KIT Literature Club Official Website

京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.45 / Wehavelife! あい
Last-modified:
| | | |

 [[活動/霧雨]]
 
 **Wehavelife! あい [#w93aeade]
 
 そう
 
  
  気が付くと、目の前は紅に染まっていた。
  何をしてたっけ?
 「お姉ちゃん……?」
  部屋の隅で妹が恐る恐る私に話しかける。
  体が震えている。どうしたんだろう?
 「嫌ぁあああ!」
  一歩近づくと泣き叫ばれた。
  え? 何? 
  ふと横を見る。
  ひび割れた化粧台の鏡には、紅く濡れた私がいた。
  

     
  ああそうだ行かないと。手足に何かがついている。何だろうこれ? まぁどうでもいいや。
  私は立ち上がる。
  ブチブチって音が聞こえたけど、気にしない。
  ドアを開けると、薄暗い廊下に緑や赤の光がぽつぽつ。
  女の人が私の方を見て叫ぶと、大きな男の人が私に向かってくる。
  邪魔。
  力いっぱい殴ったらそれは倒れた。それでいい。
  私は●●に会いたいの。
  邪魔な人はおとなしくしてて。
  何人も男の人が私の邪魔をしようとしてくる。取り押さえようとしてくるみたいだけど、みんな遅い。スローモーションを見せられてるみたい。一回叩いたら、倒れてくれるんだけど、邪魔。
  そのまま私は階段を下り、お外に出る。
  すぅー。
  あぁ、感じる、●●の匂いを。息を吸う度に●●がいることを確認する。こっちかな?
  匂いが強くする方へ歩いてみる。
 
  早く会いたいなぁ、亜衣……!
 

 
  見渡す限り白しかない空間。
  上を見ても何もない場所。
  そこに二人の少女がいた。
  一人は黒い髪で右目が隠れた二十歳ほどの女性。
  一人は小学生ぐらいの少女。
 「お姉ちゃんっ!」
  少女が女性に呼びかける。
 「芽衣……!」 
  女性が少女に駆け寄る。
  あと一歩で少女に手が届く。
  少女の体が破裂した。
  飛び散った肉体は白しかない空間を紅く染めた。
  
 「芽衣!」
  最愛の妹の名を叫びながら一人の女性が目を覚ました。
 「ハァ、ハァ……」
  呼吸を整えながら頭を整理する。
  隣にある仏壇に視線を移す。
  プルルルル。
  携帯の音が鳴る。
  携帯の表示を見ると『月代美香(つきしろみか)』と出ていた。
 「はい。もしもし」
 「あ、もしもし亜衣さん」
 「月代さん、こんな朝からどうしたんだ?」
  眠そうに目をこする。
 「えっと、今度の週末暇ですか?」
 「まあ、特に用事は無いが」
 「よかったら、一緒にご飯食べに行きませんか? 」
 「ああ、ありがとう」
 「はい。じゃあ、私はこれから学校ですので」
  ツーツー。
  相変わらずそそっかしい子だな。
  なぁ、芽衣。
  彼女は仏壇に向かって微笑んだ。
 

 
  朝方、もうすぐ学校では始業のベルが鳴る時間、車通りが比較的少ない通りにあるラーメン屋『哲』の厨房で十七歳ほどの少年と少女が昼のピークに向け準備をしていた。哲というのは店長の男性の名前だ。
 「ねぇ、硝、なんか今日匂いキツくない?」
  少女が戸棚に皿を背伸びして置く。
 「そういや、ちょっと匂いキツいかもなぁ」
  硝は少し怪訝な顔をする。
 「おやっさーん!」
  扉の向こう側へ呼びかける。
 「おう、どうした?」
  扉の向こうから四十歳ほどの男性が、大きな段ボールを軽々担ぎながら入ってくる。
 「なんか今日、匂いキツくねぇか?」
 「そうか? そうなら悪いな。まぁ、そんな日もあるさぁ!」
  おやっさんと呼ばれた男性は豪快に笑いながら硝の肩を叩き、扉の向こうへ行く。バタンと扉の音が鳴り響く。
  相変わらずラフだなぁ。おやっさんは。これは飲食店としてはどうなんだろうか? ま、おやっさんのそういうとこが好きな人も多いしな。俺も好きだし。
 「おじさんは相変わらずだね」
  少女も微笑む。
 「まぁそういう人だしな。ロミもそうだろ?」
 「私はそんなんじゃないよー」
  ロミは冗談止めてよという感じで笑いながら返す。だが、硝は知っている。彼女は哲とは違う意味でラフだということを。
 「昨夜、希望病院にて病人が脱走した模様。病院では自動ドアが割られており、病人を止めようとした警官は負傷―――」
  客席に設置してあるテレビからだ。
 「前にも何か似たことなかった?」
  ロミが口を開く。
 「似たようなことか……」
  ふと半年ほど前のことを思い出す。
  硝とロミが普段お世話になっている病院から病人が脱走したことがあった。
  彼らは知り合いの先生から頼まれその病人を連れ戻すことに成功した。しかし、その事件には裏があり、その裏に踏み込もうとしたが、逆に返り討ちにあって逃げ出したのだった。二人にとってはできれば思い出したくないことであった。不幸中の幸いは脱走した病人は無事だったということである。
  プルルルル。
  店の電話が鳴る。
 「もしもし」
  硝が素早く電話を取る。
 「あ、硝君、今大丈夫?」  
  電話の主は、知り合いの医者、神崎真(かんざきまこと)だ。
 「まあ、少しなら、で、どうしたんですか?」
  硝の声が鋭くなる。
  硝は知っていた。神崎が電話をかけてくる理由は三つ。
  一つ目はロミの体のこと。
  二つ目は以前病院に連れ戻した彼女達のこと。 
  三つ目は……。
 「できるだけ早くこちらに来てほしい。会って話がしたい」
 「わかりました」
  硝は電話をガタンと置き、エプロンを脱ぐ。
 「硝、神崎先生?」
  ロミもエプロンを脱ぐ。
 「ああ」
  硝は短く返事をし、扉に声をかける。
 「おやっさん。ごめん。神崎先生から依頼が来たから行ってくる!」
 「おう! 昼間のピークは俺に任せてお前らは行ってこい!」
 「ありがとう!」
  扉の向こうから哲は威勢のいい声で彼らを送った。
 
