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京都工芸繊維大学 文藝部

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 #navi(活動/霧雨/vol.1.2)
 *『メビウス』 ―― [[哉>部員紹介]] [#h4297699]
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  今日はなんて災難な日なのだろうか。
  電車では痴漢に間違われるし、通り雨にも降られてしまった。帰り道では、通り魔に襲われている女の子を助けたために、頭を殴られてしまった。
  ぐったり、した体でなんとかタクシーを止めて乗り込む。
 「行き先は?」「K駅に、お願いします」
  いつもなら歩いて通勤している距離だが、もう倒れてしまいそうなほど疲れている。値は張るが、タクシーで十分くらい揺られている間に休めば、なんとか家には帰り着けるだろう。
  しかし、それはシートにもたれて、目を閉じたときだった。
 
  急に支えをなくし、コンクリートに頭を打った。瞬間、声を上げたが、別段痛くはない、いや、逆に今までわたしを苦しめていた疲れや痛みが消えて、透明になったような気分だ。
 「まあ、魂だけだからな」
  あれ、おかしいな。私は確かにタクシーに乗り込み、行き先を運転手に告げて、それなのに、いつのまにか道路の上で寝転がっていて、私を乗せたタクシーがウィンカーを出しながら自動車の流れの中に戻っていこうとしていて、傍らには自分よりも大きな翼を広げた『天使』の少年が不機嫌な顔で佇んでいて、
 「天使なんかじゃねえよ」
  不良な話し方をしている。
 「どっちかっていうと、死神っていうニュアンスのほうがあってるぜ、オッサン」
  どうなってるんだ、幻覚が見える。そして幻聴も、おかしくなったのか、確かに毎日働きづめで、睡眠不足は否めないが、
 「だからさ、なんて頭の回らねえオッサンだよ、いいか、一回しか言わねえから耳の穴かっぽじってよく聴けよ。つまり、あんたは死んだんだよ、あのイカレポンチのストーカーに脳天かち割られて。でもよ、神様っていうのは慈悲深いんだかなんだかしんねえけど、お前はいい奴だってことらしい。こちらの資料によると、だな。十八歳で中国から密入国し、そこからコツコツ働いて現在の地位を獲得、ね。稼いだお金は国に送って、家族を養ってる、か」
  そんなことまで、君は何者なんだ?
 「天使みたいな死神だよ。さっき言ったろ?実際はちょっと違うけどな、うまい言葉がねえんだよ」
  そうなのか、私は、死んだのか。
 「まあでも落ち込むこたぁねえぜ。さっきも言ったろ?神様ってのは慈・悲・深いんだよ、つまり、オレが現れたってことは、あんたに生き返るチャンスがあるってことなんだ、いい事したやつがバカ見る世の中なんて、あんただって願い下げだろ?」
  まあ、そうだが。しかし、それは、
 「シンプルなルールだよ、シンプル、簡単、超がつくくらい、チョー簡単」
 
  そして、私は煩雑した道路を直走っている。天使のような死神の彼は、斜め上から、真っ白な翼を広げて、悠々と後を追ってきている。
  彼曰く「十分。十分だ、いいか、六百秒だぜ、オッサン。それまでに、オッサンの魂、つまり、さっき派手に後頭部さすってたオッサンが、今タクシーに揺られてるオッサンに触ることが出来たら、神様が、傷口の深さを二mm浅くしてくれて、オッサンは助かる、万事オッケー」
  しかし、私はこの国の健康保険証というものを持っていないんだ、だから、頭を殴られても病院には行けなかったんだよ。たとえ助かったとしても、治療費なんてとても払えない、
 「ああそれか。てか、オッサンはそこまで心配しなくてもいいよ、ダイジョーブだって、神様を信じろ、生きたかったらな。まあ、死にたいなら、別に構わねえけどよ」
  と、いうわけで、私は久しぶりに体を精一杯動かしている。死んでいるのに変な表現かもしれないけれど、こんなふうに運動するということが、ここ最近ではなかった。ある程度暮らし慣れてくると、ここでは何かを奪われることも、生きるために奪うことをしなくてもいい国だということが分かった。
  体は疲れていない。浮いてしまいそうなほど軽い。これは、体の頸木から離れた証拠だと彼が教えてくれた。
  彼では味気ないので名前を訊くと、すぐに教えてくれた。
 「ああ、俺の名前?ジェフだよ」
  よく見ると金髪で、青い瞳をしている。オッサンと呼ばれるのもなんなので、自己紹介しようとすると、「興味ない」の一言で片付けられてしまった。
 
