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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.44 / ××1.0000……
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 [[活動/霧雨]]
 
 **××1.0000…… [#bda8e2ad]
 

 
 
  また、雨が降り始める。妙に白けてやる気のない空から水滴が降り落ち、まっ白い、民家の低い屋根や地面に音もなく吸い込まれていく。これまた白い、崩れかけたブロック塀の影で僕は今日の除染地区を確認していた。
  主な道路は数週間かけてあらかた片づけ終わった。何か月かかるのか、これからは各区域ごとの除染をほとんど一人で行わなければならない。
  土地勘はある。慣れ親しんだといってもいい。それでも地図を見るたびに、厄介な地形を新しく見つけてはうんざりしてしまう。
  まだらに濡れたゴーグルは手で拭った。やわらかい合皮製の上衣のフードをしっかり被って、首元を紐で固く閉じた。夕方の作業終了時刻までこの雨は降りやまないだろう。
  白いよなあ。
  この辺りには誰もいるはずがないと、わかっているのにまた、言葉が口をついている。町の中心からすこしはずれた位置にあるこの地域には、除染作業員もなかなか派遣されない。僕が来るまで、ここは長らく除染作業がほぼ手付かずのままで放置されていたようだ。
  プラスチック製の安っぽいショベルを、湿気を含んだ白い地面に突き立てた。頼りなくしなるのにも構わずショベルを力任せに傾ける。白い塊が白い地面からぼこんと飛び出した。ひとすくいにして傍らの猫車に放る。湿った地表の下からは、乾いた粉末がさらさらこぼれた。上衣のなかで汗が濡れた肌を転がる。腹の力がゆっくりと抜ける。これで一サイクル。
  そっと息を吐く。一連の動作が終わって初めてそれまでの緊張を意識する。雨を降らせて湿らせているにしても、相手にするのは爆燃性の粉末だ。火花の一つでも飛べば……。ときどき不発弾みたいに埋まっている百円ライターが爆発して、事故を起こすこともあるらしい。僕はもはや身寄りもない身とはいえ、やはり命は惜しい。
  元の地肌はまだ見えない。
  ある日突然この町が白く覆い尽くされてから、たぶんまだ十年も経っていない。もしかしたらせいぜい数か月なのかもしれない。でも、僕が転入先の高校を卒業して、何年か大学にも通ってみた記憶はあるから、やっぱり数年は経っているのだろう。
  白が一面を覆う風景は、吹雪のあとによく似ていた。なのに、ここにあるのは雪なんかじゃない。もっと怖いもの。雪のように、うつくしくも厳しい自然とはまた違う。もっとずっと厭なもの。
  どこから来たのか詳しいことは誰も知らないけれど、それは確かに海から来たとみんな言う。一体何かはっきりしたことはやっぱり分かっていないけれど、誰かがふざけて野生のセルロイドと呼び始めたらしい。なんだよそれ。セルロイドに野生も何もあるもんか。でもとにかくそう言われているんだって、僕たちみたいな除染作業員を集める派遣会社の人が教えてくれた。
  誰も立ち入ったことのないふかふかの表面が、鈍い陽光を反射して時折きらめく。
  なぜこんなものが? なぜここに? なぜ? なぜ僕たちに?
  疑問は尽きない。でも問うだけ無駄だ。答えはないし、あっても無意味だ。
  ずっと作業をしていると、本当にこの下に元の地面があるのかも怪しく思えてくる。この場所で鬼ごっこも縄跳びも、くだらない落書きだって散々やってきたはずなのに、あんなに近かった地面の色がどんなだったかなんて、もう思い出せそうにもない。
  空はますます白く、地平と空の境界線がゆれている。雨の冷気が革の衣を貫いて、吹雪の中に立ち尽くすような心持ちになる。
  ショベルを突き立てる。放る。突き立てる。放る。この場所が元の色彩を取り戻すまで、この反復は終わらない。なぜならそれが仕事だから。それが僕の仕事だから。
 