  
  二人は神崎のいる病院にたどり着いた。
 「神崎先生、今日はどうしたんですか?」
  硝はロビーで白衣を着た三十代の男性に話しかける。
 「硝君、今日は呼び出してごめんね」
 「いえいえ、大丈夫ですよ」
 「えっと、私は屋上に行ったほうがいいですか?」
  ロミが恐る恐る話す。
 「いや、一緒に話を聞いて欲しい。一緒に屋上に行こうか」
 「わかりました」
  三人は屋上に向かった。
  鉄製の柵とベンチしかない空間の遙か上には青空が広がっている。
  ベンチに腰をかけた神崎は深呼吸をし、重い口を開けた。
 「隣の県の病院で病人が脱走したって話知ってる?」
  硝たちの頭に今朝のニュースがよぎる。
 「えっと、希望病院ですか?」
 「知ってるんなら話は早い。単刀直入に言う、脱走した患者を連れ戻すのを協力して欲しい」
 「え?」
  硝の表情がポカンとなった。それもそうだ。隣町というのであれば分かる。だが、隣の県の病院、県境というのであればまだしも、希望病院からこの県まではそれなりに距離がある。自分たちが出る前に確保されるだろう。
 「まぁ、そうだよね。君たちの出番が来る前に警察に確保されると思うよね。俺も最初はそう思ってた」
  神崎が呼吸を整えながら話す。硝も神崎の目を見ながら感じた。
  何か底がしれない。ここまで周りの空気が重い神崎先生なんて見たことない。何かに怯え? 警戒? とにかく何か、恐ろしい物、それも……。
  神崎が硝に電話を掛けてくる理由は三つある。 
  一つ目はロミの体のこと。
  二つ目は以前病院に連れ戻した彼女達のこと。
  三つ目は何かヤバいことが起きたとき。
  硝は探偵を副業としている。とは言ってもあくまでそう勝手に自分で名乗ってるだけだ。やってることはほぼ何でも屋みたいなもので、普段は近所の手伝いをしている。
  しかし、まれにとんでもない内容の依頼が来ることがあり、神崎からの依頼は百パーセント、とんでもない内容の依頼だ。
 「脱走した患者はどんな人なんですか?」
  硝は口を開く。
  神崎は手元の鞄から資料を取り出す。
 「脱走した患者の名前は鏡原藍(きょうはらあい)、現在二十二歳」
  写真の女性は虚ろな目をした肩に黒髪がかかっている。
  特に目立った特徴はなしか。
 「へー、どんなヤバい人かって思ったらかわいいですね」
  神崎の背後から声がした。振り返ると後ろには十七歳ほどの少女が二人いた。
 「森田さんに木山さん、久しぶり」
  少女の名前は森田良子(もりたりょうこ)と木山春香(きやまはるか)である。
  二人は以前、硝が関わった事件の重要参考人であり、神崎の病院で保護されている身である。
 「久しぶり、硝さん、ロミさん」
  木山が口を開く。
 「全く病院を脱走なんて物騒なことする人もいるねぇ」
 「良子ちゃん、人のこと言えないよね」
 「その節はすいませんでした」
  森田が頭を下げる。
  半年前、森田は病院を脱走した。
  当時、木山がいじめを苦にして自殺したと思い込み自殺未遂をして、病院に搬送された。意識を取り戻した後、いじめをした人間に復讐しようと思い、病院を脱走したが、硝に連れ戻され、どこかに監禁されていた木山も無事保護されたのだ。
 「で、何か手伝うことはありますか?」
  森田が訊ねてくる。
  以前迷惑をかけた身として何か役に立ちたかったのだろう。
 「え、いや、いいで――」
 「じゃあ、彼女の場所が分かった際の確保を手伝ってもらえるかな?」
  硝の断りを神崎が遮る。
  普段の神崎ならどうしても必要という場合を除いて無関係の人間を巻き込むことはないはずだ。それなのに別に巻き込まなくても大丈夫なはずの森田と木山に協力を要請している。
 「じゃあ、ケンと亜衣さんにも連絡入れておきますね」
  硝は携帯を取り出す。
 「いや、亜衣さんには連絡しないで欲しい」
  神崎が鋭い声で制する。
 「ケンには?」
 「ああ、ケン君にはお願いできるかな」
 「分かりました」
  硝は首をかしげた。
  ケン、金田拳(かねだけん)は硝とは小学校からの付き合いであり、いざという時には頼りにしている少年である。
  亜衣、綺堂亜衣(きどうあい)は二十二歳のニートであるが、合気道をしており、戦闘では硝の知り合いの中では最も頼りになる存在だ。
  ケン、森田、木山は三人ともかなり頼りになるが、仮に戦闘になってしまったとしたら一番頼りになるのは亜衣だ。それなのに三人には頼むのが亜衣には頼まないという神崎の態度が硝は引っかかった。
  まぁ、いいや。神崎先生が何考えてるのか分からないなんてこと今に始まった話じゃない。ごちゃごちゃ考えるよりは先にやれることからやってみるか。まずは行動だよな。
 「ロミ、頼めるか?」
 「うん」
  ロミは腕につけている黒い装置、『境界創り(きょうかいづくり)』に手を掛けた。
 「頼むって何をですか?」
  森田が不思議そうに首をかしげる。
  あぁ、そういやまだちゃんと話してなかったっけ?
 「ロミ、話して大丈夫か?」
 「うん、春香さんと良子さんなら大丈夫」
  ロミに了解は得た。
 「ロミは幽霊と話すことができるんだ」
 「幽霊とですか?」
 「そもそも幽霊っているんですか?」
  二人の疑問はもっともだが、信じてもらうしかない。
 「話すだけじゃなくて、私と触れている幽霊は他の人と話すことができますし、私に触ってる間は幽霊と話すことができるようになりますよ」
 「え、本当ですか?」
  森田がロミの肩に手を置く。
 「あれ? 何も変わりませんけど」
 「それはこの『境界創り』の電源を入れているからです」
 「境界創りって何でしょうか?」
 「この黒い腕時計みたいなヤツです。これで力を押さえることあができるんです」
  森田の問いに対してロミは左手を挙げながら答える。
 「出力を調節することで完全に幽霊を見えないようにしたり、自分だけが見える状態にしたりということができるんです」
 「へぇ」
 「あと、この力は幽霊と私たちの間の『境界』を『壊す』ので、『境界壊し(きょうかいこわし)』って読んでます。 
 「その装置はロミさんと幽霊の間に『境界』を『創る』から『境界創り(きょうかいつくり)』っていうんですか?」
 「そうなの。あとね、名付けてくれたの硝なんだ」
  頬を少しだけ赤らめながら微笑む。
 「そうなんですかぁ」
  森田が関心してる横で木山は口元に手を当てながらニマニマしている。
 「何かおかしいことありましたか?」
 「いや、別に何でもないですよ。それより幽霊と話してどうするつもりなんですか?」
  木山はニヤけ顔が少しだけ残っていたが話を戻す。
 「幽霊のみなさんに鏡原さんの居場所を探してもらうためです」
 「なるほど。でもどうしてわざわざ幽霊に聞くんですか?」
 「幽霊だと普通の人から見えないので、生きている人じゃ調べられないことを調べれたり、交通規制とかに引っかからないので色んなところを動き回れるんですよ」
 「そうなんですか」
 「じゃあ、電源切りますね」
 「え、すごい!」
  ロミの肩に手を置いていた森田には見えたのだ、さっきまでここにはいなかった女性が。彼女は肩までかかっている胡桃色の髪がキレイな女性だった。
 「あ、見える?」
  女性は手を振って挨拶する。
 「あ、はい」
 「えっ? ホントに見えてるの!?」
  木山もロミの手に肩をおく。
 「すごっ!」
 「えへへすごいでしょ」
  ロミがドヤ顔を決める。
 「あ、自己紹介していい?」
  女性が微笑みながら訊ねる。
 「あ、すいません。興奮しちゃって」
 「私は神崎千尋(かんざきちひろ)といいます。よろしくね」
 「あ、よろしくお願いします。神崎ってひょっとして神崎先生の妹さんですか?」
 「いや、姉です」
 「え? 嘘でしょ? めっちゃ若い!」
  森田が声を上げる。
 「えへへ、そうでしょ」  
 「千尋さん、いつものお願いします」
 「いつものね捜索ね。まっかせて! ちょっと、近くの公園にいる人逹に頼んでみる」
  千尋さんは意気揚々と返事する。 
 「ありがとうございます」
 「じゃ、俺はとりあえず――」
  硝が携帯を取り出そうとした時だった。
 「うわぁああ!」
  下から誰かがもめる音が聞こえる。どうやら病院と道路を挟んで向かい合っている公園からしているようだ。緑や遊具が多く球技ができる程度に広いから子供がよく遊びに来るが、今聞こえた声は明らかに子供の遊び声ではない。何か事件が起きているのかもしれない。
 「ロミ、警察呼ぶ準備してくれ」
 「分かった」
  ロミは携帯を取り出す。
  硝なら、例えどんな相手が襲ってきても大丈夫だけど、やっぱりこういうときは警察を呼ぶのが一番いいんだよね。この前も亜衣さんが人助けのために警察に頼らずにチンピラ集団を潰したら後で面倒なことになったって言ってたし。
 「うわぁああ!」
  再び男性の叫び声が響く。
  何が起きてるんだ? 何か嫌な予感がする。
 「じゃ、様子見てくる」
  屋上から駆け下り、公園にたどり着いた時、目の前に男性が転がってきた。
  公園では、一人の女性に複数人の男性が飛びかかるが、逆に蹴り飛ばされ地面に倒れされていた。
  蹴り飛ばした男性に興味なさそうに彼女はゆらゆらとこちらに向かってくる。
  あれ? 
  よく見ると、転がっている男性の服装は警官っぽい。警官が女性に襲いかかったけど、返り討ちにあった? いや、違う! コイツは、まさか……!
  あわてて神崎先生から見せてもらった資料を思い出す。
  鏡原藍……さっそく目の前におでましかよ。多分、誰かが鏡原が発見して警察に通報、警官が確保に向かったけど返り討ちにあったってところか。警官複数人を瞬殺するほどの戦闘力、これは森田さんたちに協力を頼みたくなる訳だ。だからこそ亜衣さんに頼むべきだよなぁ? まあいいや、そんなこと気にしてる場合ではない。
  消しゴムを一つ取り出し、片手を鏡原の方に伸ばして指先で弾く。 
  消しゴムの弾丸(イレイサー・ストレート)。
  名前の通り消しゴムを弾丸として飛ばす技だ。 
  硝は消しゴムを武器として戦闘する。
  これは彼の最も基本的な技だが、衝撃力はプロボクサーのストレートパンチに匹敵する。並の相手であれば一撃で沈む。
  その一撃を鏡原は――。
  嘘だろ。 
  硝に戦慄が走る。
  鏡原は硝が放った消しゴムを受けても何ごともなかったかのように、病院に向かって歩いているのだ。
  これを受けて立っていたヤツはいたけど、ノーダメージのヤツは初めてだ。どうする?
  硝が考えるより先に鏡原が間合いを詰める。
  速い!
  鏡原の蹴りが眼前に迫るが、体を反らし紙一重で躱す。
  上体を戻し、反撃に転じようとした瞬間、腹部に衝撃が走る。
  即座に放たれた二撃目の蹴りに硝は飛ばされる。
  受け身をとりすぐに立ち上がるが、膝をつく。
  三撃目が迫る。
  消しゴムを両手で二個ずつ計四個の消しゴムを数コンマ秒時間差を置いて弾く。
  消しゴム散弾銃(イレイサー・ショットガン)!  
  鏡原は衝撃で少し後ろに退く。
  すかさず森田は走り出し、警棒を拾い背後から後頭部目がけて一閃!
  パシッ!
  鏡原は森田の一撃を左手で受け止め、そのまま投げ飛ばす。
 「森田さん!」
  森田はなんとか立ち上がる。
 「大……丈夫」
  もうすでに息が切れていた。
  半年前、森田は硝と戦闘をした。結果的に硝が勝利したが、かなり苦戦を強いられた。その森田が一撃でかなり消耗している。
 「だったら、これはどうだ」
  硝は空中に数十個の消しゴムをばらまき、両手で連続パンチを打つかのように弾く。
  消しゴム連弾(イレイサー・マシンガン)!
  鏡原に命中し一瞬退く。
 「あははは」
  鏡原は弾幕などまるでないかのように一瞬で距離を詰める。
  嘘だろ!?
  硝の思考より速く地面に頭を叩きつける。
 「白川さん!」
  嘘でしょ! 白川さんの攻撃が通用しないなんて!
  半年前、白川さんと戦ったけど、私は白川さんに全く歯が立たなかった。白川さんの攻撃が弱くない、むしろめちゃぐちゃ強いということは受けた私は知っている。この女は異常だ。私が勝てる相手じゃない……でも……やるしかない!
  警棒を振りかぶり走り出す。
  しかし、森田の一撃よりも早く鏡原の右ストレートが森田の腹部に炸裂した。
 「が……」
  森田はそのまま飛ばされ公園の砂場にダイブした。砂埃が舞い、森田の姿が隠れる。
 「良子ちゃん!」
  木山が森田に駆け寄る。
 「しっかりして良子ちゃん!」
  砂まみれの森田を抱き上げるが、返事がない。
 「あっちから亜衣の匂いがする……」
  鏡原はつぶやきながら病院のほうに歩き始める。        
  こんな危ないヤツを病院に近づけるわけにはいかない。
  硝は立ち上がろうとするが立ち上がれない。
  何かが鏡原に命中したが、何かを気にすることなく鏡原は歩みを止めない。
  木山が二丁のエアガンを発砲しながら、鏡原に走り出すと、さすがに気になったのか木山の方を向く。
  ドガッ!
  木山の飛びまわし蹴りが鏡原の顔面に炸裂し、鮮血が飛び出る。
 「いくら硬くても顔面はダメージを受けるみたいね」
  木山は攻撃の手を緩めない。
  至近距離からエアガンを連射。しかも顔面に。
  白川さんや良子ちゃんの攻撃も通用しない相手に火力で二人に劣る私がコイツに勝つには急所を狙い続けるしかない。防御力が高い相手はいても、急所がない人間なんてありえない。防御力と体力が無限な人間なんてまずいない。急所を狙い続ければ必ず勝機があるはず。
  弾丸が切れても瞬きするよりも早く入れ替える。鏡原が後ずさりしてもそれを追いかけるように距離をつめる。的確に顔面だけを狙い続ける。
  良子ちゃんを簡単に倒すほどの攻撃、私が受けたらひとたまりもない。攻撃する隙を与えない。攻撃の手を緩めるな。コイツが倒れるまで。
 「あはっははははははっはははははっははは」
  鏡原が笑い始めた。
  そして―――。
  木山の視点が横に傾く。鏡原の右ストレートが木山の顔面に入ったのだ。
  あ、ヤバ……。
  自身の攻撃の手が止まったことに気づき、エアガンを構えようとしたのは、鏡原の飛びまわし蹴りが木山の側頭部に炸裂した後だった。
  ガッ!
  木山の体が地面に勢いよく倒れた。
 「邪魔……でもいいや。これくらいの障害があった方が会えた時うれしいもの」   
  鏡原は血を手で拭いつぶやく。
 「さてと……」
  改めて彼女は病院に向き直る。
 「クッソ!」
  硝は弾丸のごとく鏡原の前に飛び出す。
  両脇をしめ、空中に投げた消しゴム五個一つの塊として右足を踏み出すと同時に両手を突き出し放つ。
  消しゴム拳銃弾(イレイサー・マグナム)!
  鏡原は足で砂埃を立てながら後方数メートル飛ばされる。
 「へぇ、あいの試練はまだ続くのね」
  鏡原は不気味に笑う。
  硝は間髪入れず消しゴムを大量に弾く。弾速は先ほどの消しゴム連弾より遅い上に鏡原とは違う方向に向かった消しゴムもあるが、途中でまるで意思を持つかのように消しゴムは様々な方向から鏡原へ向かっていった。
  消しゴム婉曲連弾(イレイサー・ストレンジ・マシンガン)!
  様々な方向から襲ってくる消しゴムに対して鏡原は頭の後ろに左手を当てながら笑っていた。
 「面白いことをするのね……お返し」
  右手で何かを弾いた。
  弾いた何かは勢いよく硝の顔面に命中した。
  嘘だろ?
  彼女が弾いたのは硝が放った消しゴムであったのだ。
  硝は地面にあおむけに倒れる。 
 「デタラメ過ぎだろ」
  なんとか上体を起こす。
  鏡原は不思議そうな顔をしていた。
 「あれ? あっちからも亜衣の匂いがするけど、なんか不純物が混ざってる気がする。んー、でもこっちからする匂いはなんか動いてない気がする……」
  意味の分からないことをつぶやいている。
  今しかない。硝は立ち上がり消しゴムを構え、駆け出すと同時に消しゴムを後ろに射出する。   
  消しゴム加速器(イレイサー・アクセル)!
  加速で一気に距離を詰める。
  普通に攻撃しても通用しなかった。なら加速の勢いをつけ威力を高めればいい。
  消しゴム拳(イレイサー・マグ)――!
  鏡原の掌底が硝に炸裂した。
 「あっちに行こ」
  地面に崩れる硝の方を向くことなく歩き出した。 
 
 「みんなごめんね」
  病室の中、神崎は三人のケガの手当てをしながら頭を下げる。 
  幸い三人とも命には別状はなかった。 
  しかし、木山だけは未だに意識が戻らない。
 「何者なんですか彼女は?」
  硝がごもっともな疑問を投げかける。
  鏡原のアレは病人が持っていい戦闘力ではない。
 「彼女はかつて森田さんと木山さんが通っていた高校の元生徒だ」
 「海?高校の?」
  海?高校、森田と木山が通っていた高校で、何か怪しい影がある高校だ。
  半年ほど前、硝とロミはこの学校を調査しようとしたが、結局返り討ちにあったことがある。
 「そういえば聞いたことがある」
  ベッドで寝ている森田が口を開く。   
 「噂で聞いただけなんですけど、半年ほどしか通ってなかったけど、驚異的な速度で成長し、教師よりもはるかに強くなった生徒がいたって」
  海?高校ではなぜか戦闘の訓練を行っている。
  教師の実力はとても高く、硝でも勝てるかどうか分からないほどだ。
  そいつらよりもはるかに強い。
  鏡原の強さは確かにその通りだ。
  硝は教師のうちの二人と戦ったことがあるが、ある程度渡り合えていた。しかし、鏡原に対しては全く歯が立たなかった。
 「で、どうしますか? 鏡原が強いというのは分かりましたけど、何か作戦は?」
  硝が訊ねる。
 「……ごめん……ない」
  鉛のように思い空気が漂う。
 「ないって」
 「強いのは知ってた。でもまさかここまでとは思ってなかった。君に森田さん、木山さん、ケン君のうちの誰か一人が加勢すれば十分制圧できる相手だと思ってた」
 「あの、どうして亜衣さんには頼まないんですか?」
  ロミが訊ねる。
 「それは……」
  神崎の表情が曇る。
 「神崎先生、鏡原は『亜衣』と言っていました。それって――」
 「……七年前、鏡原藍は亜衣さんの妹さんを殺害した人間で、同時に亜衣さんが無理心中をしようとした相手だよ」
  

 
  昼過ぎ、ラーメン屋『哲』のカウンター席に一人の女性がいた。
 「哲さん、どうして私を呼び出したんですか?」
  席に座っている右目が髪で隠れ、白い長袖の服、黒のロングスカートを身につけている女性、綺堂亜衣は訊ねる。
 「まぁまぁ、いいだろ?」
  厨房で哲はを?を茹でながら返す。
 「別にいいんですけどね」
 「で、最近調子はどうよ?」
 「どうって特に何も……」
 「そっか」
  スープの中に麵を入れる。
 「お待たせ! 豚骨醤油激辛ラーメンニンニク唐辛子マシマシ大盛り」
 「いただきます」
  静かに麵をすすり始める。
 「ホント、それしか頼まねえよな」
 「ええ」 
  そういえば、昔は色々頼んだのだが、結局これに落ち着いたんだよな。
 「いつも思うんだが、辛くねぇのか?」
 「辛いですよ」
  むしろ辛さしか分からない。それでいい。他の人は辛いというより痛いと言う。痛いでいい。それがいい。人によっては匂いの段階で辛い、痛いと叫ぶ。それでいい。
 「ごちそうさまです」
  汁の一滴まで飲み干し、亜衣はそのまま出て行こうとする。
 「なぁ、今日これから暇か?」
 「特に何か用事があるわけではないですが、どうしたんですか?」
 「よかったら店手伝ってくれないか? 硝もロミも依頼でいないんだ」
  珍しいな。そんなこと頼むなんて。いつもは長時間二人がいないときでも私に手伝いを求めることなどなかったのだが。
 「別にいいですけど、私は止めといた方がいいですよ」
 「あぁ、右目はやっぱり隠しておきたいのか」
 「ええ、一応絆創膏は貼ってるんですけど……」
  別に働きたくない訳ではない。普段何かとお世話になってるし。でもそうじゃないんだ……。
 「そっか……」
  哲は少し頭をひねる。
  厨房で働くとなると、髪の毛が料理に入らないように前髪は帽子等で防がないといけないが、亜衣は右目を髪で隠したい。となると、厨房で働かせることはムリ。
 「じゃあ、レジ打ちを頼んでいいか?」
 「分かりました」
 

