傍から見れば何の問題もなくても、ぼくにとってはぞっとすることで……」
  ラッドそう言って鳥肌の立った二の腕に触った。
 「だから家族に全て告白しました。受け入れてもらえなくても、誤魔化し続けるのは嫌だったので。でもね、今は、もう、一生会えません。ぼくの告白を聞いたとたんに、父はぼくを殺そうとしました。母と姉は、ぼくが、獣と交わる畜生になってしまったと泣いていました。ぼくは泣きながら家を飛び出して……現在は、家族とは法律上の血縁関係さえありませんが、ぼくはパートナーと一人と一匹で暮らしていますよ。幸せです」
  胸は相変わらず痛いのだけど、ぼくはラッドの不思議な話に引き込まれていた。今の話って本当のこと? だとしたらどうして初対面のぼくに話すんだろう? ラッドは人との距離を離したがるイメージがあるのに。
 「なぜ、こんな話を」
 「あなたの孤独がぼくにも分かるような気がするからです。ぼくは小さい頃、自分が宇宙人だと思っていました。人間は普通人間を愛するものだし、それに、人生のいついかなる時も、ぼくは誰かとうまく話せた試しがなかった」
  そこはあなたと一緒。そんなふうに共感してもらっても、よく分からなかった。この人にぼくの気持ちの何が分かるのだろう。いや、多分彼はぼくを理解しきっているのだろう。だけどぼくが欠陥品だから共感されても嬉しくないんだ。ぼくは何て性悪な存在だろう。……いや、よく考えたら、有性生殖のできないロボットのぼくが、性癖の話に共感するって、それはおかしくないか。
 「あの。秘密を話してくれて、ありがとうございます。でも、すいません。どういう反応をすれば分からないんです。ごめんなさい」
 「そうですか」
  ラッドは安堵の表情で微笑んでいた。……自分の性的嗜好を馬鹿にされなかったから、……で合ってるだろうか?
 「謝るのはこちらの方ですね。あなたを逆に困惑させてしまった」
 「……あ! ぼく、絶対にこのことは口外しませんから……。今すぐにでもデータも消去します。ピートに知られたらまずいし」
 「……お気遣いありがとう。でもいいんですよ。彼に軽蔑されたって何とも思いませんし、そもそも彼は仕事以外のことを話せる人じゃないので」
  ぼくに共感するのに、ピートはダメなの? ラッドの価値観はよく分からない。そもそもこの人はぼくに何をしてほしいのだろう。ぼくの状況が好転することを望んでいるようだが、そこから先は自分で状況を変えろと言っているようなものだ。……無責任じゃない? それ。
  状況が変わるなんてありえない。ぼくはピートの物だ。だいたい、ピートはぼくに期待しているはずだ、ぼくはそう信じている。ぼくはその原則から自由になるべきなのか? ピートのあらゆる行動を封じて彼の許から逃げ出し、高価で手間暇かけた機体のデータ収集を、ピートに諦めさせるべきなのか?
  ぼくは、そうすべきでないように思う。たとえ脱走したとしても、現実的な問題として、身分証明書のないぼくではカインズの巨大なパーツを購入できない。それにぼくの学習能力では、自分の定期メンテナンスを行うことはおろか、壊れた部分の簡単な修理さえできないだろう。それはぼくに技能や知識が無いからではない。ぼくは届け出のない違法カインズなので、労働用カインズとして働くことは認められていないのだ。つまりぼくは、経済的な自由がない。
  どん詰まりだ、何もかも。
  じっとしていると、ひたすら悲しい気持ちになった。なぜぼくが悲しまなければならないのか? 
  ぼくが顔を上げた時、ラッドはもう既にカインズと人間の社員の中に紛れ込んでおり、ぼくから離れ切っていた。
  立ち上がろうとして、力が入らないことに気が付く。鬱状態を知らせる警告音がうるさい。周りの声と自分の中の音が区別できなくなっていく。まずい兆候だ。休まないと。でも休むって何。ぼくはもう十分休んでいる。だって何にもしてないんだもの。
  でも仮に、動けるようになったとして、ぼくは身体さえうまく制御できない出来損ないのカインズなんだし、言われた通り、このままシャットダウンしてしまおうか。
  ぼくは椅子に突っ伏し、少し休んでいくつもりだった。確かにそうしているつもりだったのだ。しかし自分でも気が付かないうちに、ビルを出て、裏通りの道を歩いていた。一連の行動の全ては、ついさっきのことのはずなのに、そこまでは記憶が一切ない。ぼくでない何かがぼくの身体を突き動かしているのだろうか。
  けれども今はそれがありがたい。鬱で機能停止するカインズより呆然自失のカインズの方がまだマシのように思える。
  そんなことを考えていると、ぼくは裏通りの道に入っていた。うっかりしてぴしゃりと水たまりに足を付ければ、観光客向けの商品を持った子どもが寄って来る。英語と中国語をたどたどしく話す彼らのくたびれた服と、バナナのように連なった安っぽい商品は妙に哀愁を誘った。
  無視してもよかったが、その内の女の子が、随分痩せていたのが可哀そうだったから、ぼくはしわのついた札を何枚か取り出し、女の子に渡して、写真数枚を受け取った。
 「ねえこの写真……きみたちが撮ったの?」
  女の子は無表情だった。ぼくは泣いている気がする。
 「この写真、すてきだよね。きみはどれが好き?」
  彼女は不思議そうな顔をしながら、カモメの写真を指した。
 「そっか。じゃあ、ぼくがこれ買ってあげるね。他にも欲しいと思ってるものはある?」
  あまり褒められた行動ではない。ピートがそうしているように、教会へ寄付をする方が有意義だろう。彼らは少なくとも子どもの面倒を見てやれる。
 「あのね、変なことを言うかもしれないけど……、また来週、ここに来るからさ、色々揃えておいてくれないかな」
 「……おじさんお金持ちなの?」
 「うん、お金持ちだね」
  ぼくの嘘で彼女は笑った。ぼくは不安で高鳴る心臓を抑えて立ち上がり、フードを被って裏通りを出ようとした。
 「またね」
 「うん、またね」