 「あんた、こんなところで何やってるの」
  聞こえるはずのない、よく聞き覚えのある声が僕の動きを止めた。淡い磯の香が鼻腔の奥にふっと甦る。ざくざくと足音を立てて、人影が動けない僕の前に現れる。
 「なんでわざわざこんなところにまで戻ってきたわけ」
  地味なブラウスと紺色のスカートに包まれた小柄な身体。この未除染地区の只中でゴーグルも革上衣も身に付けていない。おとなしそうな服装とは不釣り合いに、吊り目がちな両目が僕を刺すように見つめる。そんな異常事態に、なぜか懐かしさを感じてしまう自分がいた。
 「わざわざ被災した実家の近所の除染を申し出るなんて、あんたも物好きだよね」
  人影が僕を見つめたまま、呆れたように腰に手をやった。僕は手を止めたままその人影をそっと見つめ返す。
  そうだ。この仕草、この口調。この目。いや、そんなはずがない。だけど僕は、確かにこの目を知っている。
 「姉さん……」
  あのとき、町が白く染まったその日に死んだはずでは?
  言葉が喉元で詰まって、一向に出てきそうにない。
  死んだはずの姉さんが、むこうから懐かしい目で僕を睨みつけていた。
 
 

  そのXデーって日に、僕はまだ十八歳にもなっていなかった。
  その日は朝いちばんから姉さんと口論をした。きっかけは希望する就職先を決めたかどうか、姉さんから聞いてきたこと。
  その町、××市―市なんてたいそうな名前がついていてもやっぱり小さな町だ―ではみんな、高校を卒業したら社会人になる。少なくともまあ、なるはずだった。海岸にぺったり張り付くように広がった、コンビナートのなかのどこかに勤められれば「中流階級」の仲間入り。優秀ならば公務員、やんちゃな子たちは漁業従事者になっていく。僕もそのなかのどれかになるなんて、そのときは全然イメージができなかった。
 「あんたはまあ、工場でしょ」
  答え淀む僕に対して、断固とした口調で姉さんが言った。市役所の、一般職の、渋い紺色のスカートがさっと揺れた。海際にある庁舎で働く姉の制服は、日々潮風にさらされていて、染みついた磯のにおいがうっすら香った。
 「なんでそうやって決めつけるんだよ」
  僕はむっとして言い返した。それから、もっと他の可能性があるかもしれない、というようなことを続けて口走った。言ってみると、本当に他の可能性があるような気がしてきた。根拠もなにもなかったけれど。
 「ふうん、じゃあ、あんたはどうしたいの」
  馬鹿にするように姉さんが僕を睨んだ。僕は言い返せなかった。黙ったまま、負けじと目に力を込めた。
  
  姉さんとはそれ以上口を利かずに家を出た。それが最後の会話になるなんてその時は思ってもいなかったから。
  むしゃくしゃしながら海辺の道を歩いていたらいきなり転んでしまった。道にピンポン玉が二、三十個かな。泡のように散らばっていた。よく見ればそのうちの一つがひしゃげていて、どうもそのピンポン玉をうっかり踏んづけたせいで転んでしまったみたいだった。妙だと思うよりさきに、空しくて、恥ずかしくて、僕はひしゃげたピンポン玉を砂浜のほうに蹴飛ばしてそのまま駅に向かった。
  空はいつも通りに雲だらけで、僕は無性にいらいらしていた。
  果てしなく長い一駅のために汽車に揺られて高校に辿りついてみたところで、そこにいるのは結局のところ未来の中流階級候補たちで、みんな同じような調子で無駄話をし、恋だ青春だの騒ぎながら、授業を聞いたり聞かなかったりする。
  ??なんて、くだらない。僕もそんな、出来の悪い金太郎飴みたいな奴らの一員だなんて。
 