 
  夕方になると一人の少年、金田拳が病室に駆け込んできた。
 「硝!」
 「ケン」
  ベッドに座っている硝が返す。
 「ケン君ありがとう」
  椅子に座っていた神崎が立ち上がる。
 「で、えっとかなりヤバいヤツが姐さんを狙ってるって聞いたんですけど、本当ですか?」
  ケンは亜衣を姐さんと呼んで慕っている。
 「まだ分からないけどね。その可能性は高い」
 「神崎先生、ケンが来たので話してくれませんか?」
 「……分かった。本人の許可無しで話すのは気がひけるんだけどな」    
  神崎は呼吸を整える。
 「さっき言った通り、鏡原藍は亜衣さんにとって妹の敵だ」
 「どうして鏡原藍は亜衣さんの妹を殺害したのですか?」
  硝は神崎に問いかける。
 「鏡原藍は亜衣さんに恋心を抱いていたらしい」
 「恋心!?」
 「えっと、女性同士でですか?」
  ロミは口に手を当てる。
 「まぁ、いいんじゃない。同性を好きになっても」
  森田は指摘する。
 「で、それからどうなったんですか?」
 「亜衣さんは妹が大好きで、鏡原藍からのアプローチは無視してきた。でも、鏡原の我慢に限界が来て、邪魔だった妹を殺害して亜衣さんを自分だけの物にしようとしたんだ」
 「そこでブチギレした姐さんにボコられたってところですか?」
 「うん」
  神崎はまた息を整える。
 「で、鏡原藍は亜衣さんに会いたがってました。これは無理心中を図られた恨みでしょうか? それともまだ亜衣さんのことを諦めてないのでしょうか?」
 「……硝君たちから聞いた限りだと多分後者だと思う」 
 「もし仮に姐さんと鏡原藍を会わせたらどうなりますか?」
  一瞬空気が凍る。  
 「……下手したら二人とも死ぬ」
  神崎が今までに無い低い声で答える。
 「死ぬってどういうことですか!?」
  ケンの怒鳴り声が響く。
 「ケン、ここ病院」
 「あ、すいません……」
  硝の制止で一旦退くが、全然落ち着けていない。
 「亜衣さんは必ず鏡原藍を殺そうとする。鏡原藍は亜衣さんを自分の物にしようとする。さてここで両者が出会うとどうなると思う?」
  神崎の問いかけ。
  鏡原は亜衣さんと愛し合いたい。亜衣さんは鏡原をどうしたいかは分からないけど、多分復讐したい、殺したいって思っていてもおかしくない。だとしたら、嫌な答えが出てきた。
 「……心中」
  ケンが壁に寄りかかりながら座り込む。
  自分と一緒に死ねば自分の物になる。
  死んで一緒になろう。鏡原藍であればそう考えてもおかしくない。
  亜衣と鏡原藍を会わせてはならない。
 「とりあえず哲さんに頼んで亜衣さんはかくまってもらってるけど」
 「姐さんに鏡原藍のことは話してないですよね」
 「もちろん。話したら止めなければならない人が二人に増える」
 「そうですか……」
 「斉藤さんに何か情報ないか聞いてくる」
  硝はよろめきながら病室を出る。斉藤さんとは硝たちの知り合いの記者である。 
  どうすれば鏡原藍を止められるのか?
  それは誰にも分からなかった。
 

 
 「じゃあ、私はこれで」
 「もう夜遅いから泊まってけ」
  夜、閉店後、帰ろうとする亜衣を呼び止める。
 「哲さん、ありがとうございます。ですけど、大丈夫ですよ」
 「いや、今日は泊まってけ」
  哲のまなざしは鋭かった。
 「それって黒山さんたちの依頼に関係してるんですか?」
  空気が変わった。
  両者の間に電流が流れる。
 「どうしてそう思ったんだ?」 
  哲さんは笑ってはぐらかそうとする。
 「とぼけないでくれませんか」
  亜衣の声が店内に静かに響く。
 「どうやら隠しきれないみたいだな」
  溜め息をついて机にもたれかかる。
 「そうだ……実はな……」
  ゴクリ。
  哲はつばを飲む。
 「お前のサプライズパーティーをな――」
 「嘘ですね」
  哲は決まりが悪そうな顔をする。
 「嘘だって決めつけるのは早すぎないか?」
 「特に祝ってもらうことないですし」
  亜衣の眼光がさらに鋭くなる。
  もう嘘は通用しなさそうだ。
 「ちょっと依頼で、お前をここから一歩も出すなと言われているんだ」
 「どうしてですか?」
  この時間に白川と黒山さんがいない時点で大体察しはついてた。大抵の依頼はすぐ終わるものだし、手伝いにはそこそこすぐ戻ってこれる。戻って来れないということは何でも屋というよりは探偵よりの仕事をもらったのか。ということは依頼者は神崎先生か。あの人ぐらいしか探偵らしい依頼を白川にする人間はいない。だが、どうして哲さんは私を呼び止めようとするんだろうか? あの人が私を呼び止めたい理由としてありえる理由は、そしてあの二人がいないということはおそらく……鏡原……。
 「事情は終わったら話す」  
  一歩亜衣が詰め寄る。
 「だからお前は――」
  プルルルル。     
  電話の音が鳴り響く。
 「電話でてもいいか?」
 「どうぞ」
  グッドタイミング。でも誰だ?
 「もしもし」
 「おやっさん! 亜衣さんはいるか?」
  硝の声から焦りが感じ取れる。
 「どうした硝?」
 「鏡原藍がそっちに向かっている! 早く亜衣さんを連れて逃げてくれ!」
 「分かった! 亜衣ちゃん連れるからどっちに行けばいい?」
  哲は亜衣の手を掴み裏口へ走り出す。
 「哲さん、どうしたんですか?」
 「説明は後だ! 早く逃げるぞ!」
  急げ!
  哲は亜衣を助手席に乗せ、白い軽トラを急いで出す。
  町の明かりはほとんど消えた深夜の道路。
  車通りは少ないから遠くへ逃げることは難しくない。
  どこへ逃げる?
  相手がどう来るかは分からないが、さすがに高速道路には進入できないはずだ。とりあえず一番近くの高速道路を目指すか。
  行き先はそれから決めればいい。
  ハンドルを握る手が汗で濡れる。
  亜衣は質問したくて仕方なかったが、今の哲に対してはできなかった。
  ドサッ!
  荷台に何かが落ちてきた音がした。
  亜衣の背筋に悪寒が走った。
  この感触、この気配は……まさか――!
  哲の方を振り向くと彼の顔は真っ青だった。
  パリン!
  運転席のドアの窓が割れ、突如現れた足が哲の顔を蹴り飛ばす。
 「ガッ……」
  哲はなんとかブレーキを踏み、事故になるのを防ぐ。
  即座にドアを開け、足の主を落とそうとするが、躱される。
  そのまま外に出るが、真上からかかと落としを受け地面に倒れる。
 「やっと会える」
  鏡原が哲の頭を踏みつける。
 「行かせるか……!」
  ここでコイツを亜衣ちゃんに会わせるわけにはいかない! そんなことじゃあ硝やロミに会わせる顔がねぇ!
  哲は最後の力を振り絞り鏡原の足を掴む。
 「哲さん!」
  亜衣がドアを開け外に出た時に視界に入ってきたのは、血まみれになって倒れている哲と――。
 「やっと会えた」
 「お前は――!」
  返り血で濡れて笑っている敵だった。
 「鏡原……!」
  亜衣は殺意をむき出しにする。
  それに対し、鏡原は真正面から満面の笑みで亜衣に抱きつく。
 「亜衣っ!」
  気持ち悪い! 
  亜衣は鏡原が抱きついたその瞬間に体を回転させ、鏡原を引き剥がす。
  飛ばされた鏡原は後頭部を左手で押さえながら、地面を転がり、即座に立ち上がり、亜衣に抱きつきにかかる。
  亜衣は抱きつきにかかった鏡原を抱きつきにきた勢いを利用し、地面に転がす。
  また鏡原は立ち上がり抱きつきに行く。
  亜衣は即座に鏡原を転がそうとするが、鏡原は体の動きを急に変え、亜衣に背後から抱きつく。
 「あぁ、やっぱりいい匂い」
 「お前……!」
  虫唾が走った。体を一瞬回転させ鏡原を振りほどくが、振りほどいた後も悪寒で体が震える。気持ち悪い! なんだこれ。二度と関わり合いたくない。もう視界に入れたくない。
  先ほどと違い亜衣の精神は憎しみではなく、恐怖に支配されていた。
 「もっと……!」
  鏡原が奇声を上げながら突撃する。
  亜衣は悪寒に震えながら、鏡原の動きを流そうとするが、鏡原は亜衣の動きを見切り、その先へ行く。
 「もっと……! 亜衣を感じたい!」
  亜衣の体に抱きつき、五感で綺堂亜衣という人間を味わった。もちろんその度に亜衣に振りほどかれるが、少しずつ亜衣が振りほどくまでにかかる時間が延びていた。
 「くっそ……!」
  これは亜衣が疲れているのではない、鏡原が亜衣の動きを観察し、学習しだんだん振りほどかれにくくなるように抱きついているのだ。
  一回目は数秒で振りほどけていたが、十回を過ぎた頃には一分、二十回目は亜衣は地面に押し倒された。
 「ああ! いい! この感触! この匂い! この弾力も!」
  鏡原は亜衣の胸に顔を押しつける。
 「離れろ!」
  亜衣は必死に振りほどこうとするがうまくいかない。
  鏡原は亜衣の服の中に手を入れる。
  亜衣を襲う悪寒がさらに強くなる。
 「離れろ! 止めろ! 気持ち悪い!」
 「亜衣の肌に触れたい」
  そのまま、鏡原は亜衣の服を剥ごうとする。
 「あぁああああ!」 
  亜衣の服の破片が花びらのように散らばった。
  鏡原が自身の服に手を掛け、自分から手が離れた瞬間に自ら服を破き脱出したのである。  
  破片が地面に落ちる前に数歩距離をとる。   
 「亜衣、傷増えたね」
 「……おかげさまでな」
  服が脱げたことにより、白いブラを囲むように、否、体中いたるところについた傷が激昂に照らされた。今まで長袖の服を常に身につけることで隠し続けてきた傷跡を。
  その傷跡は一つではない、いくつもあった。
  切り傷、擦り傷、打撲痕、火傷、目立たない小さなものから、遠目でも分かるぐらい目立つものまで様々だ。
  服が脱げたことで吹っ切れたのか、亜衣の目は恐怖ではなく、いや、それよりも強い憎しみが宿っていた、いや、戻ってきたのだ。
 「素敵、その傷も全部含めて」
  鏡原は舌をさえずりながら亜衣の体を見つめ、そのまま抱きつきに行く。
  
  殺す。
 
  亜衣は抱きつきにきた鏡原の右腕を掴み体を回転させ、背中から地面に叩きつけようとする。
  四方投げ。
  合気道の基本技の一つであり、最も死亡事故が多い危険な技だ。
  亜衣ほどの実力であれば受けた相手は一般人であれば、いや、一般人でなくともただでは済まない。
  そう決まれば。
  後頭部に衝撃が走った。最後に視界に映ったのは左手を後頭部に当てながらバク転をしている鏡原。
  投げられる瞬間右足で地面を蹴り、バク転をし、その勢いで後頭部に蹴りを入れたのか……化け物が……。
  意識が飛び 倒れそうになる亜衣の体を鏡原が支える。
 「後でいっぱい気持ちいいことしようね」
  鏡原はねっとりとした声で囁く。
  その後、亜衣をお姫様抱っこで抱え、ゆっくりと歩き出した。
 

 
  病院に哲が搬送された。
  幸い命に別状はなく意識もすぐに回復したが、アバラが五本折れており、頭部にもかなりダメージがあるそうだ。
  硝逹は哲から大体の状況を聞いた。 
 「クッソ!」
  ケンは病院の壁を殴りつける。
  壁からポロポロと破片が落ちる。
 「ロミ、亜衣さんの居場所を探してくれないか?」
 「分かった。千尋さんに頼んでみる」
  ロミは部屋を出て屋上に向かう。
  ケンも病室を出て行こうとする。
 「ケン、どこに行くんだ?」
  硝が制する。
  ケンは唇を噛む。
  何もできねぇのかよ!
 「クッソ!」
  ただ叫び声が響き渡った。
 
 * 
  
  よく晴れた青空の下、学校の屋上で二人の女子中学生がお昼ご飯を食べていた。 
 「篠崎さんって彼氏作らないの?」
 「今はいいな」
  パンを頬張りながら答える。
 「ええ、篠崎さんかわいいのに、立派な物あるのに、なんで?」
 「芽衣がいるからいい」
 「また妹ちゃんの話ね」
 「悪いか?」
 「悪くはないけど……」
  頭を押さえる。 
  彼女は不思議そうに見つめる。かわいい妹がいるから彼氏はいらない。彼女にとって別に何もおかしなことはない。
  篠崎亜衣(しのざきあい)には最愛の妹、芽衣がいる。
  亜衣は両親が小さい頃に離婚し、母親についた。芽衣は再婚した父親の連れ子だ。
 「亜衣ー!」
  叫び声と同時にドアが開く。
  来たよ……。
  亜衣は諦め気味に助けを求めるが、友人は苦笑いする。
  勢いよくソイツは亜衣に抱きつく。
 「亜衣! めっちゃいい匂い!」
 「なぁ、離れてくれないか。暑い」 
  亜衣はあきれ気味につぶやく。
 「ええーいいじゃん。減るモンじゃないし。それに」
  彼女は亜衣に顔を近づける。
 「暑かったら脱げばいいじゃん」
  彼女の手が亜衣の服の下に滑りこむ。
 「止めろ!」
  体に悪寒が走る。見られたくない!
  気が付いたらソイツを地面に叩きつけていた。
  鼓動が速い。息が切れる。何か目覚めてはいけない何かが目を覚ましたみたいだ。
 「篠崎さん?」
 「すまない。やり過ぎた」
  地面に倒した彼女に手を差し伸べる。
 「ありがとう! 亜衣! 結婚して!」
  彼女はそのまま亜衣に抱きつこうとする。
 「嫌だよ!」
  チューしてこようとする彼女を腕で押し返そうとする。
 「篠崎さん、愛されてるね」
 「いらない。というかお前誰だ?」
  なんかどっかでみたことがある気はするが、全然思い出せない。何かしたっけ? 多分落とした消しゴムを拾ったとかそのぐらいしか接点ないと思うのだが。
  彼女が突然離れる。
 「嘘? 忘れたの? あんなに愛し合ったのに?」
 「愛した覚えないぞ」
  信じられないというような表情をしてくるが、覚えがない。全く。面白いほど。
 「私よ私、鏡原藍。忘れたの?」
 「ああ、清原(きよはら)さんか」
 「清原じゃない、鏡原よ鏡原!」
 「あーはいはい」
  亜衣は視線を逸らす。
  面倒だな。どうにかならないのか……。
 「あのね。私は真剣に愛してるの。女が女を愛する? 気持ち悪いって思う人もいるかもしれないけどね、そうじゃないの。私からしたら男女間の恋愛の方が気持ち悪い。どうしてって? それはね、そもそもどうして男女間で恋愛しようと思うのか? そもそも男女間での好きっていうのはね一言で言ってしまえば『セックスしたい』っていうことなのよ。所詮男女間の恋愛なんて生物が子孫を残すための本能なのよ。セックスが気持ちいいのは気持ちいいことはやりたいじゃない。生物が子孫を残すための行動は気持ちいいようにしたいじゃない。そう。そういうことなのよ。現に鳥が卵を温めるのは卵をふ化しやすくするためではなくて単に卵がひんやりして気持ちいいからなのよ、そう、気持ちいいことが都合がいいようになってるの。でも、同性間の恋愛はどう? 子孫残せる? 残せないでしょ。本能じゃないの。生物としてはメリットがないの。なのに好きなの。これこそ本物の愛なのよ。だから、亜衣、結婚しよ!」
  鏡原の目の前には誰もいなかった。
 