  こちらが見えていない人を避けながら走っていると、すぐにタクシーを見失ってしまった。
 「何やってんだ、オッサンよ、なんでそんな面倒くせえ走りかたしてんだ?」
  しかし、ぶつかってばかりでは、
 「はあ?アホか、オッサン、死んでるんだぜ?ぶつかるわけねえよ。それに、壁だって通り抜けられるし、車にだってあたらねえって」
  そ、そうなのか?
 「ほんとに、オレがいねえと何もできねえな」
  ありがとう、ジェフ。恩に着るよ。
 「こっち、見てる暇があるんなら、どうやったら追いつけるか考えな」
 それにしても、気になっていたのだが、君の言葉遣いはとても乱れているな。まあ、現代ではそれがネイティヴなのかもしれないけど。仮にも神様の使いという存在ではないのか?
 「これはな、反乱だよ、反乱。オレは常日頃怒ってるんだよ、色々なことに対してさ。嫉妬してるんでも蔑んでるのでもねえから、勘違いすんなよ。で、この言葉の反乱だ。言葉も暴力になりうるなんてほざいた奴らに、オレはこの喋り方で中指を立ててるんだよ。『どうだ、オレの声でお前らは鼻血を流して瘤を作って胃に穴を開けたのか』ってな」
  ずいぶん過激な天使のような死神がいたものだ。しかし、その気持ちは分かるよ。
 
  走ってる。オフィスの中を、人の中を、縦横無尽に。エレベーターを通り抜けて、受付を過ぎる。目まぐるしく変わる世界、自分の走っている場所が、曖昧になっては空を見ては確認する。風など感じない、単調に前後する足の存在すら雲のように、感覚など初めからない。
 「なあ、なんで日本に来ようと思ったんだ?」
  ジェフが話しかけてきた。
  日本なら楽に稼げると思ったからだよ。
 「それで?どうなんだ、実際さ」
  君のほうが、よく知ってるんじゃないのか?酷いもんだよ、世の中なんて。同じように渡ってきた中で、堅気で生活してるやつなんて私一人じゃないかな。小さい頃から一緒に悪やってたやつは、ヤクザの下っ端にされて血だらけで死んだし、娼婦になったやつもいた。地味だけど化粧をしたら別人みたいだったよ。遊びに来てって言われてたけど、結局、私が成功する前に警察に捕まってしまって、そのあとどうなったのか。双子の姉妹は、風邪をこじらせてそれっきりさ。誰にも頼ろうとしない、強い意志を持っていたけどね、この国では役に立たなかった。私が知ってるのはそれくらいだよ。
 「なあ、どっちがマシなんだ?オッサンならさ、中国でも努力したら、結構いいとこ行くんじゃねえのか?」
  はは、そうかもしれないな。ただ、闇夜に飛ぶ虫が、自らの危険を知ってか知らずか殺虫灯に向かっていくのと似ていると思う。眩しいものに近づけば、それだけで幸せになれると勘違いしてたんだ。まあ、私の場合は、家族を養わなければいけなくてね、本国では難しかったからなんだが。
 「家族の幸せねえ。で、あんたの幸せは?」
  私?
 「そうだよ」
  私は、そうだな、しいて言えば、私の力で誰かが幸せになったら、私は嬉しいよ。
 「オッサン、それマジで言ってんの?」
  ああ、そうだよ。
 「それならさ、いいこと教えてやろうか?」
  どうしたんだ、いきなり。
 「オッサンの家族はさ、幸せだぜ」
  また、唐突だな。
 
  こういうことはよくあるのかい?
 「別に。それこそ神のみぞ知るってやつだよ。まあ、オレが担当するのは、大抵死んでもいいようなロクデナシばっかりだったけどな。オッサンが初めてだよ、あんたはしっかり人間やってるよ」
  それは、褒めていただいてるのかな?
 「変態と比べられても、なんにもならねえよ。それよりも、オッサンは目の前のことだけを考えな」
  そのことなんだが、私が頑張ったら、その、物質に触れるのかな?
 「はあ?何言ってんだよ、あんたは今地球の上に乗ってるんだぜ?触れないわけがねえよ。ただ、風船を捕まえても、その風船は風に流されていくぜ、オッサンは重量ゼロの存在だからな、影響は及ぼせねえよ」
  そうか、良かった。
  と、言い終わる前に、それは来た。凄まじいスピードとハンドリングで国産車を抜いていく漆黒のポルシェ。遠くからサイレンの音が聞こえる。この違反車を追っているのだ。ときどき、横目で見るだけだった存在だったそれが、こんなふうに役に立つときが来るとは思わなかった。
 「おい、オッサン、マジかよ!」
  ジェフが楽しそうな声で、落ち葉のようにひらひらと回りながら、ポルシェのルーフにへばりつく私の周りを飛んでいた。
 「スゲーぜ、オッサン。スティーブン・セガールみてえだ!」
  スティーブン?それは一体誰なんだ?
 「はは、海の向こうのスーパースターさ!」
 