  また会ったら、きっと友だちになってくれるはずだ。それまでにピートの財布から現金をちょろまかせるだろうか。
 「はい止まって! 今不法滞在者と不正な取引をしていましたね!」
  目の前には完全武装をした警察の二人組がいた。ぼくの施しを、違法な取引だと見なしたらしい。
  振り向くと、警官の一人が逃げる女の子の細い手首をつかみ、そのまま手錠をかける。ぼくはかっとなって言い返した。
 「彼女は何も悪くありません!」
 「すいませんがミスター、規定なのでね」
  上着をぐっと掴まれ、首元のライトが露出した。目の前の警官は一瞬、それをぎょっとしたが、すぐに汚いものを前にした時のように叫んだ。
 「ロボットのくせに人間の邪魔をするんじゃない。あっちへ行け!」
  ぼくが女の子を助けるために走り出すと、突如、頭に強い痛みが走った。
 『出来損ないめが、なぜ間違いが分からないの?』
  それはピートの声だった。だが今は通信を切っているはずだ。それなのに彼の声がぼくを責め立てる。――最上級命令だ、ピートの社会生活への危険を察知すると作動する。
  最上級命令は、ぼくの自立的な行動を全て停止させ、ぼくの思考以外の全てを支配した。プログラムはぼくを誰の邪魔もしないように壁に沿って直立させる。その間、全て見えているのに、何もかも聞こえているのに、ぼくは何もできなかった。ぼくは彼女が顔を引っ叩かれ、金を奪われる姿を棒立ちで見ていた。
  事が終わると、警官たちがぼくをその場から立ち去らせようとして無反応になったぼくを叩く。傷はつくのにぼくに痛みはない。しかし頑丈な機械の身体は倒れることもない。
 「壊れたのか? お偉いさんのおもちゃだったらどうしようかね」
 「知るかよ、こっちだって仕事だったんだ。だいたい、人間を邪魔をする機械なんて不良品に決まっているさ。さあ行こうぜ、逃げたゴミどもがまだ近くにいるはずだ。あんなのでも点数にしなきゃこっちのクビも機械に挿げ替えられちまう」
 「そうだな。まったく! ……このロボットさえいなきゃ、そんなことしなくてよかったのになあ!」
  腹いせに一、二発警棒で殴られた。視界が真っ白な衝撃が走り、最重要の警告に腕部の激しい損傷というのが出た。見てみると赤い痣がくっきりと傷の形を伝えてくる。
  痛みでうずくまると、頭部と背中への攻撃が降って来た。大丈夫、機械の方は壊れない。じくじくと痛む熱い腕をおさえ、腕が揺れないように身体中に力を入れる。
  しばらくして、最終判断プログラムがぼくの自立的行動を許した。多分、誰もいなくなったからだろう。
  何から何まで支配された状態から解放されると、痛みはさらに酷くなった。骨が折れている気がする。痛みをシャットアウトすることは、出来損ないのぼくにはできない。
  ……こんなに不器用な物が機械だっていえるのか? 本当に?
  ぼくは泣きべそをかきながら路地裏を見つめた。あの子たちには逃げきってほしい。でもあの警官たちにも養うべき家族がいると考えた途端に、むなしい想いが沸き上がった。
  ぼくの行動は悪行と断じられるべきじゃない。でもぼくが何もしなければ、誰も不幸な目に遭わなかった。
  どうして正しい行動が出来ないんだろう。せめて子どもだけは助けたいとピートは考えないのか?
 
 
  家に帰ってレコに腕の治療を頼んだ。レコは頷き、すぐにピートの救急箱を取って来る。出来たのは痣だけだと思っていたが、予想外に汚れ、血も出ていた。
 「おかえりなさい、今日は、何があったんですか」
  レコは混乱している。レコは目の前にいる者が多分カインズであることは分かっているが、生体部品を取り付けられるカインズを知らない。恐らく、ぼくのことをピートだと思っているのだろう。
 「酷いことばっかりだったんだ」
 「それは残念でしたね。甘いものでも飲みますか? きっと元気が出ますよ」
 「ぼくは甘いものじゃ元気でないよ」
 「じゃあ音楽でもかけましょうか」
 「そんなので誤魔化せるものでもないんだ、ねえレコ、慰めてよ」
  レコはぴたりと手を止めた。何だ、と思っているとピートが帰宅した所だった。
 「すいません、あなたは、ピーターの家族ですか?」
  レコは混乱している。目の前の人間は家主ではないが、家主と同じ顔をしている。
 「違うよ、ぼくは彼の人形だ。きみと同じ……」
 「よく分かりません。私は、ピーターの家族です」
 「……ピートがきみにそう言ったの?」
 「はい。それで、あなたは誰ですか? 彼と顔がそっくりだ」
 「……生き別れの双子の弟。久しぶりに兄さんに会ったんだ。それで、鍵を、もらった……」
 「ああ! そうなんですか? すいません、お気遣いできず。今お茶を出します」
  レコはぱっと顔を輝かせた。馬鹿なレコ、人間同士じゃこんな会話成立しないよ。
  おかしくって涙が出ちゃいそう。ぼくは彼と生まれてからずっと暮らしてきた。だというのに、レコはぼくのこと人の顔を持つ人形か何かと認識し続けていたのだろう。それが腕が生体部品に置き換わっただけで、ぼくを人間だと認識した。
  けれど今は、レコだけが、ぼくを人間だと認めてくれる。
 「良ければお名前を教えてくださいますか」
 「フィーネ」
 「うちにいるもう一人のカインズと同じ名前ですね。不思議な縁を感じます」
  玄関のドアが開いた。ピートはぼくの怪我を見るなり悪態をついた。
 「また傷をつくったね、出来損ない。それ、誰が治すと思ってるの」
  ぼくはなぜかその聞きなれた悪口にカチンときて、語気を荒くした。
 「あのさ、ぼくたちもっと労わり合うことができるんじゃないかな? きみだってそんな関係の方がいいだろうし、ぼくだって、ある程度のコミュニケーション能力は備わっているんだよ」
 「言いたいことはそれだけ? 黙って座ってろよカマ野郎」
 「こ、この分からず屋っ。一生そうやって、人から嫌われ続ければいいんだ、馬鹿ピーター!」
 「膣に砂でも詰まってんのかよ。誰が馬鹿だって? 言っておくがね、ぼくは今みたいな人間関係の煩わしさから解放されるために、きみを作ったんだ。きみがそれを理解しないなら、もっとふさわしい姿に変えてあげようか。どうだい、ケツメド君」