  少し古そうな木造の一軒家に亜衣は帰宅する。
 「ただいまー」
 「おかえり! お姉ちゃん!」
  小学生の少女、芽衣が玄関に飛び出てくる。
 「芽衣!」
  亜衣は獲物を狩る猛獣のように芽衣に抱きつく。
 「ぐえ」
 「ああかわいい。癒やされる」
  犬のように頬ずりする。
 「苦しいよお姉ちゃん」
 「あと三十分こうしてていい?」
 「うん。あと三十分だけだよ」
 「ありがとうー! 大好き!」
 「玄関で何やってるのよ」
  あきれ気味にやつれた女性が声をかける。
 「あ、母さん、ただいま」
 「もういい加減芽衣から離れなさい。苦しそうでしょ」
 「ええ、あと三十分だけいいじゃん」
 「駄目よ。先着替えてきなさい」
 「……分かった」
  溜め息交じりに芽衣から離れる。
 「また後でね」
  芽衣の頭をポンポンして、部屋へ向かう。
           
  母親は机にうつ伏せになって寝ている。
  コンロに置いてあるお鍋を見るに晩ご飯の支度はできていて、休憩といったところだろうか。
 「亜衣」
  母が呼びかける。
 「何?」
 「今日、お父さん帰り早いよ」
  母が暗い表情で言う。
 「……そう」 
  亜衣の表情も曇る。
  前は脇腹を殴られたっけ……。
  父は普段は温厚な人だ。仕事熱心で収入もいい。
  ただ、お酒が入るとただの暴力マシーンだ。何かにこじつけてこちらを殴る蹴る、ヒドいときは熱したスプーン等の金属を押しつけてくる。
  父がお酒を飲むと、亜衣は芽衣を部屋へ避難させる。その後、ずっと部屋の前にいる。芽衣を守るために。
  そのおかげか、芽衣だけは未だに無傷だ。亜衣の体にはもう消えないであろう傷が残っている。母にも。
  お酒を止めさせようとしたり、家にあるお酒をノンアルコールにすり替えてもムダだった。
  必ずお酒を買って帰ってくる。必ず飲む。毎日。
  児童相談所に相談しようとしたが、母は嫌がる。
  父はどこかのお偉いさんのようで、収入がいいので今の生活を続けたいらしい。
  狂ってる。
 
  亜衣は母の勧めで合気道を習っていたが、今の亜衣の技術では女子中学生と成人男性の体格差を覆せない。
  どうすることもできないのだ。
 
  亜衣が中三のときの九月。
 「ああ、かわいい!」
  父の帰りが遅い時は芽衣を思いっきり愛でれる。父が帰ってきてお酒を飲むとそれどころではないから。
  勢いよく玄関が開く。
  あれ? いつもならば「ただいまー」とまだ温厚な感じで言ってくるのに、どうしたんだろう?
  疑念は沸きながらも、芽衣を愛で続ける。
 「ふざけるな!」
  下から父の怒鳴り声が鳴り響く。
  いつもと何かが違う。
  いつも父が狂うのはお酒を飲んだ後だ。だから、帰ってきてから狂うまである程度時間はある。なのに今日は帰ってすぐに狂った。いや、狂った状態で帰ってきた。飲み会帰りか? いや、飲み会帰りだと飲み会である程度発散した後だから少しマシだ。
  亜衣は部屋を出る。
  リビングに入る。
 「ごめんなさいごめんなさいごめ――」
  プシュ。
  紅く濡れ倒れている母と立っている父だ。
  どうして?
  父の手には紅い包丁が握られている。
  どうして? それよりも――!
  慌てて二階に上がる。
  芽衣の部屋に入る。
  部屋の鍵を閉める。
 「お姉ちゃん、どうしたの?」
  警察を呼ばないと――!
  携帯を取り出し、一一零にかける。
 「おい! 出てこい!」
  ドア越しに怒鳴り声が鳴り響く。 
  ドン! ドン! ドン!
  ドアからこちらにまで振動が伝わってくる。
 「はい。こちら――」
  警察に電話が繋がった。早く――。
  ドガッ!
  ドアが勢いよく開く。
  鍵が壊され、紅く濡れた父が入ってきた。
  包丁を持ってこちらに迫ってくる。
 「キャアアアアアア!」
  芽衣が絶叫する。
  心臓がバクバクする。
  鼓動が速くなる。
  父の一振りを躱そうとするが、右目の上を掠める。
  痛い!
  右目に血が入る。呼吸が乱れる。体の震えが止まらない。
  父が大きく包丁を振りかぶる。
 
  死。
 
  死にたくない! 芽衣を守りたい! 生きたい!
  
  やらないと。ヤらないと。
  
  気が付くと、目の前は紅に染まっていた。
  何をしてたっけ?
 「お姉ちゃん……?」
  部屋の隅で妹が恐る恐る私に話しかける。
  体が震えている。どうしたんだろう?
 「嫌ぁあああ!」
  一歩近づくと泣き叫ばれた。
  え? 何?
  ふと横を見る。
  ひび割れた化粧台の鏡には、紅く濡れた私がいた。        
  足下を見ると紅に染まり動かなくなった父がいた。
  
  何が起きたかは電話越しに警察に伝わっていた。どうやら私は自分を殺そうとしてきた父を返り討ちにしたらしい。
  父が狂った理由は職場に送られてきた一通の手紙で、手紙の中には母が他の男性と一緒にホテルに入ろうとしている写真があった。
  母は浮気しており、母にとって父はただのATMだったのだ。
  
  その後、どうなったかは詳しいことは覚えてない。特に刑罰がなかった理由は正当防衛か、過剰防衛か、執行猶予か、未成年だからかなんとか忘れた。
  名字は母の旧姓の綺堂(きどう)に変え、少し離れたところで芽衣と二人で暮らすことにした。母の両親から支援をもらい、私は学校を止めバイトをしながら生活している。
  右目付近に父からつけられた傷があるので髪を伸ばして隠すことにした。
  芽衣は違う小学校に転校させた。
  芽衣は両親が死んでからあまり笑わなくなった。
  抱きついてもあまり反応してくれなくなった。
  私が抱きついても無反応、いや、逆に体が震え出す。
  どうすればいいのか分からないまま日々を過ごした。 
 
  両親の死からもうすぐ一年経とうとする頃、八月終盤のことである。
 「亜衣っ!」
  なんかどこかで聞き覚えのある声だ。
  亜衣が後ろを振り返ると、そこには鏡原がいた。
 「……誰だ?」
 「亜衣! 忘れたの? 鏡原藍よ」
 「ああ、清原さんか」
 「鏡原よ」
  相変わらずか。
 「亜衣、少し時間ある?」
  鏡原は頬を赤らめながら、亜衣の服の袖を掴む。
 「まぁ、少しだけなら」
  鏡原に連れられ、人気のない公園へ向かう。
 「で、どうしたんだ?」
  亜衣が不思議そうに訊ねた瞬間、鏡原が亜衣を近くの木に押し倒す。  
  亜衣があっけにとられてるうちに唇を重ねる。
  何だこれ? くっそ。体中を何かが駆け巡る。頭がとろけるってやつか。
 「ぷはぁ」
  唇が離れる。
 「好き」
  そう言いながら、亜衣の右目を隠している髪をめくる。
 「止め――」
  亜衣の言葉を封じるかのように唇を重ねる。
  鏡原の手が股の下に滑り込む。
  止めろ! 
  抵抗しようとするが、全て防がれる。
  止めろ! 止めろ! 止めろ! 
  体から力が抜ける。背中がのけぞり膝や腰がピクピクと痙攣する。
 「好き。この匂いも声も感触も傷跡も全部好き」
  悪寒が全身を駆け巡る。
 「止めろ!」
 「どうして拒絶するの?」
  不思議そうに聞いてくる。
 「妹がいるから? あの女がいるから?」
 「離れろ」
  冷たく突き放す。これ以上関わり合いになりたくない。
 「どうして? 亜衣はなんであんなヤツを守るの? なんで? あの男が襲ってきたときも泣き叫んでただけなのに? その上、あの男から守った亜衣に対してお礼も言わずに泣き叫んでただけなのに? どうして?」           
 「なんで、お前がそんなこと知ってるんだ?」
  コイツはあの時あの場所にいなかったはずだ。
 「だってずっと見てたもん。亜衣のこと」
  何言ってるんだ? 
 「ちなみにね、男にね女の浮気写真送ったの私だよ。男に邪魔者を殺して欲しくて。で、様子も見てた。亜衣が殺されそうになったら助けに入るつもりだったよ。亜衣は男を殺して出番なくなっちゃったけどね。でも素敵だったなぁ、あの時の亜衣は」
  素敵って何言ってるんだ? それに父を使って芽衣を殺す? ふざけるなよ。お前のせいで芽衣がどれだけ傷ついたと思ってるんだ? ふざけるな!
 「鏡原ぁああああああ!」
  亜衣は絶叫し、鏡原に掴み掛かる。
 「嬉しい、亜衣が私の名前を呼んで求めてくれた」
  そのまま抱きつき唇を重ねる。
  亜衣は鏡原を投げようとするが、全てムダに終わり、むしろ逆に押し倒され体中を物色された。
 
  そのときの感覚は覚えていない。思い出したくもない。ただ気持ち悪さだけは忘れられない。
 
 「今日はありがとね。また気持ちいいことしようね」
  鏡原は笑顔で立ち去っていった。
 「……このクソやろうがぁあああああああああ!」
  亜衣の悲痛な叫び声が公園中に響き渡った。
 
 「ただいま」
  芽衣が待っている。
  あんなヤツのことは忘れよう。
 「芽衣ー」
  名前を呼ぶが返事がない。
 「亜衣」
  なんで?
  後ろから突然抱きつかれる。
 「会いたかったよ」
  背中に悪寒が走る。
 「ごめんね」
  突如、亜衣の意識がシャットダウンされる。
 
 「う……」
  亜衣が目を覚ますとそこはどこかの屋上であった。
  手が後ろ手に縛られており、柵にくくられているので体が動かない。
 「芽衣!」
  目の前のベンチには芽衣が仰向けに寝かされており、全身をベンチに縄で固定されていた。
 「お姉ちゃん!」
 「目が覚めた」
  すぐ真横に鏡原の顔があった。
 「芽衣を離――」
  亜衣が言い切るよりも早く鏡原は唇を重ねる。
 「いいよ」
  鏡原が芽衣の方へ歩き始める。片手には包丁。
  亜衣の顔が青ざめる。
 「止めろ!」
  鏡原は芽衣に馬乗りになり、包丁を振りかざす。
 「やめ――」
  ザクッ!
 「ああぁあああああああああ! 痛い! 痛い! 痛いよ!」
  芽衣の右肩に包丁が深々と刺さる。
 「鏡原ぁあああああ!」
 「名前呼んでくれてありがと! お邪魔虫はちゃんと処理するね」 
  右肩に刺した包丁を即座に抜き、左肩、右腕、左足、右足、脇腹、全身くまなく致命傷にならないように刺していく。
  芽衣は痛みに泣き叫ぶ。
 「止めろ。止めてくれ。なんでもするから。もう止めてくれ……」
  私はいい。もう私のことはどうでもいい。性奴隷にでもなんでもしろ。父を殺した時点で一線は踏み越えた。罰を受けるべきだ。それがお前の性奴隷で務まるのなら。それで芽衣を守れるのなら、それでいい。それがいい。
 「うん、分かった」
  鏡原の手が一瞬止まる。
  亜衣の表情に安堵が少しだけ浮かぶ。
 「これで最後にするね」
  最後って――。
 「お姉ちゃん……助けて……」
  ザシュッ! 
  芽衣の最期の叫びは亜衣の胸をえぐった。
  芽衣の首が亜衣の目の前に転がってくる。
 「芽衣……? 芽衣……」
  胸に大きな空洞ができたような感覚に襲われ、全身から力が抜け落ちた。
 「邪魔者はもういない。二人で一つになろっ」
  鏡原は芽衣の首を横に蹴り飛ばし、亜衣に抱きつく。
  体を物色し、縄をほどき、また物色する。
  前と同じことをされているのに何も感じなかった。気持ち悪ささえも。体の感触が何もなかった。
 「ああ! 気持ちいい!」
  光悦に満ちた表情で亜衣をむさぼる。
  
  私は何のために生きてたんだろう?
  守るべきものはもうない。
  芽衣の顔が視界に入る。
  奪った。
  コイツが全部。
 
 「鏡原ぁああああああああああああああああああ!」
  烈火の如く、鏡原を押し倒し拳を何発も打つ。
 「ああ! いい!」
  鏡原は相変わらず嬉しそうに叫ぶ。
  髪を掴み立ち上がらせる。
  血まみれのくせに、あふれた鼻血で水たまりを作ってるくせに、相変わらず不気味に笑いやがる。
  ふと視線を上に上げるとそこには美しい満月が輝いていた。
  