  洗練されたボディに隙間はほとんど無かったが、風を感じないのはなかなか得だった。慣性の法則も働いていないのか、衝撃もほとんど感じない。いや、ジェフに言わせれば感じる感じないは私次第ということなのだろうけれど。
  左折しようとする安全運転のタクシーに、ポルシェが近づく。
 「あの曲がり角のところで、飛び降りろよ、さもないと見当違いのほうに行って、ゲームオーバーだぜ」
  わかったよ、ジェフ。
  体勢を立て直し、曲がり角手前でアスファルトの上に降りて、そのまま走る、と目の前にはタクシーが停止していた。運転手が外に出ている。どうなっているんだ?
 「おい、もうすぐ時間だぜ!」
  振り向くと、ジェフが楽しそうに、私を見送っていた。
 「良かったな、間に合ってよ。今度はもっと年取ってから会おうぜ」
  そうだな、その時は君に名前を聞いてもらおう。
 「本当の名前だぜ?」
  ……………。
  谢谢、你的事一生不忘记。
 「気にすんな、楽に行こうぜ」
 
 
  ふと、閉じていた視界が開けると、遠くで救急車かパトカーかのサイレンが聞こえてきて、鈍い痛みが、頭と体中の節々に響いて気が遠くなった。薄れていく意識の中で、何故か聞き覚えのある声が窓ガラスの向こうからした。
 「………だから、このイカレポンチが急に…………」
 
  次に目を覚ましたときに見たのは、白い天井。肌触りのいい寝巻き、頭には包帯が巻かれていた。ここは、ベッドだろうか。どうやら病室というものらしい。隣の患者の腕を触っていた看護士がこちらを見て、何か言って病室から出て行った。
  しばらくして戻ってきた彼女の後ろに、優しそうな女性が、良かった、とため息をついていた。どうにも見覚えのある顔だったがはっきり思い出せない。
 「覚えていらっしゃいませんか?」苦笑しながら「当然ですよね、すぐにいなくなられたんですから」
 「あ、」思い出した。「あの時いた、無事だったんですね?」
 「おかげさまで」
  頭を下げる彼女に、体を起こそうとするがうまくいかない。
 「まだ動かないでください。傷に響きます」
  彼女が通り魔に襲われていたところを助けたのが、とても昔の出来事のようだった。そういえば、この病院にいる理由も、通り魔に出会ったため、
 「ああ!私は、入院などしている場合ではないのですよ」
 「?なにか急な用事でもあるのでしょうか」
 「いや、そういうことでは。単に、その、資金面で」
 「そんなことを」ときれいに笑った彼女が言った。「安心してください、ここ、あたしの父の病院なんです。事情を話したら、無償で面倒を診なければいけないと」
 
  だからもう少し安静にしてください、私の手の上に彼女の手が乗る。
 「遅れてしまいましたが、すみませんでした、あたしを助けるためにこんな大怪我をさせてしまいまして」
 「何を言ってるんですか、あの通り魔が悪いんですよ、あなたが謝ることではない」
 「いえ、あたしの責任なんです」彼女は少し躊躇った後、意を決したように私の目を見つめた。「彼、ストーカーだったんです」
  ストーカーストーカー……。特定の人物に付きまとう行為だったか。確か、ジェフも同じ事を言っていたような、というかジェフとは誰のことだ?
 「彼、この病院の元患者で、そのときあたしが彼の介抱を手伝って、それで、彼に変な期待を持たせてしまったみたいで」
  痛恨の面持ちで語る彼女に「そうですか」ということしか言えず、二の句が次げずにいると、自嘲的な笑みで彼女が言った。
 「その彼も、もう死んでしまったんですけど」
 「え、」寝耳に水とはこのことだ。「何故?いつです?」
  しばらく沈黙が続いて、悲しそうに彼女は続けた。
 「あなたの乗っていたタクシーに、飛び込んで」
 