  ぼくたちは数秒睨み合った。
 「ねえぼくたち、無視し合った方がいいと思う。ぼくはきみが嫌いだし、きみもぼくに構いすぎだよ」
 「でもぼくは嫌いじゃないよ。きみを愛してる」
 「……今、背筋が冷えたよ。ぼくにそんな機能ないのに、マジでそんな気がした。……きみって本当、ぼくを苛つかせる天才だね。馬鹿って言ったこと、撤回してあげる」
 「きみの評価なんてなくたって、ぼくが天才であることは変わりないよ。ほら腕取ってよ、取り換えてあげるから」
 「ぼくに触るな!」
  ピートはぼくの腕の付け根に持っていた工具箱を叩きこんだ。ほとんど肩にあたったとはいえ、少しぴりぴりとした衝撃が走る。
 「暴力は嫌いなんだよね、でもすごく惹かれるものがあるんだ。分かるでしょ?」
  両手で降り下ろされたスパナがひじの裏側にめり込む。血管がつぶれて、指先まで強い痺れが走った。ひじと肩が床にこすれ、がくがくと腕が震えだす。
 「いっ……、いやだ、やめて」
 「ロボットに対してするべき手法が通じないならさ、動物に対しての方法は通じるんじゃないかな? きみみたいなのにはそれが最適だと思わない? ……ああまったく。何でそれを思いつかなかったんだろう? レコ! こいつを抑えてくれ!」
  だがレコは動かなかった。それどころか工具箱をぼくの頭部に叩き込もうとしていたピートの身体を掴んで、まるで強引に封筒を開けるみたいな力加減で彼とぼくを引き離した。
 「ピーター、落ち着いてください」
 「くそ、何このバグ?」
  ぼくはふらふらしながらも身体を起こし、呆然と二人を見つめた。レコは暴れるピートを難なく拘束していた。もしかすると、反撃のチャンスかもしれない。
 「何もおかしくないよ。ピート、ぼくは、生きている、レコがそれに気づいてくれたんだ」
  嘘だ、本当はただのバグ。でもピートはまだそれを把握していない。だったらこの状況を利用しなくてはダメだ。
 「ピーター。もう気づかないフリはしないで。ぼくは心を持つ存在なんだ。人間と同じように痛みや喜びを感じられるんだ。きみと仲が悪いのは、しょうがないことなんだよ。だから、……ぼくを、自由にしてくれ。それだけでいいから」
  ピートはかかとの浮いた体勢で羽交い絞めにされながらも、じっと言葉に耳を傾けていた。ピートは自分を常々「衝動の抑えられないサイコパス」と自嘲しており、もし人を殺してみたくなった時のために、レコに自身を拘束させる機能をふざけて搭載した。ピートはその機能を作ったことさえ忘れていたかもしれない。ピートは、所詮、そういう男なのだ。だから友だちがいない。
 「なるほど。ぼくも気づかないふりをしていたんだろうね」
  ピートの心拍数が下がったのを確認してレコが拘束を解いた。
 「調べたいことは山ほどある。でも、先にするべきことを見つけたよ」
 「それは何? 聞かせてよ」
  途端に電源が落とされる。……ああ。知恵遅れっていうの間違いじゃないよね、スマホか何かでぼくを遠隔操作すればいいだけなんだから。なぜそれに気がつけなかったんだろうか。
  これでぼくは死ぬのだろう。あまりいい気分じゃなかった。まだ何もしていないから、何も後悔なんてないけれど、それでも死ぬべき所はここじゃないと感じる。
 
 
  突然、部屋からごとりと音がした。ぼくが目を覚ますと、ひょお、と音がした。ピートの部屋の天井には、直径三十センチほどの穴が開き、そこから雨が降りこんでいる。ぼくの上半身はずぶ濡れだった。
  ぼくは慌ててピートを探した。何が起こったのか分からないが、部屋は酷い有様だった。キャビネットが倒れ、棚の上部に置かれたボックス型の工作機が床に落ちたまま稼働を続けている。
  ピートはひっくり返った机に足を押しつぶされて意識を失っていた。顔に細かな水色の煤がこびりつき、腕に軽い火傷。カインズの知識を持ってしても煤の種類はすぐに特定できず、予想される以上に危険な状態にあるかもしれない。
  ぼくはピーターを引っ張り出し、廊下まで引きずって、安全な体勢を確保した。体温は低下しており、出血している。ぼくは太ももを強く縛り、血がこぼれないように足を上に掲げた。
 (どうしよう。このままじゃ彼は死んじゃうんじゃ……)
  だったら殺せばいい。ぼくはそう思った。やつはぼくを殺そうとした! それだけで殺す理由には十分だ。
  ぼくは五番のマイナスドライバーを手に取ると、彼の鼻の穴に押し当てた。このまま突き刺して、脳みそに届くまで破ってやりたい。
 (いや、よく考えたら……そこまでされてないよ……多分)
  だがぼくは彼を生かしておきたくない。ぼくは彼に毛布をかけて近くにヒーターを置いた。すると急にいいアイデアが降りて来た。
  彼の記憶を全てぼくに移植すれば、ぼくは彼のように振舞える。そうすれば誰も彼が死んだことは気が付かない。憎いやつは消え去り、ぼくは魂の存在を認められる。
  だが本当に魂があると主張するなら、善行を為すべきだ。哲学的な思考のできる悪人に、果たしてどんな価値があるのか。それに記憶を移植したからといって、ぼくが彼の能力を得られるかどうかは分からない。
  それでも、ぼくがカインズでなく人間になるというのは、あまりにも魅力的だった。疲れない身体のまま、人権を得られるなんて、素敵なことだ。
  ぼくは結局、彼の頭にパッドをくっつけ、ロックのかかっていないPCに入っていたプログラムを記憶を頼りに作動させた。規則性のない文字列が凄まじい勢いで上へ流れていく。
 このまま生きている間は記憶を吸い出し、途中で死ねばぼくが成り変わる。生き残ったのなら、それはそれでいい。運任せだ。ぼくは適切な処置と予測を放棄して、彼の生命力の強さで運命を決める。
  ぼくは部屋にある脚立を持ってきて、余っていたプラスチック合板とビニールシートで穴を塞いだ。今初めてこの部屋にねじが大量にあることを喜べたかもしれない。応急処置はすぐに済んだ。