  今思えば、なにもかもがしょうもない、たいしたことのない話だ。だけどそんな絶望的な気分に酔って、僕が駅のホームをゆらゆら歩いてみせたとき、今思えばそこで歯車があまりに都合よく噛み合ってしまったのだった。
  見慣れすぎた、いもむしみたいな緑色の汽車がけたたましくホームに近づいてきた。それと同時に、ディーゼルの轟音の隙間をぬって電車到着のサイン音が聞こえた。
 『一番ホーム、上り線。快速……行き。七時八分の発車です』
  終点は耳憶えのない地名で、うまく聞き取ることができなかった。
  眩暈のような、錯覚。墜落感。思考に靄がかかっていくような、それでいて視界の全てが拡大されているような分離感。分裂、分解、幽体離脱。振り払うように踵を返した。
  汽車に背を向けた僕は、吸い込まれるように電車に乗り込んだ。汽車と同じ一両編成ではあるけれど、メタリックな灰色にカラーリングされた車体が未来的で、いつもの汽車よりずっと格好よく見えた。この町の外につながる唯一の鉄道は国営で、馴染みのない柔らかな座席に僕はおそるおそる体を預けた。
  電車は静かに発車した。はじめはゆっくり、でも少しずつスピードを上げていった。
  脱出するのだ。
  僕はぼんやりしたまま悦に入った。これで僕も何者かになれる。あいつらとは違う、誰かになれる。
  線路沿いには灰色の海がどこまでも広がっていた。くすんだ波の向こうが、今日は妙に白く泡立っていた。
  ゆるいカーブを通り抜け、電車が海から離れるように進路をとった。僕はまだ海を見ていた。
  水平線の方から、その、妙な白い泡が次から次へと湧きだしているように見えた。ところどころに白が散った海は、盛りを過ぎた桜の下を流れる河に似てもの哀しく、はっとするほどうつくしかった。
  僕は飽きることなく海を見ていた。電車の車体が完全に海に背を向けるまで、じっと見つめていた。見納めのつもりだった。いつもと海の様子が違うことは、たいして気にも留めなかった。そのあとどういう風にしていくつもりだったのか知らないけれど、その瞬間の僕は、二度とここには帰ってこないという決心について思い巡らすのに必死だったんだ。
  ××市と外の境界にある山―なんていう名前かは忘れたけれど―そこに開いたトンネルに電車がゆっくりと呑み込まれた。僕は体をぐっとひねって、遠ざかっていく故郷に目を凝らした。暗いトンネルの先にあった風景はみるみるうちに小さくなって、光に霞んで見えなくなった。
  ホワイトアウト。暗転。さよなら、僕は先に行く。
  気が付いたときにはもう、窓ガラスは鏡のように車内にいる僕の顔ばかりを映していた。僕は思い出したように通信端末の電源を切った。端末の時計は午前八時過ぎを指していた。始業までもう少し。
  僕の失踪に誰か気付いていたのだろうか。
 
  こうして僕の視界から、完全に海が消えた。だから僕は、海から陸へと、その白が押し寄せてくるところを実際に見ることはなかった。
  電車に飛び乗ってからおよそ半日後、乗り換えのために降りた駅で駅員に声を掛けられた。有無を言わせぬ様子で連れていかれた駅事務所には人工的な光が隈なくいきわたっていて、僕はこれまでの物語のように感傷的な景色から、急に現実に引き戻されるような気がした。
 「君、どこの学校の子? この辺じゃ見ない制服だけど」
  駅員がさも面倒くさそうに僕に尋ねた。
 「××高校です」
  僕は消え入りそうな声で、それでも素直に答えた。大人の醒めた目に曝されて、急にどうしようもなく恥ずかしくなった。
  一体どこに行こうとしていたのか。何を求めていたのか。どうしていくつもりだったのか。
  聞かれたところで僕には答えられない。形式的に説教でもされて、すぐに家に送り返されるだろう。
  情けなくて仕方がなかった。それでも捕まって、もう先に進めそうにもなくなって、少しだけほっとしている自分がいた。
 「××高校って、あの××市の?」
  しかし駅員は僕を問い詰めようとはしなかった。先ほどより興味深げな様子で駅員は僕を見た。
 「そうですけど」
  戸惑いながら答える僕に駅員は黙って部屋の奥にあるテレビを示した。
 
