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京都工芸繊維大学 文藝部


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 [[活動/霧雨]]
 
 **サークル・クラッシュ [#vf44a7c4]
 
 篠瀬櫂 
 
  集合時間を十五分ほど過ぎても、探している人影は改札口に現れない。
 〈城南商科大学ミステリー研究会の夏合宿、集合失敗のため開催中止に〉
  雨の降りしきるロータリーを振り返りながら、僕の頭に浮かびはじめていたのはそんなフレーズだった。
 「あの……」
  膨らみはじめた不安が遠慮を押しのけて、ためらいながらもおずおずと口を開く。
 「僕ら以外誰一人来てませんけど、みんなちゃんと間に合うんでしょうか?」
 「来なかったらどうなるんでしょうか?」
 「バスって午前中にあれ一本でしたよね?」
 「あとアメニティって何があるんでしょうか? バスタオルが荷物にギリ入りきらなくて、こっちのショルダーバッグに入れてきたんですけど……」
  僕の再三の呼びかけにも応じずに、さっきから渋い顔をしてスマホをいじってるのは、社会情報学科二回生のウタノさんだ。
  四月に入部して以来話す機会も少なくて、ちょっととっつきにくい人だとは思ってたけど、これはあんまりにもあんまりじゃないか?
 「えっと……」
 「ん」
  それまで画面に注がれてた視線が、ふいに上がって僕へと向けられる。
 「メール、LINE、Twitter、あと電話。こっちからとれる方法で連絡は試した。とりあえず待つくらいしかやることないよ。それから、タオルはコテージにも用意されてる」
 「メール、LINE、Twitter、あと電話。こっちからとれる方法で連絡は試した。とりあえず待つくらいしかやることないよ。それから、タオルはコテージにも用意されてる」
 「あ、ありがとうございます……」
  我関せず、なスタンスの表明かと思ってたら、ちゃんと連絡してたのか……。
  少し自分が恥ずかしくなって、僕は言われたとおりに待つことにした。
  次の電車が来るのが四十五分。目的地へのバスが出るのが四十七分。
  本当の本当に、間に合えばいいけど。
 
  祈りは果たして叶えられた。
 「おー、いたいた!」
  のべつまくなしに喋りあいながら、四人の男女が歩いてくる。
 「ごめんね、先輩が乗り換えのホーム間違えちゃって……」
 「待て、おれに任せたおまえらにも責任があるんじゃ」
 「まあ、それもそうですけど」
 「アヤツジさん、先輩を甘やかさないでください!」
 「三つ上に対する発言とは思えないね……」
  集団の中心にいてなじられたり弁護されたりしている、ひときわ背の高い男性がアユカワ先輩。今年で商学科五回生になる、絶賛留年中の最年長部員だ。
  アユカワ先輩とは対照的に、背が小さくてきびきび動くのがヤマグチ先輩。ミス研会員らしからぬソツのなさと容赦のない突っ込みから、いつの間にか女史と呼ばれるようになっている。所属は経済学科で回生は二回。ウタノ先輩の同回生だ。
  時に峻厳に過ぎるヤマグチ女史の追及を、なだめる側に回ることが多いのがシマダ先輩とアヤツジさん。シマダ先輩は経済学科、アヤツジさんは企業法学科に属していて、共に三回生の中堅部員だ。
  そうそう、自己紹介が遅れていたけども、僕ことキタヤマは企業法学科の一回生。ミス研では今年度唯一になる、入部半年未満の新入生だ。
 「お、なんかめっちゃ通知来てる」
 「このへんの区間、けっこう電波届かないとこ多いんですよ」
 「山ん中だし、トンネルとか多いし、しょうがないよねー」
  ウタノさんの連絡が届かなかったのは、どうも通信エリアの問題だったみたいだ。
  無事合流できた安堵もあってか、めいめいに言葉を交わし合う部員たち。
  何かに気づいたヤマグチ女史が、ふいに注意を呼びかけた。
 「そうだ、談笑してる場合じゃないですよ。バスが出ちゃいます」
 「わ。それはやばい」
 「先輩! そっちじゃありません!」
  またしてもあらぬ方向へ駆け出そうとするアユカワ先輩を、女史の一喝が追いかける。
 