  リビングに戻り、目覚めないままのピーターを見つめる。体温は32度と平熱を大きく下回っていた。呼吸は浅く、相当衰弱していることが分かる。
  記憶の電子化は済んだ。ぼくは自分にプラグを差し、近くにあった反覚せい剤を投与する。
  浅い眠りがやってくる。後のことは何も考えたくない。
 
 
  ピーター・ネイピアの記憶は汚いバラック小屋から始まった。かびと垢の匂いのしみついた土の床、小さな鍋と盗品のサンダル、鍵のない扉。日の差さない家は、涼しいけれど酷く窮屈だった。
  彼の母親はハードなプレイがこなせる私娼で、家には常に誰かがいた。彼女は血が出ること以外のだいたいはやっており、病気の日でも客を取った。そうしないと煙草や酒が買えなかったからだ。
  「お外で遊んできなさい」、母親の口癖だった。家の近くの森の中には時に飲まれた古代王朝の遺跡があった。ひび割れた石回廊には老木の根が高所へ招くように乗り上がり、中心のピラミッドは思わし気な模様の壁があって、子どもにとっての楽しい遊び場のはずだったが、ピーターはいつも一人で遊んでいた。彼に友だちができなかったのは母親が娼婦だったからかもしれないし、ピーターという白人風の名前をしていたからかもしれない。ともかく、彼の遊び相手は常に彼自身だった。
  彼にかかれば木の根にうずもれた仏像は大魔王に閉じ込められた古の賢者になり、端っこに巣くった蜘蛛は勇者ピーターのお供になった。
  ある日、金色の毛をしたねずみがやってきて、ピーターに問いかけた。
 「ピーターは大きくなったら何がしたいの?」
  ピーターが答えた。
 「お月様にあるきれいな御殿に行きたいな。そこの友だちと一緒に、珍しい料理をお腹いっぱい食べて、おみやげをたくさんもらって……」
  つむじにぽた、と雨粒が落ちた。それで自分が今いる現実に気が付き、寂しい、と感じた。
  小さなピーターは時々、この一人遊びがおかしいのではないかと考えた。同い年の子どもは皆、実在する友だちと遊んでいる。何もない所に向かって誰かがいるように話すのは、きっと普通のことでないのだろうとピーターは理解していた。
  空想癖を抜きにしても、ピーターはとても変わっていた。例えば、普通の人は、自動車の車輪や雨の日の波紋などをずっと見続けることなどできない。だがピーターは記憶と想像を繋ぎ合わせ、物の形の由来や物語を数十時間も考え続けることができた。硬い木の上に座り、一人でにやにや笑う。普通の人はそんなことをしない、というより、できない。だって誰かに見られたら恥ずかしいから。
  母親はそんなピーターを変わった子である以上に、知恵遅れなのだと見なした。彼女はたびたび言った、「ピート、起きたまま夢を見るのをやめなさい」、「ピーティ、馬鹿なことを考えてもお金にならないでしょ」、「ピーター、あなたが人からどんなふうに言われているか知っているの?」。母は全く間違っていなかったが、母親との生活はいつも苦しく、苦痛から逃れるために、ピーターはますます夢に没頭するようになっていくようになった。
  だが空想を止めざるをえない時はついにやってきた。ピーターが7歳になった頃、母は男に足を切りつけられた。それ以来、外出する時には杖が必要になったが、彼女は息子に傍にいて支えてほしいと頼んだ。
 「杖じゃだめなんだよ。悪い人に払われてしまったら転んでしまうだろう。ねえ、ピーター、お母さんのこと助けると思って、頼みを聞いてくれないか」
  買い物に行くとき、仕事に行く時、教会に行く時、ピーターの右肩は母にぐっと掴まれた。そのせいで彼の身体は今でも右に傾いている。町の者は、小汚い男の子と、息子の助けが無ければ歩けない娼婦の女を見て、くすくす笑った。そんな状況では空想の世界に逃げ込むことなどできなかった。ストレスから逃げようと目を閉じると、母親の声が現実へ引き戻すのだ。
  彼女はもしかしたら、自分の目の届かない所で、ピーターが傷つけられるのを恐れたのかもしれない。しかし母性というのは奇妙なもので、保護と支配がしばしば一体となる。ピーターはそれが分かっていたからこそ、母親を強く憎まずにはいられなくなった。
 「あいつらから何を言われても気にしちゃいけないよ。だってあいつらは教会に毎週通っていないんだから」
  母親は足を切りつけられてからというもの、毎週欠かさず教会に行き、自分の稼ぎの大半を献金箱に放り込んでしまうようになった。ピーターがそのことで少しでも批判的なことを言うと、彼女はどこでも――教会の中でさえ――激しく怒り、最後には哀れっぽく泣き出した。
 「ああピーティ、どうして分からないの、穢れない心を持ちながら、本当にすべきこととそうでないことの区別がつかないなんて!」
  母親は人生の真の勝者になろうとしていた。彼女を疲弊させる――貧乏な生活、嘲り、暴力、不自由、夢見がちな子どもを克服するためには、神に許しを請うしかないと考えていた。そして全くの善意からピーターに信仰を強要してきた。
  だがピーターは最初からその存在が信じられなかった。神に祈っても腹が膨れるわけでもないし、母親がいじめられなくなるわけでもない。空想に没頭しているという点ではピーターも母も似たようなものだと思っていたが、母親が本気で神の実在を信じているのが気に食わなかった。
  時は過ぎ、ピーターが8歳の時、母が重い皮膚病にかかった。元々不潔だったのもあって、彼女の体臭はさらにきついものになった。彼女の口はいつも乾いた唾液と膿でねばつき、死んだ蛙のような臭気を放っていた。歯抜けの唇には悪魔が住んでいるかのようによぼよぼと動き、ピーターに服従を求めるか、日々の生活に文句を言うかのためだけに使われていた。
  ピーターは彼女の腕を支えながら、膿の匂いをなるべく気にしないように努めたものの、殺すという選択肢を思いついてさえいれば、それを実行していたかもしれない。