  向こうにある小さいディスプレイには航空映像が映っていた。眩しい。バタバタとプロペラの音が耳につく。白昼の中でなお輝く強い光が見えた。揺らめく光が突如膨れ上がる。太い黒煙が立ち昇る。曇り空をバックにとぐろを巻く。意志を持つかのようにこちらに向かってくる。
  画面が揺れる。旋回? 映像にノイズが走る。一、二、三、四……十二、十三……。十数秒で映像は持ちなおした。今度は先ほどよりかなり遠い位置に光が見える。
  鮮烈に青い、青い空の下に、白く濁ったうねりが寄せては返す。うねりの先で、どこか見覚えのある巨大なコンビナートが、吹雪の日にも負けず白く染めあげられて、整然とした幾何学模様を描き出していた。
 「あの、これって」
  僕が駅員に尋ねようと口を開いたとき、テレビからノイズだらけの音声が流れ出した。
 『こちら現在の××市の様……子で……す……海の方から白い何か……が、押し寄せています……海岸沿いの工……業地帯で大規模な火災が発生……現在も懸命の……救助活動が継続されてい……ます』
 
 「ちょっと、君、大丈夫?」
  慌てた様子の駅員を置いて、僕は吸い寄せられるようにテレビの方に近づいた。
  揺れる炎から、高くそびえたつ無数のパイプが時折顔をのぞかせる。僕はテレビの画面をゆっくり手でなぞった。倉庫群、停泊所……どれも見覚えのあるものばかりだ。
  火勢は時と共に収まるどころか、ますます激しくなるようだった。
  僕は必死に目を凝らした。この辺りのどこかに、父の働く工場が、姉の働く市役所が建っているはずだった。
  すぐそばの工場から火柱が上がった。詳しい状況を把握するよりも先に、カメラからの通信が切れた。一瞬のブランクの後、テレビの画面がスタジオの映像に切り替わる。
 「こりゃひどいな」
  部屋のどこかしこから口々に、そんな声があがった。
 
  その先のことは、正直あまり覚えていない。
  すぐに僕はその駅の地域の警察に保護された。ようやく母親と連絡が取れたのは翌日になってからだった。父の死と、姉の行方不明はそのとき知った。行方不明というのは結局、死体が見つからないだけだということを、僕はしばらく月日が経ったあとで理解した。
  僕と母親は二人で母親の実家に身を寄せた。××市には一度も戻らなかった。僕は新しい高校に入った。初めこそ戸惑いはしたものの、新しい秩序に染まるのは簡単だった。初めの頃は××市から来た僕に対して、クラスメイトは好奇心を隠さなかったけれど、僕が、あの奇妙な災害の現場に居合わせなかったと知るとすぐに興味を失った。僕は新しい環境に、空気のように溶け込んでいった。
  数か月のうちに母親が倒れた。そのままあっけなく逝ってしまった。医者は過労だと言った。
 
