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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.45 / 歓待
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 [[活動/霧雨]]
 
 **歓待 [#f19cc8a4]
 
 鮎川つくる
 
 
  教会の窓から見える縦横無尽に這い回る雷は、雨水に濡れた草むらをほんの数秒照らす。石造りの堅牢な石造りの建物でも、轟音と共にわたしの身体を揺らす。昨晩遅くに飲んだ眠気覚ましの濃い紅茶のせいで、睡眠の調子が乱れて目がすっかり冴えてしまった。ベッドに腰掛けて、窓のサッシに両腕をかけ、雨粒が混ざって一本の線になるのを見ていた。
  ごうごうという風の音と雷鳴の中でも、やけに時計の秒針が気になるのは奇妙なことだった。雨脚は強くなったり弱くなったり、子供の蛇口遊びのように、気まぐれにメリハリが付いている。そのせいかずっと見ることができた。鬱蒼と茂り都市と教会を断絶する木立の、黒々したビリジアンを見つめていると、段々と眠くなってくる。何度かサッシの腕に頭を乗せると、ずっしりとした頭蓋骨に押されて、髪の毛の跡が肌に付く。皮膚の凹凸をなぞっていると、木立の中からふらっと、外套を着込んだ人間がひとりこちらに向かってくる。はじめ野良猫でも見間違えたのだろうと気にもかけなかったが、稲光に照らされ影法師がハッキリ浮かんで間違いではないことがわかった。外套はこちらを見やることもせず、わたしの部屋の真下のドア前に向かって(真下だからよく見えない)そそくさと来た道を戻っていく。また雨が強くなってきた。窓に両手を押し付けて外套を探すけれど、街灯もない木立に紛れててすぐに見失った。
  蝶番のギイとなる音が響き、油指しを怠っていたことを後悔したが遅い。ゆっくりと閉め出来るだけ音を立てないようにしようとすると、一段と音ばかり目立つ。えんじの絨毯にのすのすという曇った靴音が乗せられていく。雨風が窓を揺らし、教会への侵入を試みる。きっと彼らも救いを求めているのだろう。
  身廊への長い階段を下る。夜更けのアーケードは静けさが堆積しいて、わたしが一歩あるくごとにばっと舞った。カンテラの照明で、天井に向かっていく圧倒される柱の影が幾重にも重なって曲がっている。床に施された幾何学模様の一部分が照らされ闇の中に戻っていき、を繰り返す。扉にかまされた閂をずらし、片方を内側に開く。やっと冷たい外から暖かな中に入れると、風が雨粒を伴って一気に吹き込む。わたしの寝間着に斑点を作る。一瞬息をうまく吸うことができなかったが、直ぐに慣れた。玄関の白いぼうっと浮かぶ石の階段に、夜よりもっと暗く立ち上っているなにかがあった。大きな石ころのように転がっている。わたしのカンテラを握る手に力がこもり、どこからか吹き出す汗に滑りが良くなる。灯りを近づけると、わたしは叫んだ、いや、声にはならなかった。声帯を通り抜ける息の量があまりに多く、互いに邪魔をして声にならなかったからだ……
 
  細い階段のステップを上手に寝かしつけられた三、四歳の小さな、月のない嵐の晩でもはっきり判る光り輝く白い肌を絹糸のようにまとって、あめ色の布でぐるぐると身体を巻かれていた。けれどおでこに指で触れると、爪が痛くなるほど冷えていて、顔色も悪い。唇が震え、足が笑い出す。頭で丸め込もうとするけれど、次々に感情が湧き上がってきてわたしの能力を軽々超えて行ってしまう。危なっかしい手つきで布を剥がしていくと、泥にまみれ所々にほつれのある上等な服が見えた。薄水色のリボンをつけて、丸襟のシャツを来ている。明るい髪の色に似合っていて、本当にかわいらしい。剥がした布に手紙が一枚挟まっていて、くしゃくしゃの糊付けされていない封筒を開けると、震える字でこう書かれていた。
 
  マリアに幸あれああ、マリアさま。この哀れなわたしの息子をお救いくださいまし。全てわたしが悪いのですわ、自暴自棄になって溺れていく生活を繰り返していたんですもの。けれどこの子に罪はありませんわ、ああ……お救いくださいまし。……最後の贈り物として、捨てられていたものだけれど上等な服を着せてあげましたの。ああ憐れみを!
 