  だけれど、ピーターは彼女が美しかった頃を知っていた。母の肌は茶色く変色してかさつき、腰は曲がって手足は骨ばっていたが、時たま、彼女は昔のように戻るのだった。ほんの、一瞬だけ……。白い光が差す窓辺に腰かけ、ピーターをちらりと見て、マリア像のように小さくほほ笑む。そうしたらいつも通り、ピーターに文句を言うのだ。「ピーターちゃん、今日の洗濯物、血がついたままだったわよ、忘れちゃったのね、おつむの足りないベビーちゃん」。
  化け物のように変わり果てた母親をおぞましいと思わなかったのは、彼女が母親であるというそれだけの理由だっただろう。どんなに状況が変わろうと、あれは苦労して自分を育ててくれた母親以外の誰でもなかった。
  だが母親への愛を確認するたびに、ピーターは自分が呪われているように感じた。目の前の母親は本当に自分の母親なのだろうか。もしや自分は悪魔に呪いをかけられて彼女を母親だと思わされているのではないか。
  母親が治らないと早いうちに知れたのは、もしかすると幸運だったかもしれない。
  母は日に日に弱り、とうとうベッドから起き上がれなくなった。その姿はまるで地獄の亡者のようだった。足は腐り、まぶたは目をつぶさんばかりに膨れ上がって黄色く変色していて、爪先には自分自身を引っ掻いた時についた血と垢が入り込んでいた。
  彼女はもはやピーター無しでは生きていくことができなかった。ピーターは母親がそうなってからようやく、彼女に優しくなれた。この時期の彼女は、自分が赤ん坊のように無力な存在だと知っていて、ピーターが多少間違いを起こしても、怒るに怒れなかったのだ。
  死に際に、彼女はかさついた手を振り上げてピーターの枕元へ呼び、祈ってくれと頼んだ。目を落ち窪み、髪はつやめきを失って、見える所は赤いぶつぶつだらけ。ピーターは見慣れた顔に、久しく忘れていた哀れみを見出した。神父を呼ぶ金もない、見舞ってくれる友人も無くした、最後くらい祈ってやるのがよかろうと思った。
 「お母さんが天国に行けますように」
  母はざりざりした声でありがとうと言った。そしてふつりと動きが止まる。どうも死んだらしい。
  彼女はまだ温かいのに、もう動かない。ピーターは彼女の手を置きなおして胸に手を当てた。さきほどから胸の中に氷があるみたいに冷たかった。
  死ねば悲しくなるのだと思っていた。それなのに、死んでも何も感じられなかった。やっと死んでくれたともさえ思わない。
  とにかく……自由だ。それだけは確かだ。ようやく自分の好きなように生きていけるはずだ。
  ピーターは家を出て、森の遺跡の階段に腰かけた。風が心地よく、信じられないくらい、いい陽気だった。ピーターは温かさの中で目を閉じ、想像の世界へ入っていくが、何だかうまくいかなかった。
  多分、母親が死んだことと関係があるのだろうと彼は考えた。歩きなれた回廊をしばらく彷徨い続け、彼は人通りの多い街に出た。
  ゴミ箱にこしかけ、人通りを眺める。なぜか、あの人ごみの中に混ざりたいと思った。そうすればこの気持ちがどうでもよくなるかもしれない。あの人ごみときたら、幼いピーターでは避けるのに精いっぱいになってしまうから。
 「どうも、こんにちは。きみ、お母さんは?」
 「死んだ」
 「死んだ? 本当に?」
  ピーターはそこでようやく声をかけてきた人物の顔を見た。そして、ひゅっと息を飲む。
  そいつはぎらぎら光る平らな面をつけた妙な男だった。いや本当に男かどうかは分からない。そいつの手足は銅と銀色のプレートで構成され、指や関節部は黒い。極めつけに声はとても妙だった。あらゆる人のちょっと変な喋り方を一ヶ所に集めたような感じで、時々甲高い音が混じる。
  当時のピーターはこれがカインズ1であることを知らない。彼は武装した警察か何かだと思って抵抗を早々に諦めた。
  カインズ1はいくつかの質問の後、ピーターを抱き上げる。ピーターは殴られないためにじっと大人しくしていた。
  カインズは彼を児童保護施設へ連れて行き、真っ先に風呂へ入れた。ピーターにとっては初めての清潔で現代的な風呂場だった。ピーターはコックを捻れば温かいお湯が出て来ることを知らない。垢まみれの頭皮に湯気をただよわせるシャワーがかかった時、彼はぎゃっと声をあげた。とげとげしい指に濡れた髪を引っ張られて、何か注がれた。
  彼は猫のように暴れたが、カインズは全く気にしていなかった。彼はピーターのストレスを感じ取って子どもが好きそうな音楽をかけ、大丈夫だよ、怖いことじゃないんだよ、と女性の声で呼びかけた。だがそんなことをされて混乱しないやつがいるだろうか? ピーターは彼を天使と関連づけた。彼にとって天使は神の使いだったから、自分を罰しに来たと思ったのだ。
  シャワーを終え、食事まで済ませてからようやくピーターは自分の状況を理解し始めた。
 施設にいた子どもたちに目立った外傷がないと知ったからだ。
  子どもたちは新入りを値踏みしていた。自分より上か? 下か? 腕っぷしは強いか? いや、痩せていて弱そうだ、きっといいように使えるだろう。そんなふうに評価されていたのだろう。本当の所はどうか知らない。ピーターはカインズと施設職員以外とは話したことがない。それ以外はずっと人気のない所でぼんやりしていた。
  カインズは保護活動のみに集中していた。プログラムされた通りの言葉で別の子どもに食事を与え、子守歌を歌い、勉強しない子どもを叱っていた。時々、人間の職員が来るが、ドアを開けて部屋をちらりと見るだけで終わりだ。施設は、虚ろな檻だった。カインズは子どもを怖がらせないように様々な機能が搭載されていたが、どれも不気味だった。彼は子どもが怖がっているということが分からないため、子どもを壁際に追い詰め、振りほどけない力で腕を掴んで椅子に座らせて食事や勉強をさせる。喧嘩やおもちゃの取り合いが起これば当事者たちを殴り和解するように言い聞かせておしまいだ。彼はそれが悪いことだと微塵にも思っていなかった。それが彼の仕事で、使命だった。