  バスは降り止まない雨の中へと、ミス研ご一行様を吐き出した。僕らはしぶしぶながらゆっくりと、水浸しのアスファルトの上を進みはじめる。
 「うわ、シマダ先輩の靴、ガチのやつじゃないですか。登山とかされるんですか?」
  歩きはじめてから数分ほど経って、足元を覗き込みながらウタノ先輩が話しかける。
 「あー、いや、一応、ハイキング用のだけどね」
  言われてみればなるほど確かに、作りのしっかりした靴に見えた。
  各位の足元を順々に眺めて、いまひとつ似たような靴を履いた人物に気がつく。
 「あれ、アヤツジさんも山、登られるんですか?」
 「最近はじめたばっかりなんだけど」
 「へえ」
  見かけによらないなあとなんとなく思って、僕自身アヤツジさんのことをそう多く知っているわけでもないことに気がつく。
 「……にしても、ここまで降るとは思わなかったな」
  一向に弱まろうとしない雨足を前に、シマダ先輩が空を仰ぐ。
 「予報だと晴れだったんけどね」
 「山の天気は変わりやすいですから」
 「こりゃほとんど死の行軍だよ」
 「それは先輩だけです」
  応急処置のつもりなのか、頭にビニール袋をかぶって歩いているアユカワ先輩に、冷水のごとき女史の言葉が浴びせられる。
 
  先輩だけ、でもなかったのかも。
  長い道のりと止まない雨に、みんながそう思いはじめているのがわかった。
  軽口をたたきながら歩いていた僕らも、しだいに言葉数を減らし、ただ黙々と地面を踏みしめるようになっていた。
  文弱の徒たちの足腰を試すかのごとく、延々と容赦なく続いてきたきつい勾配がふいに途切れる。
  そこから折れ曲がる道の脇には、ちょっとした展望台のようなスペースが設けられていた。
 「お、東屋もあんじゃん。ここで休憩しよ? ね? 休憩!」
  窮地に追い込まれた小動物のように、皆へ訴えかけるアユカワ先輩。
 「そうですね、このあたりでちょっと休んだ方が」
  シマダ先輩の一言も背中を押して、僕たちはここで雨宿りをすることになった。
  荷を下ろし、ベンチに腰掛けて外を眺めていると、雨脚が段々と弱まりはじめるのがわかった。
  上空にずっと居座っていた雨雲がどんどん吹き散らされ、しばらくもしないうちに太陽が現れる。
  濡れた山並みのあらゆる場所へ、暖かい光線がその足を降ろす。まだ力強さを残した九月の光が、薄い煙霧の中に幾筋もの山稜を浮かび上がらせる。
  絶え間なく表情を変え続ける、淡い灰白色と緑が入り交じった眺めに見入っていると、背後から鋭い声が投げかけられた。
 「ほら、キタヤマくんもいつまで休憩してるんですか。もう行きますよ? 雨も止んだんだし」
  女史の声に引き戻されるようにして、僕は皆の待つ方へと振り返る。
 
 「やーついたついた」
  事前の予定よりいくらか遅れて、一行は目指すキャンプサイトにたどり着いた。
 「歩いてくるとこじゃないよホント。レンタカーでも出せば良かったのに……」
  閑散とした駐車場を横目に、疲れ切った様子のアユカワ先輩がぼやく。
 「いや、『歩くほうが道中楽しいかも』って言い出したの先輩じゃありませんでした?」
 「あんときは雨降るなんて思ってなかったの!」
 「……まあいいや。じゃ私、鍵もらってきますね」
  今回の幹事を引き受けている女史が管理棟へ向かい、数分ののちに戻ってくる。
 「はいこれ。バーベキュー用品とかは先に置いてくれてるみたいです」
  受付で受け取ったらしいパンフレットを配りながら、新たに運ぶ荷物がないことを説明する女史。
 「これ――橋まで歩くとけっこう遠回りになっちゃいますね」
  ウタノさんの声に従ってパンフレットを開き、最後のページに載っていた地図を見つける。
  管理棟とコテージの間には一筋の川が流れていて、橋がかかってるのはここから見て上流。直線距離では近いはずのコテージに行くためには、一度上流へ向かってからふたたび下ることになるみたいだ。
 「川って言ってもチョロチョロっと流れてるだけでしょ? 渡ろうと思えばどこからでもいけるんじゃないの?」
 「えー。わたし濡れるのやだな」
  あっけらかんとしたアユカワ先輩と、難色を示すアヤツジさん。
  まあ一応は見てみようかということになって、一同は一直線にコテージへ向かうルートをとった。
  問題の川に近づくにつれ、次第にせせらぎの音が聞こえだす。
 「うわ、そこそこの水量じゃないですか」
 「聞いて極楽見て地獄ってことも……」
 「それは、逆では」
  言い出しっぺのアユカワ先輩が、川べりに降りて様子を見に行く。
 「おーい。なんかいけそうだぞ」
  本当に? と訝しみながら、待っていた僕たちは順ぐりに降りる。
 「ほら、これなら渡れるだろ」
  アユカワさんの言葉は確かに、まったくの嘘というわけでもなかった。
  誰かの手によって並べられたのか、はたまた偶然の産物か、清流をかき分けるようにして点々と鎮座する石は、見方によっては飛び石と呼べないこともなさそうだ。
 「げー、冗談きつくないですか」
 「絶対押さないでくださいね! これ、フリじゃないですから!」
  口々に文句をいいながらも、先輩たちはなんだかんだ器用に飛び石を渡っていく。
 「ほら、キタヤマくんも」
  すでに対岸に降りたったアヤツジさんが、うっすらと口元に笑みを浮かべて手招きする。
  見るからに不安定そうだった大きめの石は、体重をあずけてみると案外としっかりとしていて、ちょっとやそっとではひっくり返りそうにもなかった。
  無事全員が渡りきったのを見て、アユカワ先輩はどこか得意気だ。
 「ほら、認めてもいいぞ。『たまにはアユカワさんにもついていってみるものですね』って」
 「やめてください。それ、似てませんし」
  さんざん女史にやりこめられてるだけあって、かなりいい線いってるなって個人的には思ったけど……。
  勾配を斜めに登っていくと、コテージを中心に散らばるいくつかの施設群が望めた。
 