  なんでこんな日にキレイな満月なんだよ。
 
  鏡原を柵に叩きつけ、柵を跳び越え、宙へ駆け出す。
  一緒に死のう。
  そのまま地面に鏡原の頭を叩きつけ、私の意識は消えた。
 

 
  随分昔の夢を見てた気がする。
  亜衣が目を覚ますと、薄暗い部屋だった。近くには大量の段ボール箱。
  体を動かそうとすると何かが引っかかる。
  自分は安物のベッドに寝かされており、腕は頭の上で縛られ柵にくくりつけられ、足は下の柵にくくりつけられている。
  普段は髪で隠れている右目も出ており、そこには数センチの切り傷が二本クロスしていた。服は上半身は下着姿のままで下は脱がされていない。まぁアイツが服を着せてくれるなんてことはないよな。下を脱がされなかっただけマシとするか……。
 「あ、起きたんだ」
  鏡原はタオルで髪を拭きながらが部屋の中へ入ってくる。
  もう夜は肌寒い季節なのに薄着だ。 
 「ごめんね。自分だけ水浴びしちゃって。代わりに亜衣の体はタオルで拭いたよ。このタオルで。ああ、亜衣の匂いがする」
  悪寒が走――いや、もうそんなものは通り過ぎた。
  鏡原が亜衣に馬乗りになる。
 「じゃ、しよっか」
  亜衣は精一杯にらみつける。
  そんなことをしてもムダだと分かりながらも。
 「亜衣のその目も好き……右目に張ってた邪魔な絆創膏は剥がしておいたよ。右目を隠してる亜衣も素敵だけど、隠してない亜衣の方が好き」
  アレを剥がしたのか?
  亜衣の瞳孔が開く。
 「あれ? 剥がしちゃダメだった? でも私は好き」
  早くなんとかしないと。
  必死にもがく。
 「早くヤりたくて仕方ないの? そんなに焦らなくていいよ。時間はたっぷりあるからね」
  鏡原を喜ばせるだけだと分かりながらも。
  そうでもしないと負けてしまいそうだから。
  鏡原の顔が近づく。
  負けたくない。
  私はお前を必ず殺す。
  絶対にスキはあるはずだ。
  殺す殺す殺す殺す殺す……助――。
  ドガッ!
  消しゴム拳銃弾(イレイサー・マグナム)!
  硝は消しゴム五個を両手で弾き、鏡原の体を飛ばす。
  鏡原は飛ばされた先の段ボールに埋もれる。
  勢いをつけすぎたせいか硝は亜衣のベッドを飛び越え、数十センチ離れたところに着地した。
 「姐さん!」
  遅れてケンとロミが部屋に入ってくる。
  ケンは亜衣に自分の上着をかぶせ、縄をほどく。
 「どうしてここが?」
 「黒山が探してくれた」
 「そうか……」
  ケンとロミは亜衣さんに肩を貸し、両側から起き上がらせる。
 「ケン、ロミ、亜衣さんを連れて逃げてくれ」
 「え、でも……」
  ケンが戸惑う。先ほど硝は敗北し、その時のダメージがまだ残っている。
 「先に亜衣さんを安全なところに避難させてくれ。その後に加勢してくれ」
 「分かった」
  ケンとロミは亜衣を連れ部屋の外へ行く。
  鏡原を飛ばした方の段ボールが飛び上がる。
 「邪魔をしないで」
  鏡原が段ボールを飛ばしながら立ち上がる。
  立ち上がり方が気持ち悪い。まるで糸につるされた関節が壊れた人形のようだ。
  なるほど、神崎先生が言っていたように彼女は壊れている。
  硝は宙に投げた大量の消しゴムを連続パンチを打つように様々な方向に弾く。
  消しゴム反射連弾(イレイサー・リフレクト・マシンガン)!
  壁や床、天井に反射した消しゴムが多方向から一気に鏡原を襲うが、左手で後頭部を押さえながら右手で消しゴムを回収し始める。
  右手で防ぎきれずに当たっている消しゴムは何発もあるが、お構いなくに右手で消しゴムを集める。
  コイツには痛覚が無いのか? だとしたらやっかいとかそういうのじゃねぇ。
  痛覚がねぇなら、小技はあまり意味を成さない。大技で一気にカタをつけるしかねぇけど、でもどうする? 大技といっても消しゴム拳銃弾は大して効果がなかったし、さっき不意打ちで消しゴム加速器で加速つけてやってみたけどそれもこの通り大して効いてなさそうだし……消しゴム拳銃弾以上の技はあるけどなぁ、隙と反動がでかいしな。使うタイミングを間違えると敗北は必至。小技である程度弱らせるとかして隙を作ってからでないと使えないけど、痛覚が無い相手にその隙を作ることができるのか?
  硝は一旦、消しゴムを弾く手を止める。
  消しゴム反射連弾はこれ以上続けてもムダに消しゴムを消費するだけみたいだな。じゃあどうする? とりあえずまだ使ってない技だ試してみるか。
  消しゴム蹴弾丸(イレイサー・ストライク)!
  硝は宙に放った消しゴムを一つ蹴り飛ばす。
  鏡原の腹部に命中するが何事もないように歩いている。B級ホラー映画の人形のように笑みを浮かべながら。
  効果ナシっていうのは分かってたけど、なんだこれ?
  あまりの気持ち悪さにさすがの硝も後ろへ下がる。
 「こんな感じ?」
  鏡原は両手で消しゴムを弾く。壁や床、天井に反射した消しゴムが多方向から硝を襲った。
  嘘だろ?
  硝は自分の技が返されたことに驚きを隠せなかった。
  いや、驚いたのは返されたことだけではない、威力、命中精度等も自身が放ったものとあまり大差がないのだ。
  嘘だろ。
  硝の消しゴム技は何年も練習をした末に使えるようになった技だ。それを一度見ただけでそれと全く同じ技を相手に使われたときの衝撃ははかりしれないものだった。
  膝をつく硝。
 「邪魔」
  鏡原は一気に駆け出し、硝の間合いに入り、右膝で硝の顔面を蹴り飛ばす。
  あまりの威力に硝は地面を転がる。 
  鏡原はそのまま出口に向かうが、地面に転がった硝は即座に体勢を立て直し、消しゴムを弾く。
  消しゴムの弾丸(イレイサー・ストレート)。
  鏡原は左手で難なく消しゴムをつかむ。
  やっぱ、消しゴムの弾丸は牽制にすらならないか。
 「しつこいのね」
 「お前に言われたくない」
  硝はそのまま消しゴムを大量に弾く。
  消しゴム連弾(イレイサー・マシンガン)!
  鏡原は両手で消しゴムを片っ端からつかんでいく。
  二発に一発はつかみきれずに命中しているが、そんなことお構いなしに硝の元に歩き、硝の間合いに入る。
  これを待っていた。
  硝の攻撃は鏡原には通用しない。故に鏡原はこちらの攻撃を躱そうとはしない。躱さないのであれば、こちらの最大の攻撃が躱されることはないし、外れることはない。ならば、できるだけ引き寄せて、確実に当てられる、確実に仕留められる距離で放つ。
  宙に消しゴムを七個舞わせる、両手を右足と一緒に後ろにひき、力をためる、まるで両手の間からビームでも出すかのように。全身の力を指に乗せるように右足と一緒に突き出した両手で消しゴムを七個両手で弾いた。
  消しゴム爆裂(イレイサー・エクスプロージョン)!
  鏡原の腹部に命中した消しゴムが花火のように爆発し、ぶっ飛ばす。
  そのまま飛ばされた鏡原は五メートルは離れたところにある段ボールの山にダイブした。
  痛ぇ……!
  硝はそのまま両膝を地面につき、両手の指の痛みに顔を歪めた。
  消しゴムを弾く際、指にはとんでもない負担がかかる。大技であればあるほど指にかかる負担が大きくなり、連発することは困難になる。例えば、消しゴム拳銃弾は木刀を粉砕し、そのまま相手を数メートル飛ばすほどの威力を誇る反面、連発には最低でも一分は開けなければならない。
  そして、消しゴム爆裂は他の消しゴム技を遙かに上回る威力を誇る反面、技を放った際の指の負担も他の技とは段違いで放った直後、数分は他の小技を撃つことすら困難な程、指に負担がかかるし、今の硝では爆裂を連発するには最低でも一時間は開けなければならない。使うタイミングを間違えれば敗北は必至なのである。
  硝は顔を歪めながら、鏡原が飛ばされた方向を見た。
  大丈夫だ。手応えはあった。後は神崎先生に連絡して、身柄を回収すれば終わりだ。
  硝は勝利を確信していた。この技を受けて立っていられる人間などいるはずがないのだから。
  その自信はすぐに打ち砕かれた。
  段ボールの山が宙を舞った。
  嘘だろ?
  鏡原が立っていたのだ。
  彼女が立ち上がった勢いで宙をまった段ボールはそのまま地面に落ちていく。
  硝は痛みに耐えながら立ち上がり構える。
  今使える攻撃手段は……。
  消しゴム蹴弾丸(イレイサー・ストライク)!
  消しゴムを一つ蹴り飛ばす。
  消しゴム爆裂の反動で指が使えない硝に残された攻撃手段は消しゴムを足で蹴り飛ばす消しゴム蹴弾丸だけだった。
  鏡原は硝の攻撃を受けながら獲物を見つけたチーターのように硝の懐に入る。
  ヤバい。
  硝の表情に焦りが現れる。
  硝は接近戦でも戦えるように訓練をしてある、しかし、硝が接近戦でも戦えるのは指が普通に使える時だ。足しか使えない今のような状況では一緒に戦える仲間がいないと接近戦はほとんどできない。
  硝は距離を取ろうとする。
  鏡原は先ほど硝が取った姿勢を取る。全身の力を指先に集中させる構えだ。
  まさか……!
  硝の表情は焦りや驚きを通り越したものだった。
  鏡原は先ほど消しゴム連弾でキャッチした消しゴムのうち七個を両手で弾き飛ばす。
  弾かれた消しゴムは硝の腹部に命中し、爆発した。
  そのまま硝の体は後方に数メートル飛ばされ、近くの段ボールの山にダイブした。
 「行かないと」
  飛ばされた硝に振り返るこなく外に歩き出した。
 「待て」
  硝が段ボールの山から這い出してきた時には鏡原の姿はもうそこには無かった。  
 

 
 「アイツが向かってる」
  夜道を歩いている三人に声が届く。
 「なぁ、黒山、境界創りの電源切ったのか?」
  ケンが訊ねる。
 「私だけが声が聞こえるぐらいに出力調整してたと思うんだけど……ごめん」
  ロミは頭を下げる。
 「アイツってまさか……!」
  三人は理解した。
 「硝……!」
  ロミが後ろを振り返る。
 「黒山、アイツが簡単にやられるわけないだろ。アイツなら大丈夫だ」
 「……そうだね。硝だもんね、私の相棒だもんね。大丈夫だよね」
  震えた声で笑う。
  ドスン。
  二人は急に膝をつく。
  肩を貸していた亜衣が急に重くなったからだ。
  膝が落ちた瞬間、亜衣は走り出す。
 「待ってくれ!」
  ケンが腕を咄嗟に掴むが、ケンの体は宙を舞う。
 「ケン君!」
  ロミはケンに駆け寄る。
 「ごめんな」
  亜衣は闇の中へ駆け出した。
 「亜衣さん……どうすれば……」
 
 

 
  やっぱりここしかないか。
  その場所は監禁場所からそう遠くなかった。
  今日もあの日と同じ満月か。
  どこかのビルの屋上、鏡原と、自分と決着をつけるにはここしかない。
  高さ一メートルほどの鉄の柵で囲まれた空間。七年前、芽衣が縛り付けられていたベンチに座りながら黄昏れる。苦しかったよな……今日、終わらせる。
  亜衣が到着し、数分後には鏡原が姿を現した。
 「亜衣っ! やっぱりまた会えた」
  鏡原は頬を赤く染め、嬉しそうな笑顔で叫ぶ。
 「私逹、やっぱり運命の赤い糸で結ばれていたのねっ!」
  鏡原はスキップで亜衣のもとに近づく。
 「あぁ、そうだな」
  亜衣が小さくつぶやき、ケンがくれた上着を投げ捨てる。
  鏡原が亜衣の間合いに入った直後、亜衣はその手を掴み、腰の上に乗せそのまま投げた。
 「血の色のな!」
  腰投げ。
  投げ捨てた上着が地面に落ちると同時に鏡原の体が地面に落ちる。
  だが、鏡原は左手で後頭部を押さえながら、難なく着地をし亜衣に抱きつきに行く。
  小手返し。
  亜衣はまま右手を掴み投げ飛ばす。
  難なく着地をし、再び抱きつきに来る。
  隅落とし。
  鏡原の腕を掴んで体を伸ばし、無防備な体勢を一瞬作る。
  これはあまり得意じゃないのだが。
  亜衣は無防備な鏡原の股の下を蹴りあげる。 
 「うれしい」
  鏡原はそのまま股を閉じ、亜衣の右足を挟む。
  亜衣の表情が凍りつく。
  合気道に足技はほぼ無い。
  なので、身体能力が女子中学生並の綺堂亜衣の蹴りの威力は大したことはない。
  それでも蹴りを使ったのは、合気道が通用しないのであれば、急所を蹴り飛ばそうという考えがあったからだ。
  実際、女性の股の下に付いている性器は男性の物と同様、いやそれ以上に危険な急所である。
  書籍によると、デコピン程度でも悶絶するぐらいであり、そんなところを強打しようものならば命に関わる危険性もでてくるほどの急所である。
  そんな部分に蹴りを受けたのにもかかわらず鏡原は平然としている。どう考えても異常な光景だ。
  鏡原は亜衣の足を股で挟んだまま押し倒す。
 「亜衣っ!」
  亜衣は片足でしか立てなかったせいでバランスを崩し、倒れる。
  受け身をとり、即座に立ち上がろうとするが、鏡原が起き上がる前にのしかかる。
 「くそ! 離――」
  亜衣は死にもの狂いにもがくが、鏡原は離れず、唇を重ねる。
  亜衣の体が全身に電流が走ったように跳ねる。
  亜衣から抵抗する力が段々抜けていく。
 「うっ……うっ……!」
  止めろ!
  亜衣は鏡原の唇を噛むが蛇のように絡まり離れない。
  鏡原の唇から流れる生暖かい血が涙のように亜衣の頬を流れる。
  何か、何か無いのか?
  亜衣は辛うじて動く腕でものを探す。片手で振り回せる固い物を。
  鏡原の太ももが亜衣の股の下に滑り込む。
  くっそ!
  鏡原は互いの足が互いの股の下に入り込むようにしながら、動く、まるで交尾をするトンボのように。
  鏡原が与えてくる刺激に全身が熱くなる。
  もうこのまま与えてくる全身の細胞が何かに目覚めるような快楽に身を任せてもいいのかもしれない、もう任せたい、楽になりたい。
  亜衣は抵抗を止め、瞳を静かに閉じる。
  あぁ、もう、いいや……。
   