  そのあとは判別不能の文字が続き、ところどころインクが滲んで円形にぼやけている。すっかり雨は止んで、月が思い出したように出ている。わたしは、この大雨で近くの川の水が増えている様子をふと、考えていた。
 
  ひとまずわたしは、この捨て子の身体を洗って綺麗な服を着せてあげようと思った。小さな男の子といってもすっかり重く、腰や膝にかなり負担がかかる。少し無理な持ち上げ方でも、疲れているのかすやすやと眠っている。赤ん坊を抱くようにして持ち上げ、とりあえず教会内に入れ、閂をずらす。月明かりでステンドグラスから色とりどりの、緑や青の影ができ、磨かれた床に広がっていたので、カンテラの火を吹き消して脇に隠しておく。扉近くの柱の裏は誰も気にしない。男の子をおぶってしまおうかと試したけれど、眠ってふにゃふにゃしている子にはどうしようもないいない。仕方なく縦に抱きかかえることにした。柱を抜け側廊の壁の装飾に溶込んだドアを開け、絨毯の廊下を進んでいく。草むらは、今度月明かりに照らされていた。
  井戸で水を組み火にかける。その間に普段は野菜などを洗う桶を用意して、手頃に温まったお湯を注ぎ、そのままの井戸水と合わせて加減を調整する。巻かれていた布を外す。わたしは、エジプトのミイラの発掘はこのような感覚なのだろうか、とぼんやり思った。男の子は、半ズボンに不釣り合いのハイソックスを履いている。黄色い靴は踵が崩れていた。この子の母親が狂気じみた双眸でごみのボタ山を這い回る様子や、くたくたになった布地をテーブルに当てて伸ばす作業、あり合わせの針と糸で大きなほつれを繕う動作が香りのように漂ってくる。黄ばんだ靴下には、薄くなった折り目についた線が唸っている。
  わたしは男の子の手を取って小さくキスをした。敏感な唇で感じる肌は、水の流れている新鮮な肌であった。自暴自棄に、と形容したこの子の母親をまた想像する。数回肌の上に手を滑らせると、氷の軽やかさで指先が流れていく。触感だけでなく温度も……というところでまず身体を温めなくてはと思い出しシャツのボタンを外し始める。胸が上下に揺れて、湿った吐息がわたしの肌に当たる。お終いのボタンまで外すと、脱がせようと左右に開けると、気付くと叫んでいた。自分の声に驚いた。さっき声が出なかったのは、驚いたわけではないからだと悟る。
  真っ白なテーブルクロスに沁みたソース、ワイン、汚れ。汚染。赤紫色、固まった黒い血の色。被りついたトマトの断面。仰け反ったわたしは片腕だけで衝撃を支えたため、左手に棒を差し込まれたような痛みがする。この子の肌には胸だけで大きく三箇所の地図に付着した大陸のごとく、火傷とは違う黒ずんだ細かい瘢痕が散っていた。うじ虫が這い回っていそうな、何か邪悪なものの拷問の跡のような……生きている傷。わたしは走って外に飛び出す。草むらを超える。木の下で、根っこに向かって吐く。嗚咽に似た音が喉から漏れる。足を見ると草についた雨水のせいで、寝間着の下が濡れている。弱い月光の元でこれだけの恐怖。背筋に嫌な汗をかいて、夜の冷気で固まる。ごつごつした木の根に半分消化された夕食がかかって仄白くなった。わたしは深い深い空を見上げて、アヴェ・マリア……と溢した。
 
  いつまでそうしていただろう。でも誰があの子を救うんだろうか、わたしは凍りついた足と地面を無理に引き剥がし、一歩一歩崩れぬように転けないように進んでいく。満月はずっと低い位置に移動していた。教会から飛び出た炊事場が、不思議に歪んで異臭を放っているような気がする。そんな気がするたびに深く呼吸をし、汚れた空気を外に出すようなるたけ試みた。
  炊事場に戻ると、流しや蛇口が影を作って沈んでいるなかで、弱い声が聞こえる。
 ――ねえ、ママ、どこにいるの?ぼくさむいんだ。
  わたしは駆け出してぼんやり座って天井を見ている怯えた子を抱き上げた。「ええ、ママはここよ、いまお湯に入れてあげるから」とつるつると言葉の蔓は喉奥から出てくる。この弱々しい子が、悲愴な運命を背負った子が、いまわたしの腕の中にいる。ああ、マリアさま、憐れみを……この孤独をこんなにも早く知ってしまった子に、ご加護を!
 ――ママのからだはあたたかいな、おっぱいのにおいがする。
  ソックスで隠れていた足、下半身、シャツで隠れていた上半身、顔と腕に何もないことが幸い……ああ、この子にもまだ幸せが残っているのですね。お湯に入れるとなんとも心地好さそうな声をううんともらした。それだけで忽ちしあわせな気分になった。
 「あなた、名前はなんていうの」
  わたしは言ってから後悔してしまったが、純粋な子どもは少し顔を傾けただけで――グラーナ、ぼくグラーナ、と言った。
 