  コテージの辺り一帯は砂利敷になっていて、まだ濡れていた路面がきらきらと光る。
 「他にも何軒か建ってたんだね」
 「ええ。だけど今日はわたしたちだけのはずです」
  事務所で確認しましたから、と言いながら女史がドアを解錠し、一同は順に中へと踏み入った。
 「おお、これはまたいかにもな……」
  日当たり良好なフローリングのリビングには、背もたれの大きなソファとテレビ。キッチンは一般的な戸建てと遜色なく、開け放された扉の向こうには小ぎれいなベッドが並んでいた。
 「つか、設備が揃いすぎてて山に来た感皆無だね」
  ウタノ先輩の率直な感想。
 「いいんですよ、どうせみんな根はインドア派なんだし。はい! 男性陣は二階ですよ。ほら行った行った」
  女史に急き立てられながら階段を上ると、ふすまを開けた先はいささかこじんまりとした和室だった。
 「「「「うお、暑づ~」」」」
  開けはなした瞬間に流れ出す淀みきった熱気が、その場にいた全員に声を上げさせる。
 「なにしてんのほら、エアコンつけてエアコン」
  畳敷きに荷物を下ろしてもいない僕に、アユカワさんのこの上なく素早い指示が飛ぶ。
  柱にかかったリモコンを見つけて、設定温度を最低の十八に。
  吹き出した冷風がほどなくして部屋全体を冷やし、僕らは生き返った心地を味わった。
 「あー、極楽じゃー」
 「しかしなんだね、原稿ほっぽって遊びに来ちゃったけど、せっせと編集してるイヌイさんに悪いよ」
  手足を伸ばして気持ちよさそうに転がりながら、シマダさんがふと残してきた部員の名を挙げる。
  二回生のイヌイさんはたった今も、『赤死館』――次号で刊行点数四〇を数えるミス研の会誌――の編集にかかりきりになってるはずだった。
 「殊勝なことをおっしゃいますけど、先輩も今の今まで忘れられてたんじゃないですか?」
 「ウタノくんほど薄情じゃないよ。頭の片隅にはずっと置いてたって」
 「そりゃどうも」
  そういえば喉も渇いたことだし、男部屋に籠もるのもなんだから、ということで、僕らはまとめて一階に降りることにした。
  こちらも冷房がよくきいている、明るくて広い洋風のリビング。
 「さっきから思ってたんだけどさあ、なんか女子部員の方が寝部屋広くとってない? 明らか一階のが環境いいし」
 「ま、そこは役得ってやつじゃないですか。それに女子はイヌイさんが来られなくて二人だけですから、その点は数が多い男どものほうが恵まれてるってことで」
  少々不満げなアユカワ先輩を、いつものごとくシマダさんがなだめる。
  まあ和室だっていかにも「合宿」って感じがして、僕はむしろ歓迎したいけど。
 「ねえ、こういうとこ来るとついつい思い出しちゃわない? あれ。『吹雪の山荘もの』」
  ソファに沈み込んでいたアヤツジさんが、紙コップへオレンジジュースを注いでいたシマダ先輩に水を向けた。
 「晩夏っつーか、初秋だけどな、今」
  蓋をしめたペットボトルを冷蔵庫に戻しながら、おざなりにあげ足をとるシマダさん。
 「いやいや、こないだも知り合いに言われたよー。『ミス研の合宿って言ったら、やっぱ密室でデスゲームとかするの?』って」
 「たぶん言いたかったのは密室じゃなくてクローズド・サークルだよな」
  そうそう。先輩の指摘はもっともだ。
  合宿→デスゲームなんて連想が働く時点で、けっこうミス研向きの人材っぽいけど……。
  なんて一人合点をしていたら、同じく傍らで聞いていたウタノさんが口を開いた。
 「だいたいなんでクローズドサークルなんて作んなきゃいけないんですか。まとめて殺したいだけなら手の込んだお膳立てなんていらないし……」
  クローズドサークルの制作動機か。今の今まで考えたこともなかったな。
 「それはほら、あれじゃない? 逃げ場のない環境でひとりひとり殺していく方が精神的な苦痛が大きいとか」
 「あー、それはあるか」
  さらっとえげつないことを言いはじめる女史と、一応は腑に落ちた様子のウタノさん。
 「あとは……それこそデスゲームものだったらやっぱり、フィールドの制限とかあった方がゲーム性が明確になるよね」
  飲み干した紙コップをテーブルに置いて、考え込んでいたシマダさんが別の案を出す。
 「あ、それもあるでしょうね。でもやっぱり作品の外側にいる作者側の動機の方が強すぎるっていうか、クローズドサークルって要素そのものにはあんまり加点したくないところがあるなあ、おれは」
  ふたつの異なる見方を示されても、ウタノさんは依然納得がいかないみたいだ。
  唐突に現れた別の話題に、僕はふと引っかかる感じを覚えた。
 「えと」
  こちらに顔を向けたウタノ先輩を見ながら、少し緊張しながらも続ける。
 「作者側の動機って、具体的にはどういうことですか?」
 「ああ、そこは説明不足かも」
  よかった。どうやら的外れな疑問ではなかったみたいだ。
 「思うにクローズドサークルっていうのは大体の場合、ミステリを論理パズルとして組み上げるにあたっての、状況の限定を説明するエクスキューズ以上のものではないんじゃないかなあ」
 「被疑者を特定の何人かに絞り込み、捜査機関の介入を退け、推理にある程度の時間制限を設ける。そりゃあ、確かに都合のいい面ばかりではないけれど、これといった境界のない舞台を使うよりはずっと扱いやすくなる。さっきシマダさんが『ゲーム性』って言葉を出したけど、クローズドサークルっていうのは僕に言わせれば、パズル性を高めるためのギミックに過ぎない」
  それを言ったらおしまいなんじゃ……という言葉がせり上がってくるのをこらえながら、僕はふむふむと適宜相槌を打つ。
 「ウタノくんは自分でも書く人だから、なおさらそっちに目が行くって部分もあるのかな」
  耳を傾けていたシマダさんがやんわりと、若干ぎくしゃくとしはじめた流れの収拾を図った。
 「ぜんぜん意識してなかったですけど、まあそれはあるのかもしれませんね。ご都合展開って案外読む側よりも、書く側が気にしてるものなのかも」
 「おい! それこそ書き手によりけりだろ? 例えばさぁ……」
  突如割って入ったアユカワ先輩の、何人かの商業作家の名前を挙げての痛烈な批判が終息した頃には、その場にいる全員が前の話題を忘れてしまっていた。
 