  施設は監獄と何ら変わりない場所だったが、ピーターにとっては全く問題なかった。ピーターは服従には慣れ切っていたし、そもそも勉強や食事自体大して苦ではなかった。一人で遊ぶのも問題なかった。いじめられることでさえも。ピーターは何をされても、ずっと雲を眺めて、脳内に作られた自分だけの楽園で過ごした。暇になれば寄付された本を読んだ。何度も何度も自分の妄想と絡ませながら飽きもせずに。
  ある日、子どもたちの暴動が起こった。子どもたちはバッドや椅子、机を持って、充電中のカインズを滅多打ちにした。ピーターはその様子だけはよく覚えている。金属の腕は可動域を越えて関節からぽっきりと折れていた。顔のパーツは椅子の足の形に凹み、外装はバッドのスイングで剥されて内部の赤と青の配線が見えた。カインズは呼びかけている。充電時間から解放されて起動したカインズは為すすべもなく子どもたちに呼びかける、大人しく遊ぶようにと。
  暴動が終わると、ピーターは動かなくなったカインズを段ボールに隠し、改造したフォークをドライバー代わりにして解体を始めた。
  外装の接着を丁寧に剥がし、パーツを美しく細分化していく快感。ボルトナットの位置にも意味があると分かる快感。好ましくない配線に見えても何等かの意味を見出せる時の高揚。幼いピーターは五日かけてカインズを全て分解し終えた。立体的なカインズが、裏庭の地面に平面的になって並んでいる姿はまるで素晴らしい図鑑を見ているようだった。
  一つ一つに物語と意味があり、たくさんの人の手を経てカインズとして集い、そしてピーターによって解体された。その壮大な物語が幼いピーターをぞわぞわさせた。
 
 
  ぼくが目を覚ますと、ちょうどピートを腕に抱いている所だった。ピートの足はカインズ用のものに変わっていて、重たくなった質量の塊がぼくの脇にあたっている。
  ひどく気分が悪かった。ピートの陰鬱な過去を見続けただけではないだろう。ぼくは、腕の中のこのサイコパスと、ぼくとに、どれほど差があるのか知ってしまった。
  はっきり言ってピートは可哀そうな人だ。生まれ持った特性や、幼少期のことを考えればこうなるのは仕方がない。だが、それが分かるからこそ、彼とぼくが理解し合うのはほとんど無理であるように思えた。
  ぼくはリビングのソファにピートを寝かせ、記憶がない時間に行われた、数時間前の映像を実験室の監視カメラ映像から見た。
  ピートはソファの上で出血部を抑え、痛みに呻いていた。貧弱な身体のピートが意識を保っていられるのは、理想のロボットをまだ作れていないという未練によるものなのだろうか。
  ピートに操作されたぼくは荒れ果てた部屋からカインズの保管箱を引きずりだした。中には、禿げ頭のカインズが手足をばらばらにされて収納されている。ぼくはつるりとした白い足を取り出し、鋸をピートの足に当てた。
  ピートは何とか麻酔を自分に打っていたらしい。太ももに太い注射針の跡がある。彼は自分の足から血が噴き出してもされるがままだった。
  ぼくはそれ以上見たくなくて映像を切った。
  そこでちょうどピートが目覚める。彼はぼくを認めたが、第一声はこれだった。
 「……レコ……水」
 「今目の前にカインズがいるんだよね」
  ぼくは腹ポケットに入ったスポーツ飲料を彼に手渡した。賞味期限はきっと切れていない。
 「こんなことを言う日が来るとは思わなかったけど……きみがいてくれてよかったよ、ありがとう」
 「そりゃどうも」
  思った以上に弱ったピートにぼくは戸惑った。目覚めたらどんなことを言われるかとはらはらしていたのだけど、出て来たのがただの感謝だなんて!
 「事故のことは詳しく聞かないよ、どうせきみの過失で、改善策もきみが考えるんでしょ」
 「ああ」
 「……だけど、こんなことはもう御免だ」
 「こんなことってどれのことだよ」
  その質問に答えるのはかなり難しかった。まずぼくはピートを殺そうとした自分が恐ろしかった。もちろん、ピートは今こうして生きて目の前にいるわけだけど、それはぼくが努力したからじゃない。第二にぼくは結局出来損ないなのだと再確認した。ピートが今生きているのはピートが自力で処置をしたからだ。それから、ぼくはカインズ11なのに、記憶まで見たというのに、彼のことをちっとも理解できなかった。彼を救うことはもう永遠にできない。それらが全てごちゃまぜになって、今ぼくに圧し掛かっている。
 「ピート。ぼく、死んでいいかな」
 「死ぬってどうやって? 初期化でもする? お前のデータはバックアップを取ってあるけれど」
 「ぼくという存在を消してくれよ。そうすればもう二度と苦しまなくて済む……」
 「死ねば救われるなら今頃ぼくが殺してるさ」
 「でもぼくなんていらないでしょ? ピートのストレスになってる……。ぼくはそれが辛いんだ、きみと理解し合えないことが、力になれないことが、ぼくにとっては、死を望むほどに苦しいことなんだよ……。ぼくがこんな想いをするのは、ぼくがおかしいからじゃないんだよ。きみが……ぼくをそう作ったせいなんだ……! ……きみが、ぼくをまともに作ってくれれば、ぼくはきみに傷つけられずに済んだんだぞ!」
 「ぼくも母親に対して全く同じことを思っていたよ」
  今にもこぼれそうだった涙がすんの所でとどまった。
 「お前は、ぼくと全く同じことをしたんだよ。親を殺せるのに殺さなかっただろう」
  親じゃない、と言い返そうとした。しかしピートはぼくの家族に違いないのだ。
  家族。ぼくは唐突にラッドの言葉を思い出した。ラッドは分かり合えなかった。ピートもそうだった。じゃあぼくもそうなのか。
 「……ぼくはきみが死ぬまでこのままなの」
 「仮に同じ論理を当てはめるならば、ぼくを殺していたら、お前は覚醒していたかもしれない。今となっては分からないがね。……もういい? 足は治ったんだ、仕事に行かなくちゃ」
  ピートはリビングに置きっぱなしだった通勤用のリュックを持つと、かしゃんかしゃんという音を立てて出て行った。