  わたしの息子グラーナと出会ってから数日は、わたしの狭い自室で一緒に過ごした。心配する他のシスターたちをよそに食事を半分まで減らしてから、「食欲がないの、でも食べ物を無駄にはできないもの、部屋に持ち帰ってゆっくり食べるわ」と言ってグラーナにあげた。グラーナは好き嫌いせず、文句も言わず、部屋でもずっと椅子に座ってのんびりしていた。毎日グラーナの手と額にキスをした。グラーナはそれでいつも微笑んだ。
 ――ねえ、ママ、ぼく、なんだかよごれているんだけど、と傷を指して尋ねたときは、「あなたの綺麗な肌は太陽の光に弱くて、浴びすぎるとそうなるのよ」と教えた。それから、グラーナは窓には寄り付かなくなった。窓から目撃されてしまう心配がなくなって安心したが、食べ物の問題や、隠しておく都合から、息子専用の部屋を探すようになった。
  グラーナにさようなら、お利口にね、と言ってから、いつものように鍵をかけていると、別のシスターがいやらしい目つきでこちらを見ている。
 「あら、どうして鍵をおかけになりましたの」
 「このくらい普通のことなんじゃないの」
  かの女はあんぐりと口を開けて手をくねくねと動かし、「わたくし達のことを信用できないとおっしゃるの?」
  教会という閉鎖空間で、いつもかの女たちは「事件」に飢えていた。卑劣な嗅覚を発揮して、些細な出来事に指を突っ込んで何倍にも広げた。あのシスターは、厳かな夕食の時間に、緊急会議を開いて高らかに宣言した。
 「この中にわたくしたちを信用なさらない方がいるのよ、マザー」
  かの女は、もっとも年配のシスターの方を向いた。場は一旦静かになった。マザーが口にして、それが終わるまでは何も言わないのが暗黙の決まりごとだった。マザーはしわが刻まれた乾燥した唇隙間から「ここは神がご加護を与え給う教会です。即ちあらゆる悪事は全て露見するのですよ」わたしの方を向いた言った。そして(マザーの息を吸う音から皆黙ったままで)「あなたを食糧庫の仕事に移します、明日から真摯に取り組むように」最後に、神のご加護のあらんことを、と言って皆で復唱した。ぞろぞろとかの女たちは部屋に戻っていく。わたしは食料庫に張った蜘蛛の巣や、汚らしいねずみの家族を思った。
 