  とりとめもない話を延々と続け、そのままの流れで「読書会」と銘打った雑談に移る。リビングルームの窓越しに見える晩夏の太陽は、もう山並みの際へと沈みかけていた。
 「じゃ、ぼちぼちはじめるか」
  シマダ先輩がひょいと立ち上がり、靴をひっかけて外へ出ていく。すっかりだらけきっていた部員たちも、それぞれの精神力に見合った分だけためらった後、観念してぽつりぽつりとリビングを離れだした。
  僕が中くらいの遅さで外に出ると、先輩たちはもうおおかたのセッティングを終えているようだった。
 「あ、キタヤマくん。中に置いてる紙皿とか取ってきてくれない?」
  僕に気がついたらしいアヤツジさんが声を上げる。
  沈みゆく夕日の最後の輝きが、おぼろな輪郭を優しく照らし出した。
 「あ、はい!」
  大義そうに出てきたアユカワさんと玄関ですれ違って、使い捨て食器の一式が入ったレジ袋を見つけて持って行く。
  テーブルの端に中身を積み上げながら、準備を進める先輩たちを見渡す。食べ物を前にしてがぜんやる気になった。と言うべきなのか、普段はダウナー気味な部員たちまでもがせっせと手を動かしていた。
  シマダさんが慣れた手付きで炭に火を移すと、すかさず肉が焼かれはじめる。
 「ヤマグチくん、ちょっとペース早くない?」
  しばらくもしないうちに数個は缶を空けてしまっている女史に、アユカワ先輩が気遣いの声をかける。
 「先輩に言われたくないですよ。それに今日はもう私の仕事、ぜーんぶ終わりましたから!」
  年上を含む一同のお守りは、確かになかなかにストレスフルだったことだろう。
  だからこの場はそっとしておこう……ということで、僕らはそれ以上なにも言わないことにした。
 