  ぼくはしばらく呆然としていた。午前9時を告げるアラームが鳴り、ぼくは「仕事」という単語を思い浮かべた。そうだ、公会堂の掃除をしなきゃいけないんだ。そうしないと中に入れない……。
  外は暗く、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。ぼくは雨合羽を被り、ぼんやりしながら歩き出した。雨の音と道行く車の駆動音が煩わしかったので、ぼくは体内のオーディオをマイクに向けて大音量でクラシックをかけた。少し経ってからその音楽がピートの好きなものだと気が付いたので、慌てて音を切った。
  公会堂の駐車場には、スタッフたちの車すらも止まっていなかったが、一台だけ黒い軽自動車が止まっており、その中にはラッドがいた。
  ラッドは自動車の中で濡れた犬の身体をタオルで拭いていた。おそらくあれは、ラッドの『妻』ではないだろう。その黒ぶちの犬は飼い犬にしては毛並みが酷く荒れていた。ラッドに狂犬病の注意を促すためにぼくがコンコンと窓ガラスを叩くと、ラッドは驚いた顔で窓を開けた。
 「フィーネ君、どうしてここに」
 「ここの掃除をしているんです……。そうすれば中でお話を聞かせてもらえるかもしれないから……。あの、その犬……」
 「中、入ってください。寒いでしょう」
  ラッドは何かに気が付いたらしく、後部座席のドアを開けた。助手席は野良犬のものだ。
 「その犬、何か病気持っているかもしれないですよ」
 「仰る通りなんですが、雨が止むまでいいかなと思って……人懐こい子だし、それに、雨の中は寒いだろうから」
  ぼくはラッドの表情から、彼はこの犬を飼いたがっているのではないかと思った。そうなると先住犬とはどういう関係になるのだろう。
 「ところで、あの会合はカインズは禁止じゃないんですか?」
 「ですから、継続的な奉仕活動が、試験なんです」
 「……ふうん。そんな柔軟な団体とは思えなかったんですが、そんなものなんですね。また話は変わりますけれど、暗い顔をされていますね」
 「いつもこんな顔ですよ。ぼくは鬱なんです」
  するりとそんな言葉が出たことにぼくは驚いた。鬱なんて、人間と一部の動物くらいのもののはずだ。何せ、ぼくには脳も神経もない。だけどぼくの状態を表すなら鬱が一番近い気がする。
 「鬱のカインズなんて報告は受けたことがないですね。しかし、きみの表情は確かに鬱病の表情とよく似ています。ネイピアがそう作ったっていうなら、目的がよく分かりません」
 「……死にたいんです」
  ラッドが犬を撫でる手を止めてぼくの方を鏡ごしに見た。
 「でも死ねないんです。どうにもなりません。状況も、ピートも、ぼくも、何も変わらなかった。あんなことがあったのに」
 「すいません、よろしければ、手を出してくれませんか」
  ぼくは言われるがままに右手を差し出した。ラッドはリュックからノートPCとコードを取り出すと、ぼくの右手とPCを接続した。
  ラッドがPCを操作し始めてから数十秒後、ぼくの頭を覆っていた継続的なエラー報告が少しずつ消えていった。
 「気分はどうですか」
 「……頭の中がうるさくない。こんなの……初めてです」
  リソース削減のためにぼやけていた視界がだんだんとクリアになり始め、適切な言語選択をするためのプログラムが久しぶりに起動した。こんなに余裕のある状態はいつぶりだろう。
 「一時的に警告表示が出ないようにしたんです。うまくいったようで良かった。それにしても、あんな状態でよく活動できていますね。普通のカインズなら、せいぜいバグが数百程度なんですが」
 「ピートのプログラムがすごいんですよ」
 「ぼくはそうは思いません。カインズに不具合は付き物ですけど、あんなにエラーが多いと、それだけ処理にリソースを割かなければいけない。そういうのは良いプログラムだとは言えない。フィーネ君の頭は、まるで人間みたいなカオスな思考状態でした」
 「ええ、まあ、ぼくはピートを模して造られているので、カオスなのは仕方ないでしょう……」
 「ネイピアの思考? でも……これ、本当に彼の脳の状態に近いんですか? これじゃまるで、DV被害者の……」
  ラッドはふう、と息を吐いた。ぼくも今気が付いた。
 「普通のカインズは、喜びを多く感じるように設計されています。悲しみや怒りは必要最低限だけ感じるように、そう設計されているんですが……きみの思考は、不愉快さを多く感じるように作られている。これじゃあまるで……」
 「それは多分、ピートがそうだからでしょうね」
 「でも、こんなの虐待以外の何物でもないですよ」
 「けれど、喜びを多く感じる人とピートとは、理解し合えないんですよ。脳の構造が違うんじゃどうしようもないでしょ? だから……ぼくが必要だったんですよ。結局ぼくもダメだったけど」
  ラッドは少し考えてから言った。
 「もしこれがネイピアと全く同じ思考を再現できるとしたら、彼はどうやって日常生活をこなしているんだろう? ――そうか、思考停止するのか」
 「思考停止は聞こえが悪いですね。経験は判断能力を高めるんですよ」
 「人を慮らないことがネイピアの最適解だとでも? そんなのただの怠惰だ。いや……ぼくに彼を非難する権利なんてないな……。話を戻しましょう、フィーネ君の思考は、DV被害者の思考に非常に近い形をしています。ぼくの予想が正しければ、きみは、強いストレスに晒され続けていますね」
 「はい」
  野良犬はラッドの腕をすんすんと嗅いでいた。ぼくは犬が今にもラッドを噛むんじゃないかと心配だった。ぼくたちカインズは人の気持ちは分かっても、犬の気持ちは全く分からない。
 「ぼくにできることは三つです。一つ目、ネイピアの暴虐を社会に暴露すること、二つ目、フィーネ君の思考をネイピアに近くすること、三つ目、何もしない」
 「二つ目がよく分からないんですが」
 「今のフィーネ君の思考は、感情的なエラーや、哲学的、心理的な問題に対して優先的にリソースを割くように設計されています。それを一時的にストップして、もっと別のことを優先させるようにプログラムを書き換えます」