 「早くあなたの部屋を見つけないとね」
 ――どうしてママ、このへやじゃだめなの?
 「日が差し込んでしまうもの、それに、もう鍵をかけることはできないの」
  グラーナに囁き声の子守唄を歌う。星屑が落ちてきて小麦になったという歌が、いちばん好きだった。せがまれれば何回でも歌う。一度外に連れ出して、星の綺麗な丘にでも登って、この歌を歌ってあげたい。
  グラーナが寝静まると、毎晩同じように十字架の前に跪き懺悔をする。しん、とした室内に、わんわんと耳元で囁くような音が鳴る。教会の石の床は冷たいけれど、身が引き締まる思いがして丁度いい。
 「マリアに幸あれ……始めてグラーナを見たときに戸惑ったわたしを、他のシスターたちを愛していないわたしを、お許し下さい……」
  グラーナと暮らし始めて服の工面にも困った。何しろ始めて会ったときのごみ捨て場出身の服一着しか持っていないのだ。だから街までの外出許可をもらう。比較的ありふれたことなので風当たりが強い中でも許可が出た。しかし、あまり目立つ行動をすることはできない。グラーナより少し大きいくらいの姪への贈り物として二、三着の服を買った。「ごめんなさいね、女の子が着るような服なんだけれど」――ううん、ぼく、こんなにすてきなふくをきるのははじめてだよ。
  翌日から食糧庫での仕事が始まった。食糧庫は薄暗く、細長い棚が十列ほど淡々と並んでいるだけの殺風景な部屋だ。わたしは羽箒を持って親指ほどの蜘蛛が蠢く巣を払って足で蜘蛛を潰す。ああ、ごめんなさい。ねずみの腐って茶色く変色した死体を棄てる。
  棚の奥にまで、壁際は特に、埃がたまっていた。缶詰や小麦の袋を引っ張り出して日付を見ると、ゆうに十年は保管されているものもある。部屋の手前から奥へと、前の担当は相当手を抜いていたのだろう、三段分を丁寧に布で吹いていく。布はたちまち全ての布地に砂や細かい埃が染み付いた。
  部屋の奥まった隅の、木箱に入った魚の缶詰を引き出すと、壁と壁に切れ込みが見えた。横の果物の缶詰も引っ張り出すと、それはドアだった。ちょうど棚の段が取り払われて、人が一人きちんと入れる大きさの、錆びた蝶番が二つ付いたドアが現れた。押してみると、時間の音がばりばりと落ちてきて開いた。わたしは食糧庫の燭台を取り外し、中を覗いてみると、下りの階段がぽっかり口を開けている。階段の一段目に恐る恐る体重を移動させると、老人の呻き声がしたけれど、しっかりと支えている。
  底に着くと、人一人が住むには充分な広さの倉庫に、穴の空いたベッドの木枠や歪んだ本棚が雑多に置かれていた。部屋をぐるぐる回って、机に体重をかけたり椅子に座ったりベッドに寝転んだりした。結果はどれも上々で、埃臭いのを別にすれば快適だった。わたしは嬉しくて踊り出しそうになる。きっとグラーナも喜ぶ部屋になるはずだ。
  それからわたしは食糧庫の掃除と共に倉庫の片付けも始めた。髪には埃の臭いが染み付き、服はいつもどこか白っぽくなっていたが、全く苦にならない。埃を取り除き、水拭きする。穴の空いたベッドの木枠には、裏から木を当てて補強する。机の脚を補強して、明かりとりのランプを天井からぶら下げる。
  カンテラを提げていると目立ってしまうので、半月の晩だったけれど我慢して決行した。グラーナの額にキスをする。暖かな拍動を感じた。少ない月光のなかでも、息子はきらめいて見えた。肩を優しく叩いて起こす。「あなたの部屋を用意したのよ」――ママ……。
  重たそうな頭を抱えて、グラーナはカエデの手で目を擦る。あくびを大きく一度した。わたしはグラーナを背負った、今度はちゃんと腕を回してくれてしがみ付いている。
 
  隠し部屋のベッドに身体を乗せると、また眠っていた。小さい五本指を握ってキスをする。ランプの明るい光の中で、水滴が走る腕をじっと見ていた。何気なく左手の掌を向けると、小さな傷が、グラーナの服の下で蠢いている傷を見つけた。ほくろのように探せば探すほど見つかり、いちばん応えたのは、青色のきらきらした目の下に、顔にも傷の種があったことである。これまで薄暗い場所でしかグラーナを見ていなかったことを後悔した。この子の苦痛はまだ酷くなっている。ああ、ああ……。口の中に塩辛い味が広がって、両目を潰れるくらいに瞼を下ろす。両方の鼻の穴からたらたらと鼻水が出ていることに気がついたときには、もう、涙はかわいていた。
 
  隠し部屋で色々なことを教えた、文字の読み方、書き方、簡単な計算。本を毎週空の本棚に補充した。せめてもの外とのつながりを持っていて欲しいと思ったからだ。砂漠をわたしの血だけで潤せ、と言われれば、躊躇わずに首の血管を切ろう……
 ――ねえ、ママ、今日はこの話を読んで欲しいな。
  グラーナはあまりに小さかったせいか、両腕の傷は初めからあると信じて疑わなかった。傷は大木に張り付く黴のように、うねってうごめいて自らの仲間を増やし、永遠の楽園の天上の肌を汚していく。もうわたしは、息子のざらざら乾燥した傷に触れることになんの抵抗も感じなかった。むしろ、唇を当てることで忌々しいグラーナにはびこる悪魔を吸い出してやろうと思っているほどだ。傷に口を付けると、決まっていつも――くすぐったいよ、と言って気持ちよさそうに笑っていた。
  これは全くに偶然かもしれないが、何も教えていないのにグラーナは夜に目を醒まして昼間は眠っていた。わたしが補給すランプの光だけで、自然光が一切排除された部屋で、自然に自分が活動すべき時間を見つけ出したことは、本当に驚きだ。
  もうこの頃になると、シスターたちのうち何人かは入れ替わり、わたしは経験があるからということでずっと食糧庫を任されている。グラーナの誕生日にはクッキーを焼いて、隠し部屋で一緒に食べた。あめ色の少し濃いめの苦い紅茶をグラーナが味見して、舌を手で拭いていた。甘い香りで包まれている。わたしは息子の顔に浮かんだ大陸を見て、目線を下げた。
  グラーナは十四歳になっていた。
 