  片付けをあらかた終えて撤収に移る段になって、ふと今晩に予定されていたイベントを思い出す。
 「そういえば夜の上映会用に、一本映画を用意してきてるんでしたっけ。確かウタノさんのチョイスで」
  尋ねるとウタノさんはうなずいてくれたけど、シマダ先輩は別のことを考えていたようだった。
 「上映会もいいけど、その前に風呂かな。たぶん俺ら今めっちゃ煙臭いし」
 「全員煙かぶってるから平気じゃないですか?」
 「そういう問題ではない」
  コテージには立派な露天風呂が併設されていて、中からは内風呂を通って出ていくことができるのだった。
  完全に露天風呂の気分になってリビングに戻ると、ソファで寝落ちしているヤマグチさんがまっさきに目に入る。
  ほとんどの面倒事を一手にひきうけ、昼のあいだ誰よりもきびきびと動いていた今回の幹事は、今やアヤツジ先輩の太ももを枕に、弛緩しきった表情で寝息を立ていた。
 「もうちょいここで様子見とくから、みんなまとめて先入ってきたら?」
  アヤツジさんのありがたいお言葉に甘えて、僕らは意気揚々と風呂場へ向かった。
  ……そうやって男四人には狭すぎる脱衣所で、めいめいに服を脱ぐまでは良かったのだけど、浴室に入ったところで皆はようやく過ちに気がついた。
 「湯船の方がいくら大きくってもさ……」
 「内風呂の浴室って、もともと最初っから一人分のスペースしかないじゃん!」
  そんなのひとりくらい先に気がついとけよと心底思うけど、実際僕だって何も考えてなかったのだからしょうがない。
 「え? 何? おまえら、先に身体洗う派?」
  頭を抱えている僕たちを尻目に、いち早く外の湯船につかっているアユカワさんの一言。
 「おい、こっち来てみ、星がすげえ見えんの」
  これしきの誤算には微塵も動じず、悠々と露天を楽しむ姿は、謎の頼もしさをすら感じさせる。
 「まあでも、順々に使うしかない。ですよね……」
  ため息をもらすウタノさんの言う通りで、今更脱衣所に戻るのもあほらしかった。
  騒ぐほどのことでもないよな、と思い直すことにして、回ってきたシャワーを使って外へ出る。
 「おお……」
  湯船の縁に背中をあずけると、頭上の夜空を見渡すのも楽だった。文字通りミルクを流したかのように広がる│天の川〈ミルキーウェイ〉を目で追うと、天頂に貼りついた夏の大三角にたどりつく。空を一面に覆い尽くして広がる星明かりというのを、このとき僕ははじめて見た。
  湯船の縁に背中をあずけると、頭上の夜空を見渡すのも楽だった。文字通りミルクを流したかのように広がる&ruby(ミルキーウェイ){天の川};を目で追うと、天頂に貼りついた夏の大三角にたどりつく。空を一面に覆い尽くして広がる星明かりというのを、このとき僕ははじめて見た。
 「……でさ、この映画、原作が例の小説なんだよね」
 「ええ、あのトリックって文章以外ではやれないやつなんじゃ」
  ぞろぞろ風呂から上がってくると、僕たちはさっそく上映会の支度をはじめた。
 「いやいや、そこが監督の腕の見せ所ってわけよ……ああ、ネタバレになるから何も言えないのが悔しい!」
  得意げに焦らすようなことを言いながら、ディスクをプレイヤーへとセットするウタノさん。
 「配信でも観られるんだけど、オーディオコメンタリーもぜひ聞いてほしくてさ」
 「おお、オッタクゥ~~」
 「そんなに観る前からハードル上げちゃっていいの?」
 「や、大丈夫です。これは太鼓判押します」
  先輩たちの茶化しにも動じず、ウタノさんは自信満々でメニュー画面を呼び出す。
  あのうるさ方のウタノさんがこれだけ推すんだから、これはもう期待せざるを得ないなぁ。
  なかなか上がって来ないアヤツジさんを待ちながら、思いのほか長く続いたミステリ映画談義は、しだいにはジャンルを無視しはじめて大いに盛り上がった。
 「おまた」
  延々と与太話が続くリビングに、アヤツジさんがすっと姿をあらわす。
  ……お風呂上がりの女の人って、どうしてこんなにきれいなんだろう?
  視線を意識されそうになって焦るくらいには、僕はしばらくの間我を忘れていた。
  僕らのものと同じ男女兼用のパジャマは、アヤツジさんが着るとまったくの別物に見えた。湯気とともに香りを運ぶシャンプーやボディソープだって、僕らが使ったのとおんなじなはずなのに。
 「あ、そういえば女史は?」
  今更のようにウタノさんがたずねる。
 「寝かしといたよ。さっき、君らが風呂入ってる間に」
 「よーし。じゃ、はじめますよ」
  数十回目のループに入ろうとしていたメニュー画面にリモコンを向け、ウタノ先輩は再生ボタンを押す。
 