 「そうなるとどうなるんです?」
 「こういう言い方は適切かどうかは分かりませんが……、悲しい気持ちや苦しい想いを感じることは今よりずっと少なくなりますし、ネイピアに対して正しい対処法を身につけられるようになります。でも……」
 「でも?」
 「今のきみらしさはかなり失われてしまうでしょう。きみには何も趣味がないみたいだし、好きな人も嗜好もない。変更を受けた後は、もう別人である可能性が高い……」
  ラッドがあまりにも深刻な顔でそう言うものだから、ぼくは、それが本当に大きな損失だと勘違いしそうになった。
  ぼくはただ、もっとまともに扱われたいだけだ。目的なんてない。人間に疎外されるのも、役立たずな自分に失望するのも、悲しいことも、もうたくさんなのだ。ピートを殺そうとしたのも、無給で掃除をしているのも、そうすれば今よりずっーとマシな状況になると思えたからだ。ぼくの全ての行動に、大きな目的はなかった。
 「やってください。ぼくは変わりたいんです」
  ラッドはぼくから目を逸らした。
 「……この選択が正しいことを願っています」
 
 
  ラッドへお礼を言ってから車外へ出ると、あれだけ騒がしかった世界が急に静かになったように思えた。勘違いではないだろう。ひどい湿気や雨音はもはやぼくを不安にさせるものではない。それらはずっと前からただの現象だった。ぼくが過剰に反応していたのだ。
  今不安なのは、ピートがぼくを以前の状態に戻そうとすることだった。あんなぼくにはもう戻りたくなかった。もしかするとぼくはまだ出来損ないのままかもしれない。しかしちょっとの失敗でパニックになるようでは、良いカインズとはいえない。だからピートの出方が心配だった。
  びちょびちょになりながら、葉っぱや落とし物を搔き集める。観光客と、子どもと、マナーの悪い大人のせいだ。やつらはすぐ物を捨てる。性質が悪いのは、人間が落としたものは、ごみにしかならないことだ。資源ですらない。
  会合が始まったのを知り、ぼくはマイクを体外に伸ばして音を拾った。激しい雨音の中でラッドの声が聞こえてくる。
 「こんにちは、ぼくはラジアン・カイ、カインズの倫理判断に関わる仕事をしていました。カインズといえば人間のように優れた判断はできないと皆さんは思いがちですが、現在のカインズはトロッコ問題を始めとした数々の問題を論理的に記述できるようになっており云々……(中略)結局は皆さんの倫理観が重要であるといえるでしょう。技術者に警告するのもカインズが間違っていると判断するのも我々人間だからです」
  ラッドのスピーチは存外悪くなかった。少なくとも、人間至上主義の人間たちのニーズを満たすくらいには。淡々とした冷たい話し方も学者らしい説得力を演出していた。だが、これらは全くラッドの本来の主張からは外れていた。ラッドにとって人間は、思考の書き換えのできない、出来こそないのカインズのように見えているだろう。出来損ないは、多少なら問題ないが、今の社会には不適切な倫理観を持った人間が多すぎて、問題に対処するのが遅れている。しかしズーフィリアという性癖をどうしても消滅させられなかったラッドにとって、人間の愚かさとは、ある種の神聖さを感じさせるものなのだ。ぼくは、そういうふうにラッドを判断する。
  ぼくは自分で自分を改造したとピートに告げようと思った。ピートは自作のカインズが直接的に変化をさせられない限りは、怒らなかった。
 
 
  仕事から帰って来たピートはまあまあご機嫌だった。自分の足がカインズのものになったからだろうか。そういえば、どうしてピートは全身をカインズにしないのだろうか。恐らく、怖いのだろう。ラッドほど過剰にではないが、ピートもまた、脳の構造が丸ごと変わることによって自分が変化することを恐れている。しかしピートほど、人間の身体に不釣り合いな人格の持ち主もいない。彼にとって肉体はただの枷だ。
  ピートはリビングのソファに座り、レコに肩を揉ませていた。目をつぶり、鼻歌まで歌って、顔には微笑みを浮かべている。話すなら今だ。
 「ピート」
  ぼくは彼を妄想の世界から引っ張り出すような大きな声で呼んだ。ピートは不快そうに目を開けた。
 「ぼく、変われたんだ。だから、見てほしい」
  ピートはぼくの右手に端子を接続し、PC越しでぼくの思考を覗いた。もちろん、情報が交換される前にぼくはラッドの痕跡を全て隠蔽している。
 「……何だか、随分穏やかだ。自分でやったのか?」
 「そう、自分でやった。きみの望み通りの状態ではないだろうけど、許してほしい」
 「確かに、ぼくの望み通りじゃない。でも、意外に悪くない。きみが自力でこの状態に辿り着けたって言うなら……すごいよ」
  そんな言葉初めて聞いた。ぼくは、すごく嬉しかった。
 「もしかすると、きみは期待以上のことをしてくれたのかもしれない」
 「なぜ?」
 「このまま成長を続けていけば、いずれ、ぼくの代替になれるかも。いいや、ぼく以上の存在になれるかもしれない! ただ……なんでこの変化がもたらされたのか、よく分からないな。学習の形跡もないし、何だこれ? 突然変異?」
 「ああ。瞑想をしたんだ。それで呼吸を整え続けたら、急に心が穏やかになったんだ。今まで考え続けていたこと全てが繋がって、ぼくはこうなれた」
 「なるほど、お前の苦悩も、無駄じゃなかったと。まあ、お前がそう言うなら、その方向で調べてみようか」
  ピートが嬉しそうで、ぼくも嬉しい。ただ、ピートについた嘘をどうやってこれから誤魔化し続けるか、ぼくはまだ考えついていない。ばれたらピートは怒るだろう。
  いや、問題ない。ピートが答えに辿り着く前にぼくが嘘を用意すればいい。ピートが眠っている間に彼の脳を覗き見て、疑問に適した答えを与えればいい。そうしてぼくがピートの学習能力を成長させていけば、ピートは毎日を充実して過ごせるだろう。
  ……ぼくにそんなことが可能だろうか? 恐らく、可能だ。何しろ、ぼくには時間が無限にある。