 「助けて! お姉ちゃん!」
 
  芽衣の声に目を覚ます。
  そうだ……私が負けたせいで芽衣は死んだ。こんなところでこんな快楽に、こんなヤツに負けるわけにはいかない!
  亜衣は一旦、抵抗する動きを止め、一旦呼吸を整え、一気に鏡原を跳ね飛ばし、立ち上がる。
  鏡原は後頭部を左手で押さえながら、地面を転がり、立ち上がる。
  亜衣は手で頬に付いた血を腕で拭う。
 「はぁ、はぁ……」
  亜衣は鏡原と一旦距離が取れたスキに呼吸を整える。
  一旦離れることができたのはいいが、状況は何一つ好転していない。
  くっついてきて剥がそうとしても、その度に剥がれにくくなる。
  しかも、抱きつかれる前に急所を攻撃して倒そうにも最大級の急所を蹴っても効果なし、どうしろと?
 「ああ、亜衣っ! もっと欲しい! もっと亜衣を感じたい!」
  鏡原はまた亜衣に抱きつこうとする。
  亜衣はとりあえず、即座に三教という相手の筋を伸ばす技をかけ、筋を伸ばしたまま投げる。
  地面を転がった、鏡原を目がけて、さっきまでとは違い距離を詰める。
  鏡原が立ち上がった勢いを利用し、右手を掴み、四方投げを使う。
  さっきはバク転で反撃されたが、これならどうだ。
  鏡原は後頭部を左手で押さえ、バク転し、亜衣の後頭部を蹴ろうとするが、うまく行かなかった。
  なぜなら、バク転をするより前に、近くにあった柵に自分の後頭部が左手でガードしたものの命中したからだ。
  だから、一旦柵の近くに鏡原を投げたのだ。
 「あぁあああああああああ!」
  柵に鏡原をぶつけたあと、地面に叩きつける。
 「亜衣っ!」
  地面に叩きつけられた後、右手を握り起き上がれないように固めようとするが、鏡原は体をくねらせ足で亜衣を捕まえようとする。
 「くっ……!」
  鏡原が自分を捕まえようとしていることを察し、手を離し再び距離を取る。
  四方投げをかけた時、違和感を感じた。
  なぜ、鏡原は後頭部をかばったのか?
  普通は四方投げをされた時、後頭部をかばう暇などないが、鏡原の身体能力、反射神経をもってすればかばうことはできるかもしれない、しかし、問題はそこじゃない。
  なぜ、急所を蹴られても平然としていられるほどの耐久力をほこる鏡原が後頭部をかばう必要があったのか?
  後頭部は急所だ。かばうことは不自然では無い。しかし、先ほど股の下を蹴られる際も防御しなかったことを見ると、鏡原が自分の身の安全を考えるほどの理性を持ち合わせているとは思えない。
  つまり、無意識のうちに行っていることだ。
  なぜ、無意識のうちに後頭部をかばっているのか?
  答えは一つだ。
  後頭部を攻撃されてはマズいと無意識のうちに分かっているからだ。
  それなら私がやるべきことは……。
 「もっと!」
  鏡原は四方投げのダメージなど無かったかのように亜衣に抱きつきに来る。
  亜衣は鏡原の両手を掴み十字に組み、抱きつきに来た勢いを利用して投げる。
  十字投げ。
  狙う先は後頭部。
 「あぁあああああああああああ!」
  後頭部が柵に命中するように投げた。
  鏡原は後頭部をかばおうとするが、両手を捕まれているので防げない、否、防がなかった。
  鏡原藍と綺堂亜衣の腕力の差はゴリラと女子中学生並に離れている。鏡原であれば亜衣が掴んできた腕を振りほどくことなどたやすかっただろう。
  しかし、無意識の後頭部への危機感よりも、最愛の人に腕を掴んでもらっているという感動が上回ったのだ。よって振りほどけなかったのではなく、振りほどかなかった。
  柵に後頭部を強打する鏡原。 
  亜衣は鏡原を柵にぶつけたその勢いのまま、後頭部を地面に叩きつける。
  地面に叩きつけられた鏡原はそのまま動かなくなった。
 
  七年前、鏡原藍は妹芽衣を目の前で殺された綺堂亜衣の心中によって後頭部に深い傷を負った。
  その傷の影響で彼女は痛覚がマヒし、後頭部だけは弱点というべき部位になった。
  
 「はぁ、はぁ……」
  亜衣は動かなくなった鏡原から少し距離をとり、静かに見下ろしていた。
  この女がこの程度の攻撃で死ぬわけが無い。だが、こちらから下手に攻撃をすればその影響で起きて反撃されるだろう。
  ならばこちらができることはただ一つ。目を覚ます前に一撃で息の根を止めることだ。
  鏡原が寝ているふりをしているだけということは考えなかった。彼女にそんな作戦を立てるだけの理性は無いだろうから。
  早くトドメをささないと。
  亜衣はうまく動かない足で歩き始める。
 「亜衣さん……!」
  突然の自分を呼ぶ声に振り返る。
  硝が壁にもたれかかっていた。
  足がおぼつかない。
 「どうしてここが分かったんだ?」
 「斉藤さんに聞いたんです」
  亜衣が溜め息をつく。
  余計なことを調べやがってとでも思っているのだろうか。
 「ここ、妹さんが――」
 「そうだ」
  言葉を言い切る前に返事で遮る。
 「亜衣さん、鏡原の確保ありがとうございます」
 「礼を言われる立場じゃない。自分のけじめをつけただけ、いや、これからつける」
  亜衣の視線が再び鏡原に向かう。
 「あの」
 「なんだ? 時間がない。手短にしてくれ」
 「上着着てくれませんか? 目のやり場に目が困るんですよ……」
  上半身下着姿の女性相手は少しやり辛い。
 「別に構わない」
 「けじめってどうやってつけるんですか?」
  空気がさらに重くなる。さっきから発言しにくい空気ではあったが、それ以上に呼吸することすら苦しくなった。
  やっぱり、この人、生きてけじめをつける気ないのか……。
 「最悪死んでもいいやって思ってた俺に生きなければならないって言ったのはどこの誰でしたっけ?」
  亜衣の足が止まる。
 「生きてくださいよ。生きてけじめをつけてくださいよ。あなたいつも言ってたじゃないですか? 生きろってそれは嘘だったんで――」
 「黙れ!」
  叫びが空気を震わせる。
 「邪魔をするな白川」
  亜衣の声はいつもよりも鋭く尖っていた。
  その憎悪は炎よりも熱く、氷よりも冷たく、針よりも鋭く、闇よりも黒く燃えている。
  硝が初めて会ったときの森田さんと同じ。
  これが憎悪ってヤツか……。
  しかも、森田さんのときと違い、目の前に妹を殺した相手がいる……俺に止めれるのか? 止めるしか無い。
  硝は構える。
 「すみません、亜衣さん。俺はあなたを止めなければならないんです」
 「そういうヤツだったな、お前は……」
  亜衣の殺気が一層際立った、否、硝の方にも向いたというべきかもしれない。
  硝は消しゴムを取り出そうとポケットに手を入れようとするが、動けない。
  すげぇ威圧感だな……全く動けない……多分、もう俺は亜衣さんにやられてるなこれは……。
  昔、少しだけ合気道をかじったことがあるけど、そのとき、離れている相手の体の中心を捉えるというのを凄い人が言ってたな、多分、俺は今それをやられてる。
  動いたらやられる……いや、動く前にやられてるというべきか……でも、いつまでもこうしてる訳にはいかない。
  硝は動かない体を無理矢理ドアをこじ開けるかのように動かす。
  消しゴムをポケットから取り出す。
  消しゴムの弾丸(イレイサー・ストレート)!
 「最初に撃つのはそれだよな」
  亜衣は難なく躱す。
  消しゴム連弾(イレイサー・マシンガン)!
  さすがにこれは躱すことなんて、嘘だろ?
  硝が驚くのはムリもない。今まで大したダメージにならなかった相手はいても、全弾躱すなんて相手は現れなかった。そんな攻撃を亜衣は何事も無かったかのように躱し続けているのだから、まるで弾が飛んでくる位置が全て分かっているかのように。
  くっそ! だったら……最近身につけたこれなら……。
  消しゴム婉曲連弾(イレイサー・ストレンジ・マシンガン)!
  直線で狙うのではなく、途中で曲がる弾丸で全方向から消しゴムで狙う。
  宙へ飛んでいった消しゴムは意思を持つかのように亜衣へ向かう。
 「そうくるよな」
  亜衣は全てを躱しながら距離を詰める。
  やべっ! 
  消しゴム加(イレイサー・アク)――。
 「遅い」
  四方投げ。
  硝が距離をとろうと動き出すよりも早く、硝の背中は地面に叩きつけられていた。
  固めも決められ身動き一つとれない。
 「ここで寝ててくれ」
  哀しげな声が聞こえる。
 「嫌ですよ」
  硝は渾身の力で起き上がろうとするが動かない。 
 「なぜだ?」
 「あなたに生きてて欲しいって思ってる人がいるからです」
  亜衣の手が緩んだ一瞬の隙に硝は立ち上がるが、腕をつかまれ投げられる。
  腰投げ。
 「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ!」   
  亜衣は激昂しながら硝を投げ続ける。
  やり場のない感情をただぶつけているようで硝の全ての動きをコントロールしていた。
  硝が起き上がって反撃しようとする動きを流し技をかけて硝を倒す、硝は起き上がろうとする、その無限ループが始まった。
  小手返し 回転投げ 三教投げ 側方入身 引き倒し 一教投げ 隅落とし 首刈り 四教 腕絡み 亜衣の猛攻は続く。 
  一発一発が一般人なら一撃で卒倒するレベル。早く距離を取らないと、死ぬ。
  さすがの硝も亜衣の猛攻をコンクリの地面で受け続けるのは命に関わる。
  亜衣の体の軸が硝の体の軸に当たる寸前に硝は地面に消しゴムを弾く。
  消しゴム加速器(イレイサー・アクセル)。
  呼吸投げで飛ばされるのに合わせ、消しゴムを放つ際の射出の勢いと脚力、跳弾を利用して加速する消しゴム加速器を放ち、一気に距離を取る。
  硝はロケットのように後ろへ飛ぶが、後ろを見てなかった、いや、見る余裕が無かった。
  硝はそのまま後ろにあった柵に勢いよく衝突した。
  背中に車に衝突されたかのような衝撃が走る。
 「もうそこでおとなしく寝ててくれ、お前の攻撃パターンは全部分かっている」
  亜衣は静かに言い放つ。
 「例えば、お前は大抵最初に弾丸を撃つ。たまに不意打ちや奇襲などで拳銃弾や連弾を撃つこともあるが、今みたいに真正面から対峙した時にお前がとる第一手はほとんどが消しゴムの弾丸だ。そのあとのお前の行動は相手次第だが、今回のように躱された場合は、弾速は速いが隙が大きい長距離弾(ライフル)や、蹴弾丸(ストライク)ではなく、手数で攻める連弾(マシンガン)を使う。あるいは、複数の方向から攻める反射連弾(リフレクト・マシンガン)や婉曲連弾(ストレンジ・マシンガン)を使う可能性もあるが、反射に使える場所が地面しかないから、反射(リフレクト)は使わない、婉曲(ストレンジ)は習得して間もないから、第一手としては使わないだろう……ということで簡単に読めたぞ」
  そこまで読まれてるのかよ。 
  硝は力なく笑う。
 「あぁ、分かってると思うが、反射連弾と婉曲連弾は通常の連弾と比べて反射させたり曲げたりする分、弾速が遅くなる……手の内さえ知ってれば通常版より躱すのは楽だぞ……ただ、お前が手負いじゃ無かったら全部躱すなんてことはできなかっただろうが……」
 「手負いなのは、亜衣さんもでしょ……」
 「合気道は体力を使わずに動くからな……体力の底が尽きてもある程度は動ける……少なくともお前ほどの影響は無い……」
  合気道すげぇ……ってそんなことを思ってる場合じゃ無い!
  硝は痺れる体を無理矢理動かし立ち上がるが、すぐによろめく。柵で体を支えてやっと立てる状態だ。
 「もう、止めるな。鏡原と私を殺して、終わりにする」
  亜衣は硝に背中を向け、歩き出す。 
 「向こう側に行かないでください! 俺はあなたにこちら側にいて欲しいんです! 俺だけじゃない! ロミもケンもおやっさんも、芽衣ちゃんも……亜衣さんにはこっち側にいて欲しいんです!」
  硝は力の限り叫ぶ。
 「もう、手遅れだ……私は……」
 「知ってます! 亜衣さんが中学時代、父親を殺したことも、それから後のこと全部……それでも……それでも……亜衣さんにはまだこちら側の人間です!」
  亜衣の足が止まった。
 「……それでも、私はこちら側だと……? ふざけるな……もう、手遅れだろ……私は……私は……!」
 「手遅れなんかじゃない……亜衣さんに俺たちは何度も助けられました……亜衣さん言いましたよね? 合気道ではもらったものは返すって……誰かからしてもらった恩をまた誰かに返すという習わしがあるって……だったら、俺に、俺たちに亜衣さんからしてもらったことを返させてくださいよ! だから返せる場所にいてくださいよ! あげ逃げなんてしないでくださいよ!」
  硝は自分でも正直何を言っているのかよく分からなかった。
  亜衣から教えてもらったことをうろ覚えながらも叫び続ける。
 「……そう思うんなら、私以外の誰かに返してくれ……」
 「俺は亜衣さんに返したいんです」
  亜衣の頬に光る物が流れる。
  あぁ、お前はそういうヤツだよな、バカだなぁ……でも悪くはないか……。
 「……お前がなんと言おうが関係ない……私は鏡原を殺すこと以外考えられない……だから……」
  亜衣がこちらに向き直る。
 「……私をどうしても止めないのなら……力尽くで今ここで私を連れ戻せ!」
  亜衣さんの激昂……彼女の瞳から光る物が飛び散る。月光が反射したそれは、夜空に舞う宝石のようだった。
  体中のあらゆるところにある傷と改めて向かい合う。これだけ傷ついてきたんだ。心はもっと……あぁ、もう、自分では止められないんだな。だったら俺が止めるしかない。この身を懸けても……!
  ふぅー。
  硝は一瞬瞳を閉じ息を整える。
  再び開いた瞳には静かな炎が宿っていた
 「亜衣さん、それは依頼と思っていいんですね……」
 「好きにしろ……」
 「分かりました」
  硝は指の感触を確かめる。
  感触的にあと指で消しゴムを弾ける回数は左右各一回ずつが限界だろう……さっきの鏡原との戦いで消しゴム爆裂を使ってしまった反動が大きいようだ。あと一発ずつ撃ったら多分、三日は消しゴムの弾丸すら撃てなくなるだろう。
  あと二発……下手に攻撃をしても絶対に躱される、どんな小細工をしても亜衣には読まれるだろう……だったら渾身の一撃に全てをかけるしかない。
  よろめきながらも全力で走り出す。消しゴム加速器は使わない……ここで使う余裕は無い。
  消しゴム(イレイサー・)……。
  硝の顔の前に亜衣さんの右手があった。 
  ですよね。
  右手で放った最後の一撃は亜衣さんの体からかすかに外れ、硝の体は地面に叩きつけられた。
  合気道は相手の力を使って相手を倒す武道だ……相手が向かってくる力が強ければ強いほど、相手に加わる力は強くなる……合気道を使う亜衣に全力で走っての渾身の一撃など悪手だったのだ……それでも、硝には渾身の一撃が必要だったのだ。
  硝の体が地面に衝突した直後、亜衣さんの背中に消しゴムが命中した。
  消しゴム反射弾丸(イレイサー・リフレクト・ストレート)。
  硝が放った渾身の一撃は亜衣さんの背後にあった柵で反射し、亜衣を背後から襲った。
  さっき亜衣は反射に使える場所は床しかないと言った、確かにそれは正しい……だが、それは連射する場合だ。単発ならば、細い柵でも十分反射は使える。
  亜衣に攻撃が命中したのを確認した瞬間に左手での最後の一撃を使う。
  消しゴム加速器(イレイサー・アクセル)。
  予測外の攻撃によりぶっ飛ばされた亜衣の体が柵にぶつかる前に、硝は消しゴムを射出する勢いで動き、亜衣の体を受け止める。
  硝の体はすぐに力が抜け、柵に倒れかかる。なんとか自分の体をクッションにして亜衣が柵にぶつかることを防ぐ。
 「……なんでだ……?」
 「……なんでって、何がですか……?」
 「なんで、最後に私をかばった……? 今のお前にそんな余裕は無いはずだ……」
 「……守りたい人を守ることに理由なんていります……?」
 「お前が守りたい人は黒山さんだろ……?」
 「俺が守りたい人はロミですけど、ロミだけじゃないですよ。俺は欲張りなんで……一人を守るだけじゃとても満足できません」
 「……そうか……相変わらず……変わったヤツだな……」
  亜衣の体から力が抜ける。
  硝は亜衣から殺意が抜けたことを確認し、鏡原の方に視線を向ける。
  あとは鏡原を連れて帰って終わり……のはずだった。二人の背中に悪寒が走る。
 「何余計なことしてんのよ……」
  壊れた人形のような鏡原が立っていた。
  その目には生気などない殺意でも憎しみでもない、狂気、狂愛。
 「……忘れてた……これで終わってくれるようなヤツじゃないよな……」
 「さっすが、亜衣っ! 私のことよく分かってるっ」
 「……やっぱり、お前はこの手で殺さなければ……」
  亜衣は再び立とうとするが、すぐによろめき倒れてしまう。
  硝はすぐに亜衣の体を支える。 
 「……どうしたの亜衣? 私を殺さないの? 今度こそ私と一緒に死んでくれるんじゃないの?」
 「黙れ!」
  これ以上、亜衣さんを傷つけるわけにはいかない! ここで止める!
  硝は亜衣の体を地面に置き、力を振り絞り、消しゴム一つ蹴り飛ばす。
  消しゴムの蹴弾丸(イレイサー・ストライク)!
 「邪魔しないで」
  鏡原は硝が蹴り飛ばした消しゴムを逆に蹴り返し硝を柵まで飛ばす。
  柵に衝突した硝は地面に力無く倒れる。
  くっそ……! どこにそんな力が残ってるんだよ……
  一歩、また一歩と鏡原が近づいてくる。
  パン。
  何かが鏡原に命中する。
  地面に白い豆粒のようなものが転がる。
 「おりゃぁああ!」
  ケンが弾丸の如く飛び出し鏡原に殴りかかる。
  強烈な拳を雨あられと放ち、後退させる。
 「ケン、ってことは」
  入り口にはロミ、包帯を額に巻きエアガンを二丁構えている木山、木刀を片手に持っている森田が立っている。
 「硝! 亜衣さん!」  
  ロミは硝に駆け寄り栄養ドリンクを手渡す。
 「ここは私逹に任せてしっかり対話してくださいね」
  森田はそれだけ言い残しケンの加勢に向かい、木山も後に続く。
 「連れてきてくれたんだな」
 「うん」
  ロミは亜衣に近づく。
  左手の境界創りの電源を完全に切る。
 「なんでだ……?」
  見間違えるはずがない。
  何回夢で見ただろう?
  一日でも忘れたことはない。
  彼女はロミと手をつないでいる。
 「芽衣……」
 「お姉ちゃん」
  