  ……あれ、どこだ。ここ。
  暗闇と、日に灼けたい草の匂い。視線の高さがいつもより低い……。
  そうか、大学のミス研で合宿に来てて。
  そのままのっそりと身体を起こし、寝転がる先輩たちを踏まないように歩く。
  トイレに行きたくて目が覚めたのだった。
  一階へと続く階段を、一段一段慎重に降りる。照明の落とされたリビングルームの、フローリングの床が鈍く非常灯の光を返した。
  用を足してしまうと人心地ついて、のんびりと手を洗うことができた。洗面所の壁に開いた小窓の外で、外灯の光がゆらめいていた。
  部屋に戻ろうときびすを返し、電気を消してリビングへ出ようというときに、僕はすこし先の物音に気がついた。
  女子部屋の扉が開く音だ。
  束の間凍りついたように洗面所に立ちつくし、トイレだろうか? とぼんやり思うが、足音はこっちへ向かわないまま、真っ直ぐに玄関の方へ消える。
  妙だ。
  酔いが覚めないままあらぬ方向へ向かってるのか、それとも夜の散歩のつもりなのか。なんにしても変わった行動には違いない。にわかに沸き起こりはじめた好奇心の従うままに、洗面所の窓をすこし開けてみる。
  外壁を羽虫の飛び交う外灯の下に、見慣れた男性の人影が見えた。表情まではうかがえないものの、紛れもなくそこにいたのはシマダさんだった。
  玄関のドアの音が小さく響いて、そこへ足音の主が現れる。全体にすらりとした印象を与える体躯。右手に握られた懐中電灯。セミロングの髪が顔に落とす影までが、覗視する僕にもはっきりと見える。
  やはりこちらも見紛うことのない、アヤツジ先輩の姿がそこにあった。
  ふたりがゆったりと手をつないで、歩調を揃えて歩きだしたのを見て、僕にだっておおむね察しはついた。その場はそれでなるほどと頷き、ひっそりと部屋に戻ってしまえばよかったのだ。
  けれどもこれといった決断もないままに、どういうわけだか靴まで履いて、僕は遠ざかったふたりを追いかけはじめていた。もしかしたら確証が欲しいのかもと、のぼせきった頭のまだ働いている部分、既に主導権を失った片隅で考えた。あまりにもありていでわかりきった、つまらない答えを僕は求めている。
  足元の砂利が足音を立てて、気取られやしないかと心配するが、あちらの懐中電灯の明かりの方が目立つ。おかげで僕は十分な距離をとりながら、ふたりを見失わずに追いかけることができた。
  昼間に来た道を途中から逸れて、ふたりは先を進んでいく。川のほとりにたどりつくと、さらに上流の方へと折れる。時折ぽつぽつと交わされる言葉が、ずっとうしろを歩く僕にまで届くことはない。
 