  数年経って、僕は大学生になっていたた。高校を卒業すると同時に安アパートで独り暮らしを始めると、僕はあの、××市の災害についての資料を蒐集しはじめた。部屋中が、新聞や雑誌のスクラップ、書籍、映像資料のディスクで埋め尽くされても飽き足らなかった。
  原因究明や、後世への啓発なんて大義があったわけじゃない。集める以上のことをしようなんて考えもしなかった。ただ、どうしても目を逸らせなかった。それだけ。人生にはそういうふうに、自分の意思をも超えた次元から、抗えない力がはたらくこともあるのだと、僕はそのとき知った。
  大した遺産もなかったから、バイトをしながら学費と生活費を賄うのは大変だった。なんとなく進学した大学も、楽しくないわけではなかったけれど、それほど強い思い入れはなかった。
  あるとき、僕は××市の除染作業員の募集を見つけた。ちょうど家賃滞納が二か月目に差し掛かろうとしていた僕にとって、住居保障という文句はひどく魅力的に映った。
  三日三晩唸って、僕は大学に退学届けを提出した。きれいな青空から小雨が降りそそぐ朝だった。
 
  その晩、僕は夢をみた。白く乾いた津波がゆっくりと町を呑み込んでいく光景を。泡のようなピンポン玉が坂道を転がり登ってゆく風景を。これは現実なんかじゃない。不思議な確信を持ちながら、僕は北に歩みを進めた。
  白い大地の先で、巨大な海が黒い腹をゆったりと震わせた。町がどんなに様変わりしようとも、それは太古の姿を留め続けているのだと、思わず立ち尽くした僕は直感した。言いようもない恐ろしさと懐かしさが一緒になって押し寄せて、僕は夢の中で声をあげて泣いた。
 
 

  突然現れた姉さんは幻覚に違いない、と僕は思った。そう思うことに決めた。
  まだ雨脚が弱まる気配もない。こちらを睨み続ける姉さんの視線を避けるようにして僕はそっと周囲を確認した。人がいれば僕が正気が確かめることもできるかもしれないが、今は誰もいないことが恨めしい。
  仕方がない。粉を満載した猫車を押して、見渡す限り白い世界を僕は歩き出した。
 「久しぶりじゃん」
  幻視である姉さんが、幻聴の声で僕に話しかける。
 「最近元気? 何やってるの?」
  何と言われても。見ての通りの除染作業員。だけどわざわざ声に出して答えはしない。僕はまだ、幻覚と会話するほど終わってなんかいない。
 「この辺り、全然変わってないでしょ?」
  一見すると変わり果てたように見える街並みは、その日以来すべての活動を停止して、時間を止めたようだった。
  同意を込めて、僕はつい首をこくりと縦に振った。
 
 「ねえ、どこ行くの?」
  それにしても、実在しないはずの姉さんから強い視線を感じる。うなじを焦がすようで落ち着かない。でも、いや、気のせいだ。僕はじっと前だけを見つめたまま、黙って歩を進めた。
 「ちょっと、それ。手で押して運ぶつもり?」
  集められた粉は全て、湾を改造して作られた集積場に運ばれることになっている。不用意な発火を避けるために、粉の回収と運搬はすべて手作業でやる。除染対象エリア内では燃油はおろか電気も使えない。金属すら最小限しか持ち込めないから、ろくな器具もありはしない。
  視界の隅で姉さんがぐるりと辺りを見渡すのが見えた。
 「ああ、もうまどろっこしい。そんなのじゃ永遠に終わらないって」
  どこまでも続く白い大地の上で、おもちゃみたいな猫車の上の小山はあまりにも頼りない。
  どうして重機が入らないのかといえば、車両は火種になりうるからと、大きな声で反対を唱える人がいたからだという。
 『大切な場所が灰に変わってしまうのは、きっと耐えられないでしょう』
  なんて、画面の向こうでは熱っぽい口調で何度も何度も語られる。確かにそうだ。その通り。だが馬鹿げている。放っておいたって百円ライターはときどき爆発したりもするのに。帰れるわけでもない故郷が白に塗れて存在したって何になる?
  わかっている。本当は誰もこんな場所になんて興味はない。誰も僕たちになんて興味はない。世界はたぶん、結構優しい。だけど結局、他所のことにはどうしようもなく無関心だ。
 