  亜衣に逃げられた直後、ロミは硝に連絡を取った。
 「硝! 亜衣さんが……」
 「分かった。行き先には心当たりがある」
 「どこ!?」
 「場所は後で送るけど、その前にケンと一緒に探して欲しい人がいる」
 「誰?」
 「亜衣さんの妹さんの芽衣ちゃんを探して欲しい。俺じゃ多分亜衣さんは止められない」
  そうして硝は亜衣の下へ、ロミとケンは芽衣の幽霊を探しに向かった。
  すぐに見つかった。
  病院を出る前にロミから事情を聞いた千尋が探してくれていたのだ。
 
 「あのね、今までずっと謝りたかったの。お姉ちゃんが私をかばってお父さんを刺しちゃって、私はお姉ちゃんを怖がっちゃって、私はお姉ちゃんに何もできなくて……」
  声がかすみ始める。
 「私はお姉ちゃんを助けられないのに、お姉ちゃんの方が辛いのに苦しいのに私だけ助けてって言っちゃって……ごめんなさい……!」
 「いいんだ」
  亜衣を優しく抱きしめる。
  ロミは思わず芽衣から手を離してしまう。
 「妹を護るのは姉として当然のことだしな。私こそごめんな……芽衣を護れなくて……」
  亜衣の瞳から熱いものが流れる。
 「ねぇ、私お姉ちゃんのそばにいていいのかな」
 「……いいに決まってるだろ」    
 「今まで、私、お姉ちゃんの、ぞばにいちゃ、いけないって、おぼって……」
  嗚咽が漏れる。
 「私こそ、芽衣に会いたかった、でも会っちゃいけないって思ってた。会う資格なんてないと思ってた……私のせいで傷ついて……」
 「わだぢね、お姉ちゃんど、一緒にいれで、じあわせだったよ」
  芽衣の瞳からも感情があふれ出る。
 「私も幸せだった……だから、これからもそばで見守ってくれ」
 「うん」
  優しく、我が子をなでる母のように芽衣の背中をさする。
  ドガッ! 
  突如飛ばされた人影が暖かな雰囲気を壊した。
  木山が柵まで飛ばされてきたのだ。
 「木山さん!」
 「すみません、大丈夫です。まだです……!」
  木山は即座に立ち上がり走り出す。
  硝たちが戦場を見ると、鏡原の独壇場だった。
 「うぉおおおおお!」
  ケンが向かってくるが、難なく投げ飛ばし木山にぶつける。
 「がはっ!」
 「ひゃっ!」
  森田が一瞬で距離を詰め木刀で振りかぶってくるが、片手で受け止め押し返し、突き出した両手で消しゴムを五個を一つの塊にして弾く。
  咄嗟に木刀でガードするが、鏡原の一撃は木刀をへし折り、柵までぶっ飛ばされた
 「がっ……」
 「このやろう……!」
  森田が倒れると同時にケンが拳を振りかぶるが、背中から地面にたたき落とされる。
 「邪魔……!」
  木山が再びエアガンを構える頃には消しゴムを大量に弾く。乱雑に宙へ散らばった消しゴムはその後、意思を持つかのように木山に降り注ぎ、彼女を地面にひれ伏せさせる。
  鏡原は硝と亜衣の技を使用し、三人を圧倒する。
  消しゴムは硝が使用したものを奪ったようだ。
 「亜衣……愛してる……私は亜衣と……」
 「ごめんな。お姉ちゃんはけじめをつけないとダメみたいだ」
  優しく芽衣の背中をたたき、立ち上がる。
 「お姉ちゃん、死なないで」
 「大丈夫だよ」
  これが最後だった。優しいお姉ちゃんでいる時間は。  
  亜衣が芽衣から離れた瞬間に彼女はロミの手を握って、硝に話しかける。
  芽衣は幽霊だから、ロミが触れている間、もしくはロミが触れている相手にしか話すことができないからだ。
 「お兄ちゃん」
 「なんだ?」
 「お姉ちゃんを助けて」
 「分かった」
  硝も立ち上がる。
 「白川、さっきも言ったと思うがこれは私がつけるべきけじめだ。お前は――」
 「すいません。探偵として小さな依頼人からの依頼、果たさないといけないんで」
  亜衣の言葉を優しく、強く遮る。
 「すまない」
 「謝らないでください。今まで助けてもらったんで、たまにはお返しさせてください。あと、これ着てください、ケンのヤツですけど」
  硝は先ほど亜衣が投げ捨てた上着を手渡す。
  そうか……私は一人でけじめをつけないと思っていた。でも違ったんだな。頼ってよかったんだな。助けを求めてよかったんだな。
 「ありがとな」
  亜衣はサッと上着を着る。
  両雄並び立つ。
 「白川さんだけカッコつけないでくださいよ」
  
  私は一度狂気に捕らわれた。春香が自殺したって思ったから。春香を自殺から救えなかった自分を許せずに一度自殺しようと思った。助かってしまったあとは、春香を自殺に追い込んだ連中を許せなくて復讐しようとした。
  私の復讐劇は白川さんに止められた。その後、春香が生きてることを知らされた。春香はどこかで監禁されていたらしい。
  助けてもらったあと、私は決めたんだ。この恩は絶対に返すって。恩人の仲間を助ける。それが今の私ができる唯一の恩返しだ。
  綺堂さんはかつての私、いや厳密には違うかもしれない。私の場合、殺されていなかったから。大切な人を殺されて、殺した相手と守れなかった自分が許せなくて、ただそれだけのために動いている。
  私には止めることはできないかもしれない。でも一緒に戦うことはできるはずだ。一緒に――!
  
  森田も折れた木刀を二刀流のようにしながら立ち上がる。
 「良子ちゃん、張り切ってるね」
 
  私は白川さんに助けてもらった。かつて海溱高校に通ってた私はその授業の内容が軍事訓練みたいなものばかりで違和感を感じ、学校のパソコンをハッキングして情報を盗み出した。その後、口封じとして監禁され、地獄を味あわされた。
  調べたデータのうちの一つに『Student Gene』というものがあった。『Student Gene』というものは移植された人間の身体能力を高めやすくする遺伝子であり、臨死体験をすればするほどより強くなる性質がある。鏡原さんも私も良子ちゃんもその遺伝子を持っている。
  データに鏡原さんの名前もあった。過剰適合者というものらしい。遺伝子と体が過剰に適合した故、圧倒的な身体能力、学習能力を習得した人間。原因は不明だが、鏡原も私と同じように監禁されたらしい。だが、鏡原は圧倒的学習能力で監禁していた相手の技を全て吸収し、逆に返り討ちにしたという。デタラメすぎるでしょ。
  私ができなかったことをやってのけた相手に私が勝てるはずなんてない。そんなことは分かってる。 
  でも、恩人のために立ち上がらないと。何かできるはずだ。恩人のために――!
 
  木山も立つ。
 「俺を忘れるなよ」
 
  初めて見たのは小学生の頃だった。一目惚れってヤツだと思う。神崎先生の病院に入院したとき、たまたま、廊下に座ってる姐さんに出会った。
  なんでかは分からなかった。細々した体、闇に捕らわれた目、薄幸な人だと思った。でもその中にある凜としたたたずまい。所作の一つ一つが洗練されていて、美しいと思った。
  その後、合気道をやってるって知って、道場にお邪魔させてもらった。なんかよく分からなかった。そのときは姐さんの実力は知らなかったけど、同じ方法では彼女より強くはなれないって確信した。 
  合気道を否定する気はないけど、俺は俺のやり方で強くなって護りたいって思った。この美しい人を。だから俺は――!
 