    ***
 
  コテージに戻って布団に入ったものの、満足に眠ることはできなかった。悄然としたまま夜明けを迎えて、僕は我慢がならなくなってまた外へ出た。
  朝の日差しに目をしょぼしょぼさせながら、漫然と昨晩のルートを辿る。
  ぼんやりと歩き続けるうちに、僕は昨晩気がつくことのなかったあるものに目を留めた。
  眩いばかりの朝	日。
  眩いばかりの朝日。
  夜闇が覆い隠していた一切の物事を、容赦なくずけずけと暴き出すような……。
 
    ***
 
 「ありゃ、早いね」
 「どこ行ってたの?」
  ふたたび男部屋へと帰ってきたときには、アユカワ先輩とウタノさんはもう起きていた。
 「あ、いえ……」
  寝息を立てているシマダさんに視線を遣り、ショルダーバッグを畳へ下ろしながら、必死に言い訳を探して口にする。
 「ちょっと、朝の散歩に」
  ばらばらに朝食をとって荷造りを済ませても、チェックアウトまではまだ余裕があった。あくびをしながらのんびり駄弁ったり、辺りを見てくると言っては出入りしたり、手持ち無沙汰な一同は思い思いに時間を潰す。
  そんな中で何も言わずに出ていったウタノさんが帰ってきたのは、出発まで残すところ数十分ほど、他の全員がリビングに集まったタイミングだった。
 「あれ? ウタノ、めっちゃ濡れてない?」
  この日一歩も外に出ていなかったアユカワ先輩が、真っ先にウタノさんの異変に気づく。
 「昨日使ったコンロとか網とか洗い直してたんすけど、ホースの勢いがちょっとすごすぎて、思いきし水被っちゃいました……」
 「何やってんだよもう」
 「タオルあるけど使う?」
 「あ、ありがとうございます」
  けなされたり気遣われたりしながら、ウタノさんはゴシゴシと濡れた足を拭く。弛緩した空気に覆われていたリビングが、もう出発が近いこともあって俄然慌ただしくなった。忘れ物がないかを確認し直し、荷物をすべて背負ってしまって、コテージを後にするまではもうあっという間だった。
  飛び石を渡って、山道に出て、事務所へ鍵を返しに行った女史を待って……。
  あまりにもスムーズすぎる一連の流れに、強烈な違和感が僕を襲う。
  おかしい。
  こんなはずはない。
  こんなはずはないんだけど、それよりも……。
  山道を下り、バスに乗り込んで、麓の駅を目指すあいだじゅう、落ち着かない気持ちは僕を苛み続けた。
  この中の誰かが、僕のやったことに気がついた。それでいて今は素知らぬ顔をして、他のみんなと談笑に興じている。
  長い待ち時間のあとやってきた各停の、がら空きのクロスシートに向かい合って座る。アユカワ先輩は寝たりなかったのかぐったりしていて、対照的に女史は元気いっぱい。向かいの席にはウタノさんが座っていて、いつものごとくスマホをいじっている。
  乗降客のいない駅をいくつも過ぎるうち、はしゃいでいた面々もだんだんと口数を減らし、ひとりまたひとりと眠りに落ちはじめる。僕はといえば到底寝る気にはなれず、手持ちぶさたのまま変化のない車窓を眺めていた。
  いびきを立てはじめたシマダ先輩の頭が、勢いよくがくんと動いたのと同時に、LINEの通知がスマホを揺らす。
  びくり、と体が震えるのを感じた。右手がゆっくりとポケットへ伸び、スマホを掴み出してロックを解除する。
 《ちょっと話がある》
 《ひとに聞かれたくないから》
 《車両の連結部まで行こう》
  来た。
  送り主は予想通り、目の前に座っているウタノさん。
 