  僕は猫車を押してゆっくり歩いた。
 「あんた、本当にここを片づける気なんてあるの?」
  あるよ。僕は自分にしか聞こえないほど小さい声で呟いた。
  あるけど他にどうしろと言うんだよ。こんな、いち作業員にすぎない僕に。言われた通りの除染作業をやるほかに方法なんてない。
  いっそ全部燃えてしまえば新しく町を建て直せるだなんて、たぶん思いつくことも許されない。
  だから僕は、永遠にも似た反復を繰り返す。そうすることしか僕にはできない。
 
  歩き続けるとやがて打ち捨てられた線路がようやく目の前に現れる。目的地の湾には、線路沿いをしばらく歩けば辿りつく。
 「あんたさあ、ここから出ていきたがってなかったっけ」
  ふいに姉さんが声をあげた。僕はどきりとした。傍らの線路は錆びついたままどこまでも伸びて、ずっと向こうでここと外とを隔てる山のなかに吸い込まれていく。姉さんは僕の反応を待たずに言葉を継いだ。
 「ここにいる必要なんてもうないのに、どうしてわざわざ戻ってきたの」
  家賃を払うのが大変だから。仕事が必要だったから。即座に頭をよぎった理由は、どれも陳腐で悲しくて、僕は笑ってしまいそうになる。
 「家賃が、ね」
  堪えきれずにそう囁いて、僕は予定通りちょっと笑った。
 「何その理由」
  呆れたように姉さんが言った。
 「外には仕事だってなんだってもっとあるでしょ」
 「いい仕事を見つけるのはそんなに簡単じゃないよ」
  僕は知った風な口をきいた。
 「だけど……もったいない」
  言葉を選ぶようにして、姉さんはそれだけ呟いた。そういう姉さんはいつもと違ってなんだか苦しげな雰囲気で、僕は妙に苛立たしいような気分になった。
 「もったいないって、何がだよ」
  自分の声色がわずかに棘を含むのがわかった。
 「姉さんは知らないかもしれないけど、ここから出て自分で生きていくのは、すごく大変なんだよ」
  目の前の猫車から少しも視線を動かさないまま、僕は言い放った。言葉が軽く、白い地面の少し上あたりを滑って、消えた。
  僕は黙った。姉さんも黙っていた。濡れた地面を踏むざくざくという音が耳についた。
  私だって。
  足音に紛れるようにして、小さい音が後ろから聞こえたような気がした。僕は思わず後ろを振り返った。
  足音が止まった。降りしきる雨音ばかりが鳴った。僕は上目遣いで姉さんの様子を伺おうとした。視線が泳いだ。僕の斜め後ろくらいの場所に佇む姉さんは僕が思うよりずっと小さくて、頼りなさげに見えた。僕はつい驚いて、ぽつねんと立っている姉さんを、ぼんやりした顔のまま見下ろした。
  姉さんの地味な紺色のスカートが風をうけて、翻った。
  一瞬ののち、強い光のような視線が、突き上げるように僕を刺した。
 「馬鹿じゃないの」
  吐き捨てるように姉さんが言った。そこにあるのは僕の記憶にあるのと同じ厳しい表情で、一瞬まえの弱々しげな様子は掻き消え、もはやどこにも見つからなかった。
 「でも……」
  反射的に僕は答えた。
 「そうやってまた言い訳ばっかり」
  姉さんがぴしりと遮った。僕は悔しいのだか、安心するのだか、よくわからないような気持になって、反論を続けようと口を開けかけた。
 「あんたには未来があったのに」
  しかし、僕が何ごとかを口にするより早く、姉さんが一転ぼそりと呟いた。
  そのときの姉さんの口調にも、表情にも、僕は感情を読み取ることができなかった。勢いを削がれた僕の喉から、乾いた息の音が漏れた。
  僕は姉さんから目を逸らし、前を向いて歩きはじめた。
  姉さんがたぶんすでに死んで、もう存在するはずのないことを、僕はここでようやく思い出した。鳩尾がぐっと締まった。鼻の奥が痛む。僕はその意味をできるだけ考えないようにした。
 「成仏しなよ」
  姉さんを見ないようにして、できるだけぶっきらぼうに言った。
  上衣のフードから、水滴がゴーグルに垂れ落ちて、僕の視界を歪めた。僕はゴーグルを拭おうと、片手で猫車のバランスを取ろうとした。
  くすくすと、まるで空っぽな笑い声が僕の耳元を通り過ぎた。
 「でもまだ憎すぎるから」
  ふいに前方から声が聞こえて、僕は顔をあげた。
 「何が」
  訊き返しながら、僕は背後にいるはずの姉さんを探して振り返った。
  あっと思ったときにはもう、手元の猫車はバランスを失って、載せた粉をこぼしながら完全に横転してしまった。
  僕は黙って、半分近く荷物を失った猫車を引き起こした。いつのまにか姉さんは僕の目の前に立っていて、こぼれて落ちた白い小山をまっすぐに指さしていた。
  姉さんが指す先に、薄汚れた赤茶色の小箱があった。雨に濡れ、すっかりふやけた紙製のその箱を、僕はそっと拾い上げた。
 「燐寸箱」
  軽く振ると、中で数本の燐寸が触れ合うような感触がした。これは、まだこの町が生きていたころに残された生活の痕に違いなかった。
 「でも、これじゃ使い物にならない」
  湿りきった燐寸箱を、爆弾でも扱うように、僕はそうっと革製のウエストポーチにしまった。
 「やってみなくちゃ、わからないでしょ」
  いつものように、気の強そうな顔をして、姉さんは僕に説教をするときのように言った。
  僕はなんだか悲しくって仕方がないような気がした。
  ゴーグルに水滴がぼたぼた落ちて、そのたびに姉さんの顔が少しずつ歪んだ。そのまま、姉さんと僕の間の距離がどんどん離れていくような感じがした。僕は手の甲で丁寧にゴーグルを拭った。手のひらでも拭った。納得ができるまで、何回もこすった。
  次に顔をあげたとき、姉さんはもうどこにもいなかった。
 