 ――あ、ママ。今週の本も面白かったよ。次は星座について知りたいな。
  夜中に隠し部屋に降りていくと、グラーナは椅子に座って本の整理をしていた。わたしは彼を抱き寄せて髪を撫でる。
 「そろそろ切らなくちゃいけないかしら」
 ――もうもみあげの辺りが鬱陶しいんだよ。
  グラーナの皮膚の上での傷の進行はずっと止まったままのようで、けれど半袖を着ると見える腕の傷や、手のひら、なんといっても左目の周辺から額にかけて伸びる傷が一番痛々しい。わたしは顔の傷に口を付けた。
 ――もう、くすぐったいよ、ママ。
  グラーナは一呼吸置いて――最近ママにキスされると、ちんちんが固くなっちゃうんだ。なにかの病気なのかな?
  もうわたしの身体の中は大しけだった。強大な波の力を止めたのは、多分それぞれの波がてんでばらばらの方向に向いていたからに違いない。何が一体この子の幸せなのかしら、傷を全身に受けて、隠れて生きるしかないこの子の。螺旋階段は深い海の底につき刺さっている。重い水圧はわたしをゆっくりと海底に押し続けていく。この子は何か「楽しい」と思ったことがあるのかしら。何か楽しい思い出はある、などと質問するだなんてグラーナのことを無視した発言はとても出来ない。わたしは神に仕える身であるけれど、わたしはどうして人一人救うことができないのかしら……消えてしまう煙を留めておくことはできないのかしら……ああ、ああ、アヴェ・マリア!
 ――ママ、泣いている……
  天井を見ていたが、頰を伝う塩辛い川の流れはどうしようもなかった。わたしはもう一度いつまで経ってもくすまないグラーナの肌を撫でた。グラーナの前で何か巨大な感情に盲目になってしまうのは避けたいことだった。わたしは二重に泣いた。グラーナに対して、わたしに対して……
  まだグラーナは起きている時間だけれど、わたしの手を取って、眠ろうよ、多分寝不足なんじゃないかな、最近ずっとぼくに付きっ切りだもの、と言って、センチメンタルになっていた心情が溺れていく。
 「本当に大きくなったわね、グラーナ……」
  十年もわたし以外誰にも触れられていない身体は、水よりも澄んでいて、太陽より美しい。なりよりもこれだけの長期間隠し通せたことに感謝した。
 
  翌朝、目を覚ますとグラーナは静かにわたしの髪を撫でていた。――ママの髪、綺麗だね。ぼくもこんなになるかな。
  髪を通じてグラーナのぎこちない手の動きが伝わってくる。強張った筋、不自然な健、塊のつっかえている喉奥、全てが見えた。
  服のしわを出来るだけ伸ばして、ベッドのシーツを綺麗に敷き直し、傷にキスをする。グラーナの眉毛、ああ、眉毛。
 「おやすみなさい、グラーナ」
  わたしは振り返らないよう決心し、足首を強く地面に押し当てる。高まる心拍とめくるめく暗いイメージを振りほどきながら階段に足をかけた。
 ――ママ、行かないでよ。寂しすぎる。
  わたしの身体を巻き込んで両手を組むことができるほどに成長したのね。わたしが感情の均衡を破ってしまったから、グラーナの水門を開いてしまったんだわ。力を込めてがっしりと結合した指同士を剥がしていく。わたしの薄い皮が剥がれているわ、わたしの汚らしい薄い皮が! 左手の掌の傷が線として広がっていく。階段を、階段を登って。息を大きく吐くと、わたしは背中で木箱を押しているところだった。ああ、グラーナ! 小さな息子!
  両手を顔に押し当てると、頭の上の方からだらだら流れる色々な水でべっとり濡れていた。炊事場に出てくると、まだ夜明け前で、一日のうち最も暗い時間だった。
  部屋に戻って、朝食の席に出なかったためにシスターがやってきて、体調を崩したと伝えてもらう。わたしはただひたすらに教会の大きな十字架を思い浮かべて、そちらを向いて、ひざまづいて許しを請うた。わたしはいつも自分のことしか考えられないのです。人を救えないのです。誰がグラーナを救うの……?
 