  ケンも立ち上がる。
 「忘れてねぇよ。全員カッコつけかよ」
 「悪いか?」
 「全然」 
  五人が鏡原を囲むように立ち上がった。
 「なんで?」
  鏡原は壊れた人形のように首をかしげる。
 「なんで? 亜衣を一番愛してるのは私のはずなのに、なんで? 私だけ仲間外れなの? なんで?」
  鏡原もようやく少しだけ空気が分かったのだろうか。
 「女同士で愛し合うことが悪いことなの?」
 「悪くないだろ」 
  亜衣は即答する。 
 「じゃあ、どうして?」
 「どうしてか……お前からのアプローチ、ちゃんと返事してなかったな」
  そういえば私は鏡原のアプローチにちゃんと向き合ってなかった。私がそんなんだから我慢ができなくなって狂気に走ったのかもしれない。だとしたらこのモンスターを生み出したのは私だ。そのせいで両親も、芽衣も死んだ。鏡原を許すことはできないが、せめて気持ちにちゃんと返事だけはしなければならない。
 「私はお前のことを好きじゃない。だから悪いけどお前とは付き合えない」
  鏡原の表情が凍り付く。
 「あと、誰を好きになるかは自由だけど、押しつけるモンじゃないだろ」
 「ああぁああああああああああああ!」
  鏡原は絶叫し消しゴムを全方向に乱射する。
 「ロミ!」
  硝は咄嗟にロミを物陰に避難させる。
 「ここに隠れてろ」
 「ありがと」
  硝が戦場に戻った時にはケンが鏡原に拳を振りかざす。
  ケンの攻撃を全て防ぎ、蹴り飛ばす。
  木山のエアガンの攻撃も全部弾く。
  森田の折れた木刀の二刀流ももろともせず掌底で飛ばす。
 「ヤツは多分後頭部が弱点だ。そこを狙え!」
  亜衣の指示が響き渡る。
 「分かりました」
  木山は鏡原の背後へ回り込み射撃するが、全て防がれる。
  亜衣が距離を詰める。
 「亜衣っ!」 
  岩石落とし!
  頭を地面にたたきつけようとするが、腕で支えられ失敗する。
  腕でジャンプされ、抜けられる。
  消しゴム蹴弾丸(イレイサー・ストライク)!
  着地するよりも早く硝が追撃する。
 「森田さん!」 
  硝は突き出した両手で一つの消しゴムを森田の方に弾く。
  森田は二対の折れた木刀で硝が放った消しゴムを鏡原の後頭部目がけて放つ。
  消しゴム反射長距離弾改(イレイサー・リフレクト・ライフル・かい)!
  鏡原は反応し右手で防ごうとするが、逆に右手が弾かれる。
 「これにも反応するのかよ」
 「でも、収穫はありますよ」
  木山が硝の近くまで走ってくる。
 「どういうことですか?」
 「さっきまで鏡原藍は白川さんの消しゴムをキャッチできるときは確実につかんでました。しかし、今は掴もうとしても逆に弾かれた」
 「なるほど」
 「はい。私逹の攻撃は効いてます。彼女は無敵なんかじゃありません」
  最初に病院で対峙したときに思った通りだ。体力と防御力が無限の人間なんてありえない。確実に体力は削られている。勝機は必ずある。
 「で、それが分かったところで次はどうします?」
  次、白川さんは消耗している多分消しゴム拳銃弾やそれ以上の大技は撃てない。だから質じゃなくて数で攻めるしかない。
 「白川さん、消しゴム連弾は撃てますか?」 
 「撃てますけど、指がアレでいつもの半分ぐらいの威力と段数、いつもの四分の一ぐらいのクオリティしか撃てないです」
  硝は指を開いたり閉じたりして調子を見ながら答える。
  訂正、思ってたより指の調子は悪そう、ならば私がカバーするしかない。
 「そうですか。じゃあ、それお願いします」   
  木山は上着を勢いよく開く。    
  上着の中にはエアガンの改造パーツが大量にあり、彼女はそれを手早く組み立てる。
  二丁のガトリングを構える。
 「ケン、俺を飛ばしてくれ!」
  硝が走りだす。 
 「分かった!」
  森田と格闘していたケンも硝の下へ走り出す。
  ケンは両手で硝の足場を作り、硝はそれを足場にして飛び上がる。
 「みなさんどいてください!」
  木山の合図で、亜衣、森田、ケンは鏡原から離れる。
  消しゴムの雨(イレイサー・レイン)!
  硝は空中から大量の消しゴムを弾く。同時に木山の銃口から大量の弾丸が放たれる。
  普通に消しゴム連弾を放っても鏡原にはあまり効果がない。しかも消耗したせいでいつもよりも威力は出せない。ならば他の何かで威力を補うしかない。だから、ケンに上空へ飛ばしてもらい、そこから放つことで威力を少しでも補完する。それに木山さんの援護射撃で複数の方面から攻撃することで威力はかなり増しているはず。
  鏡原は両手で後頭部を押さえながら狂い踊る。
  これでも効果ナシかよ……!
  ビュン!
  硝と木山の砲撃が終わった直後、鏡原に何かが飛ばされるが、難なく右手で掴む。掴んだそれは折れた森田の木刀の刀身だった。
 「あぁあああああああ!」
  森田は柄を鏡原が掴んだ刀身に突き立てる。
  ブシュッ!
  柄によって押し出された刀身が鏡原の頬をかすめる。
 「うざい」
 「同じ手は食わない!」
  鏡原の左ストレートを柄で防ぎ、逆に左拳を粉砕する。 
 「金田!」
  亜衣とケンが走り出すのを見、森田は後ろへ飛ぶ。
  亜衣は鏡原の前に立ち止まり、ケンの腕を掴む。
 「うぉおおおおおおお!」
  腰投げ!
  ケンは亜衣の腰の上を回り腰投げの勢いを足し合わせたかかと落としを鏡原の後頭部にたたき込む。
  鏡原はもちろんガードするが、ケンのかかとはガードごと後頭部に炸裂した。
 「あぁあああ!」
  一瞬膝をつき、立ち上がり白目をむきながら亜衣に向かってくる。
  亜衣は鏡原の脇の下に体を沈ませ、足を掴む。
  これで終わりだ! 鏡原!
  合気落とし!
  背中から後頭部ごと地面に体を叩きつける。
 「亜……衣……」
  鏡原はようやく動かなくなった。
  五人は力が抜け、その場に座り込む。
 「やった……んですよね?」
 「多分……」
 「姐さん……」
 「ありがとな……」 
  亜衣は優しく微笑んだ。
  ようやく長年の肩の荷が降りたといったところだろう。
 「じゃあ、あとは神崎先生に連絡して」
 「場所は連絡して近くまで来てもらってるよ」
  ロミは物陰から声を出す。
 「じゃ、呼んできてくれねぇか? 動けねぇ」
 「うん。分かった」
  ロミは走り出す。
 「芽衣……」
  亜衣も立ち上がりロミの方へ歩き出す。
 「亜衣……!」
  全員の視線が一つに集まる。
  反射を超えて、それは亜衣に掴み掛かり、柵まで行く。
 「一緒になろ」
  鏡原は亜衣を連れ、柵を跳び越える。
 「亜衣さん!」
  間一髪、一番近くにいたロミが亜衣の腕を掴む。
 「今引き上げますから……」
  ロミは引き上げようとするが、鏡原が亜衣にしがみき暴れるため上手く引き上げれない。
  腕が汗で滑る。
  みんなと違って強くない。戦っても足手まといなだけ。だからせめてこの手は離さない! 
 「お姉ちゃん!」
  芽衣も亜衣の腕を掴もうとするが、手が届かない。
 「邪魔しないで!」
  汗で手が滑り、離れる。
 「亜衣さん!」
  ロミは亜衣に対して手を伸ばすが、離れていく。
  ごめんな、約束果たせなくて……。
  亜衣は静かに目を閉じ――。
 「姐さん! 手を!」
  ケンが柵を跳び越え、亜衣の下へダイブし、手を伸ばす。
 「金田……!」
  亜衣も答えるように手を伸ばす    
  二人の手が繋がる。
  金田は建物の窓枠に手を引っかけ、亜衣を持ち上げ、鏡原を蹴り飛ばす。
 「嫌っ!」
  鏡原が亜衣から離れ地面に落ちていく。
 「あぁああああああああああああああ!」
  鏡原は地面に向かって硝から奪った残りの全ての消しゴムを弾く。
  射出の勢いで少し落下の速度が落ち、地面からの跳弾を階段代わりにして亜衣の下へ。
  消しゴムの階段(イレイサー・ステアー)、硝の技の一つだが、鏡原の前では一度も使っていない。最後の最後に自身が盗んだ技の応用ができるということを見せつける。
 「くっそ!」
  鏡原に反撃しようにも、ケンは両手がふさがっている。しかも窓枠にギリギリ捕まっているという状態なので下手に動けない。亜衣も自身が下手に動いたらケンが危ないということが分かっているため動けない。
  あと少しなのに! くっそ! 俺は役立たずなのかよ! 俺は姐さんを護ることはできないのかよ!  
 「ケン!」
  硝が柵から身を乗り出して呼びかける。
  硝? 何を……そうか! そういうことか!
 「頼んだ!」 
  突き出した両手で消しゴム一つを弾く。
  消しゴム長距離弾(イレイサー・ライフル)!    
  鏡原の右目に最後の一撃は直撃し、地面にたたき落とす。
 「どうして……?」
  最後に手を伸ばすが、届かない。
  
  どうして私を拒絶するの? あの女はいないのに? どうして? どうして? どうして?
  
  あぁ、でもいいや、今日はいっぱいふれあえた。今日は寝て、次は明日にしよう。明日はもっといっぱいふれあおう。きもちいいことしよう。うん。そうしよう。きょうはもうねよう……あぁ、でもひとつかなうなら……。
 
  亜衣に『鏡原』じゃなくて『藍』ってよんでほしかったな……。 
 
  そのまま彼女は地面に倒れた。
 
  無事、鏡原の身柄は神崎に回収され、どこか遠い病院で治療されることになった。命に別状はないが、意識は当分もどらないというのが神崎の見立てだ。  
  鏡原と戦った五人と哲は神崎が務めている病院で入院することになり、ロミは病院に泊まり看病している。
 「病院生活って昔みたいだね」
  ロミは笑顔で硝に話しかける。
 「まぁな」
  包帯を巻かれた指を動かしてみる。
 「指の調子、どう?」
 「少しはマシになったけど、まだけっこう痛い」  
 「そうなんだ……」
  硝は特に指の骨にヒビが入っており、しばらくは消しゴムを弾くことはおろか、一週間はお店の手伝いも難しい状態だ。
 「ていうか、あれだけムリしてこれくらいで済むって、相変わらず頑丈だよな」
  横のベッドに寝転がってるケンが話しかける。
 「お前もな」
  ケンは全身、特に最後窓に捕まった左腕の筋のダメージが大きく、しばらくは上手く動かせないらしい。
  別室の哲は意識も回復し、順調に回復しているが、大事をとってお店は一週間は休業するよう神崎に言われた。  
  森田と木山は元いた病室で療養することに。ケガはヒドいが、順調に回復している。
  亜衣は――。
 「亜衣さん」
  亜衣一人でいる病室に二人の女子高生が入る。
  一人は月代美香、三ヶ月ほど前亜衣に助けてもらった女子高生だ。
 「美香さんか、久しぶり」
 「お久しぶりです」
  美香は軽くお辞儀する。
 「すまない、以前の約束を果たせなくて」
  週末遊びに行くって言っておきながら、鏡原の件で果たせなくなってしまった。
 「別に大丈夫ですよ。またよかったら」
 「あぁ」
  亜衣の視線がもう一人の方に向く。
  もう一人の女子高生は人見知りなのか、美香の後ろに隠れてこちらを伺っている。
 「こちらは最近知り合った三島鈴(みしますず)さんです」
 「こんにちは」
  鈴は美香の背中から小さくお辞儀する。
  人見知りなのか? 芽衣もそうだったな……。
 「こんにちは」
  亜衣も座りながらお辞儀する。 
 「あの、いつも美香さん、亜衣さんの話してたんで、会いたいって思って、その……」
 「ちょっはずかしいから言わないで!」
  美香が鈴の口を塞ごうとする。二人は目の前の亜衣のことはお構いなしで二人の世界に入る。
 
  亜衣は詳しいことは知らないが、亜衣が美香を助けて三ヶ月が過ぎた頃、ちょうど今から二週間ほど前のことである。
  美香は病院の近くの橋の上から飛び降り自殺をしようとしていた鈴に出会い、かつて亜衣が美香にしてくれたように彼女は鈴に話しかると、鈴は泣きながらどうして自殺しようとしたかを話した。どうやら彼氏に二股かけられたらしい。話を聞いた美香は彼女を優しく抱きしめ、そのまま友達になり、亜衣の話をしたら鈴が会いたいと言ったのだ。
 
  よかった。月代さん、前に会った時と違って元気そうだ。
 「美香のことありがとうございました」
  亜衣の前にもう一人の女子高生が微笑んでいた。
  いつの間に入ってたんだろう? 多分、月代さんたちが入ってきたときに一緒に入ってきたんだろうな。
  美香と鈴には彼女のことは見えていない。
  彼女の名前は七瀬沙織(ななせさおり)、美香の親友で三ヶ月前殺された。
  亜衣は彼女の死体を見たことがあるので、誰かはすぐに分かった。
 「すまない。君を助けることができなくて……」
  亜衣は沙織に重く頭を下げる。
 「いえ、まぁ、本音を言えば助けて欲しかったですけど、仕方ないですよ。それよりも美香を助けてくださって、本当にありがとうございました。もしよろしければ、これからも美香のことよろしくお願いします」
 「……分かった」
 「お姉ちゃん」
  芽衣がベッドの下から顔をのぞき込む。
 「芽衣……」
 「この子と屋上にいる人から聞きました。たくさんの人を助けてくださってるって」
  亜衣は下を向いたまま黙っている。
 「うんしょ。お姉ちゃん、どうしたの?」
  芽衣が精一杯背伸びして亜衣の頭をなでようとする。
  芽衣の頭に亜衣の手がのる。
 「また後でな」
  優しくなで、すぐに離す。月代さんたちが見たら驚かせてしまう。
 「どうしたんですか亜衣さん?」
  美香が亜衣の顔をのぞき込む。
 「いや、なんでもない……」
 「お姉ちゃん、泣いてるの?」
  芽衣が不思議そうに首をかしげる。
  自身の頬に熱いものが流れていることに気づき、手でこする。
 「なんでもない……」
  亜衣は顔を上げ、右目を隠している髪をめくる。
 「ありがとな……」
  彼女は初めて自分の意思で『傷』を見せた。