  その事実に驚く間もなく、病室のドアが開いて、スーツ姿の二人組が入ってきた。一人は、私よりも年上だろうか、白髪交じりの髪を後ろに撫で付けており、厳しい視線をこちらに向けてきている。もう一人は、若者で無表情だった。
 「意識が戻ったと、うかがいまして」
  老いているほうの男が、ありありと浮かぶ敵意を隠そうともせずに近づいてきた。
 「私どもは、K署の、こういうものです」と懐から黒い手帳を出した。若者のほうも同じ手帳を出すが、二人ともすぐにしまったため名前は見えなかったが、職業は判った。「ちょっと事情をお聞きしようと思いまして」
 「待ってください」彼女が、私と老いた刑事との間に入る。「事故は、彼が飛び出したという結論で終わったんじゃないんですか?」
 「いえ、今日は別件でして」と横目で私を睨みながら「この男は、どうやら密入国した中国人ではないかというたれ込みがありまして」
  ついに来る時が来てしまったか。覚悟はしていた。警察がああいう目をするときは、大抵悪い知らせなのだ。この国に来た頃も、似たような眼差しを幾度も浴びてきた。あの時は無我夢中で逃げ出せたが、今回は八方塞のようだ。体もベッドから離れたがっていない。
  しかし、その事実を知らされても、彼女は怯まなかった。
 「そんなこと関係ないじゃないですか。彼はあたしを助けてくれました。そこには、なんの垣根もないんです。ここは、病人が休まる場所です。彼もまだ十分に話せる状態ではありません。お引取りください」
  彼女の剣幕に、老いた刑事は面食らって、若者のほうは、ほら、というように呆れている。
 「それじゃあ、後日、あらためて」
  と老いた刑事だけがいそいそと病室を後にした。
 「あなたは行かないんですか?」
  怒ったままの彼女に、若者は笑みを浮かべながら答えた。
 「いや、お伝えしようと思いまして」
  疑問を浮かべている私たちに、彼は静かに言った。
 「あの目撃者の少年も同じようなことを言っていた、と」
 
 「目撃者というのは、その、どの目撃者なんでしょうか」
 「あなたの乗っていたタクシーの無実を訴えた少年です」若者は、清々しい風に吹かれたかのように気持ち良さそうだった。「被害者の男、あなたからしたら加害者になるわけですが、その彼は、サイレンの音が聞こえ始めた途端、切羽詰った顔で道路に飛び出していったと、少年は証言していました」
  サイレン、あの外車を追っていたパトカーのものだろうか。いや、どうして私はそう思うんだ?ずっとタクシーに揺られてたはずなのに。
 「事実、現場検証をしてはっきりしたんですが、轢かれた男はタクシーの側面にすごいスピードで当たっていたらしいです。まあ、タクシーのほうにも少しは責任が掛かりますが、それほど重くはならないと思います。飛び出した理由については不明ですが、罪悪感に襲われている人間は神経過敏になっていることがよくありますので、多分そういうことです」
  捕まると思ったのか、捕まろうと思ったのかは分かりませんが、と付け加えた。
  カーテンがふわりと舞った。まるで、目に見えない何かが入ってきたように。
 「すごくしっかりした少年でしたよ、言葉遣いは荒かったですけど。さっき出て行った刑事、いやな感じだったでしょ?すみませんね、いつもああなんですよ、日本人以外を悪人だと思っている節がありまして。後輩の私が尻拭いをしなければいけないとは、困ったものです」
  と両手を上げてみせる彼に、彼女が優しく笑った。
  もしかして、と私は身を乗り出していた。
 「その目撃者の少年というのは、金髪に碧眼ではありませんでしたか?」
  なんで、そう思うのだろう?
 「そうです、そうです」冗談だと受け取ったのか、彼は、私が何故それを知っているのか不思議がらなかった。「だから余計に苛立っていたんですよ、ガイジンに、それも自分よりも年下に言い負かされたもんだから」
 
  しばらく他愛もない話をした彼は、最後に、とその少年のセリフを教えてくれた。
 『密入国とか業務上過失致死ってごちゃごちゃうるせえんだよ。罪は国がつくるもんじゃねえし、罰は人が下すもんでもねえ』
  まったく参っちゃいますよ、と実に楽しそうに苦笑して、彼は帰っていった。
 「不思議ですね」その後姿を見送っていた彼女が呟いた。「入院した彼をあたしが助けて、彼に襲われたあたしをあなたが助けて、それで怪我をしたあなたを、彼が助けた」
 「そういうことになるのでしょうか」
  あと少し発見が遅かったら死んでたかもしれないんですよ、と彼女は怒ったけれど、そこには怒りや憤り、まして蔑みも含まれていなかった。それがとても嬉しかった。
 
 「私も、そろそろ帰るとします」
 「そんな、まだ動ける状態じゃ、それにお金のことなら」
 「いえ、そういう意味ではないんです。警察に、密入国したことがばれてしまいましたから」
  寂しそうな顔をする彼女に、あの若い刑事のようにおどけて見せようと肩をあげてみたけれど、うまくいっただろうか。
 「そろそろ、家族と一緒に、祖国で暮らしていこうと、思っていたんです」
  そうだ、私にはやはりこの国の水はあっていないようだ。あの通り雨のせいか、入り込んできた風が冷たく、私は派手なくしゃみをした。それとも、誰かが私の噂でもしているのだろうか。
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