  夢遊病患者の心地で、多分いつもの体に染み付いた癖で、隠し部屋に向かっていた。ぼす、ぼす、という絨毯に足を踏み込む音が、小さな粒に分解されていく。階段を降りて炊事場に向かう。炊事場には静謐な空気があった。隠し部屋へのドアを開けて、階段の軋みを一つ一つ、絵画を鑑賞する気持ちで進んでいた。
  部屋は別に荒れておらず、いつもと同じ位置に同じものがあった。ベッドで蛹のように丸まったグラーナをゆっくり引き伸ばすと、下の瞼が腫れていて、頰に残った水の跡をゆっくりと指でなぞる。それから傷に口をつけた、長く、長く、目が醒めるまで。
 ――ママ……
  まだ子どもの身体は震えていた。強烈な感情が肉体に及ぼす影響を初めて感じ取り、わたしは自分自身を呪った。グラーナは腕の中でただ暖かい、たた暖かい。
  わたしはグラーナの服を一枚一枚丁寧に剥がしていった。シャツを脱がすときの手は震えていた。出会ったとき、月明かりの元でボタンを外してく様子を思い出す。泥などついていない、しみもないシャツを脱がせていることに、わたしはとても幸福を感じた。
  露わになった傷の浮島を一つ一つ順に確かめていく。こんなに美しく、そして目も当てられないような体はあるだろうか。グラーナの確実に言うことができる「楽しみ」は、自身の見た目になんの卑屈な印象を持たなかったことだ。でもそれだって、わたしの勝手な解釈でしかない。生焼けの生地に乗ったサラミ。
 ――ここに入れればいいの?
  どこまでも無邪気でまっすぐな声は、鳥の声を出すおもちゃのようにキュルキュルと音を出す。わたしは無言で頷いた。どんな運動よりも、どんな労働よりも、必死になって頭を動かした。
  グラーナは苦しそうに笑っていた。すごいや、と言っている。彼が突くたびに水の音がぱちゃぱちゃ跳ねる。滑らかさは止まることがなく、何度も涎を垂らす。
  アヴェ・マリア、憐れみを、アヴェ・マリア、お救い下さい……
  罪はわたしが背負いましょう、グラーナは常に、生まれてから、そして死ぬまで潔白なのですから! わたしはもう地獄の底の黒々した土に埋められるでしょう。けれども芽を出して罪もなく唐突に投げ出され浮遊するグラーナを天へと押し上げる大樹となりましょう!
  グラーナの極小の艶やかな声ですべてが滞りなく終了した。
 ――たぶん、泥の沼のなかに素足で入っていくのはこんな心地なんだろうな。
 ――そういう文があってね、とても気持ちが良いらしいよ。
 
  グラーナとの同衾の三日目に、わたしのちっぽけな目玉は紅涙をさらさらと滲ませて、グラーナを驚かせた。彼の調和の外乱はわたしが引き起こしているんだわ。段差はずっと先まで続いている。わたしがグラーナをどんどん溺れさせて行っているんだわ、あの子を神聖な世界か連れ去っている。グラーナの幸福な表情が弾けることは、ぞっとすることだった。
 
  昼食の時間のあと、炊事場に入ってナイフを取り出した。井戸水で丁寧に洗う。金属の光沢が日を弾いて、何度も何度もきらめいた。隠し部屋に行くと、グラーナはスヤスヤ眠っている。シャツを開いて、胸に突き刺す。グラーナ、と叫んだ。肩を揺さぶった。眠っていた。ナイフを引き上げると、ねばねばした血と音がまとわりついていて、ランプの光でもよく見えた。この重い身体を捨てて、グラーナは自由に飛び回るのだ。わたしは揺れている視界を見た。口を抑えると、吐き出したばかりのほうれん草やかぼちゃが水っぽくふやけている。
  鋭い剣先をわたしの方に向ける。先を見ないように上の方のどこかにいるグラーナを見つけようとした。邪魔するものは何もなく、鋭い刃物は空気を切り裂いてわたしに向かった。いざ自分自身に突き刺してみると、妙にさっぱりした気持ちになって、胸から全身に発熱が走る。
  グラーナ、わたしを踏み台にして上に昇って、迷わずに、そして、全部わたしが悪いと言いなさいね。……脳の裡で繰り広げられた惨劇は、あまりに甘美であまりに低俗だった。わたしはどうしようもない粘っこさの中で、ただ風に揺れてさらさらしている草原を歩いた。
 
  グラーナは明日で、十五歳になる。降りることも、上ることできなかった。