  こぼれた粉を猫車に載せなおして、僕は再び線路沿いを歩き出す。空も地面もどこまでも白く、骸骨みたいに静かな世界で雨ばかりが鳴っていた。
  姉さんに、出ていきたいだなんて話したことはあったっけ、と僕はふっと思った。僕の、ささやかになるはずだったあの逃避行を、姉さんが知っていたかどうか、僕には確信がない。
  やっぱりあれが僕が生み出した幻だったのかなあと思う。こんなところに一人でいれば、幻覚くらい見ても不思議はないような気もしてくる。
  線路がゆるいカーブを描くところに差し掛かると、僕はそこから離れるように進路をとった。このまましばらく直進すれば、目的地の湾に辿りつく。
  荷物を降ろしたら、少し海岸線を散歩してみるのもいいな、と僕は思った。仕事中ではあるものの、咎める人がいるわけでもない。
  どうしてまた、ここにいるのだろう。僕は自問する。
  姉さんがのこした、憎すぎる、という言葉の真意が僕にはどうしてもよくわからなかった。だけどきっと、たとえどんな状態になったとしても、僕たちにはここしかない。そういう意味で、姉さんも僕も、本質はそんなに変わらない。
  ぼんやり歩き続けながら、これから向かう海岸線に思いを馳せた。昔見た、白い海はきれいだったなと思い出したりもした。歩けば何か見つかるだろうかと僕はあまり期待せずに考える。それからたぶん、と他人事のように僕は思った。僕は燐寸箱を海に投げ捨てるんじゃないかな。
  ポーチのなかで燐寸がことんと動いた気がした。
  ごめん、と小さく呟いて、僕はまっすぐに歩き続ける。自分の力ではどうすることもできない何かに祈るよう、僕は少しだけ目を伏せた。