  車両に乗客は数えるほどしかいなかった。おもむろに席を立ったウタノさんに、少し遅れて僕が続く。
  薄暗く狭い連結部。いまだ一言もことばを発さないまま、僕らふたりはそこで向かい合った。
  前触れなく列車がトンネルへと入る。鉄の箱と山塊に二重に閉じ込められて、僕はどうしようもなく息苦しさを覚えた。
  僕の焦れたような視線に促されてか、ウタノさんはやがて口を開いた。
 「最初に言っておきたいんだけど、きみを糾弾しようとなんて思っちゃいない。ただきみの方からしてみれば、この宙ぶらりんな状態が続くことの方が耐え難いんじゃないかと思ってね」
  そうだよな。
  見抜かれてたんだ。全部。
  鈍い痛みが胸を突いて、だけどウタノさんはまだ話している。先輩が何を言っているのかを、ここで漏らさず聞いておかないと。
 「……それにきみもミス研会員なら、『解決編』ってのを一応は聞いておきたいだろう。どこで『犯行』が露見したのかを、自分なりにあれこれ考えてたんじゃないかな」
  そこまで話し終えて一拍。
  僕の沈黙から、ウタノさんは肯定の意思を察したようだった。
 「さて……」
  何から話をはじめたものか、少しの間決めかねた様子を見せて、ウタノさんは推理を語りはじめた。
 「すべてを明らかにするためには、あまりにも時間が足りなかった。だから今のおれの立場から、確かなこととして言えることはそう多くない」
 「想像はついてるだろうけど、おれがやったことはなんでもない。ただ崩れていた飛び石を、渡れるように組み直しただけだ」
 「その時点では、どうしてきみがあんなことをしたのかなんてわからなかった。ただなんとなく嫌な予感がして、行ってみると異変が起こっていたから、できる範囲で原状回復を試みただけのことだ」
  僕が飛び石を崩していたことを、ウタノさんはやはり見逃してはいなかったのだ。そして限られた時間を使って、他の誰にも知られずにそれをもみ消した。
 「動機は不明だったと言っても、ちょっと落ち着いて整理してみればいい話だ。ここまでの道で考えているうちに、なんとなくこうじゃないかって予想は浮かんできたよ」
 「昨日クローズドサークルの話をしたのは覚えてるよね。あそこでは誰も挙げてなかったけど、『クローズドサークルの制作動機』には、ここでもう一つ応用例をつけ加えるべきだと思うんだ」
 「まあ、そう呼んでしまっていいのかには議論があるだろうけどね、だって今回の場合、クローズドサークルははじめっから成立しえないんだから。あそこから少し上流に歩いて、遠回りにはなるけど橋を使えば、誰だって簡単に山道へ出ることができた」
 「だから『犯人』の動機として、僕たちをあそこへ閉じ込めた上でどうこうしようというのは考えられない。おそらくは外部への通路の遮断を介して、会員たちをある場所へ誘導することにこそ、きみのねらいはあったんじゃないか」
  クローズドサークルものの導入部分、外との出入り口が寸断されていることが明らかになってゆくパートで、次に登場人物がやることはなんだろうか。
 「決まってるよね、残された脱出手段を探ることだ。この場合はだから一番手っ取り早い方法は、上流の橋を目指して歩くことになる」
 「うん。そこまではいい。そこまではいいんだけど……結局のところきみがどうして、おれたちにそんなことをさせたがっていたのかって部分にだけは、今ひとつ筋の良い切り口を見つけられなかった。だからさ」
  有無を言わせない追及の視線が、ずいと持ち上げられて僕を見据える。
 「聞かせてくれるかな。きみのその、本当の動機というのを」
  そうして僕は話すしかなかった。夜にシマダさんがコテージを出ていくのを見かけたこと、それからずっと先のことまでも。
 「……朝になって、川のほとりに足跡が残ってることに気がついたんです。山道に戻るコースからは上流の側に、シマダ先輩とアヤツジ先輩のハイキングシューズの跡が」
  コテージの周囲は砂利敷だったから、足跡がはっきりと残ることはない。けれど昨日の午前中に雨が降って、川沿いの未舗装道はぬかるんでいた。
  他に踏みしめた者がいない中で、大小二種類の足跡は嫌でも目立つ。帰りのルートが変更され、上流の橋へと向かう道中で、僕ら全員がそれを目撃すれば、ふたりの関係は公にならざるを得ない。
 「そうやって会内に気まずい雰囲気を作って、ちょっとでも八つ当たりしてやろうってつもりだったわけだ」
  口に出されるとあらためて、僕の犯行と動機は稚拙に思えた。企みの全容を丸裸にされ、他人の口から卑屈さを暴かれるのには、どこか倒錯した解放感が伴い、当然の報いを今受けているのだと、むしろ安堵する部分すらあった。
 「飛び石が流されてしまうことくらい、自然に起こったとしてもまあ不思議でない。誰が仕掛けたのか、そもそも誰の仕業でもないのかも、はっきりしないというのがよかったんだろうね」
  ちょっとあんまりにも突発的な思いつきで、目論見通りに進んでたとして後々露見しそうだけども。結びにそういった内容をつけ足すウタノさんは苦笑気味で、ほんの少し悲しそうにも見えた。
  いやもう、まったくもってその通りです。僕からつけ足すべきことなんて何も……。
  ああ、そうだ。
 「ひとつだけいいですか」
  残された疑問点に思い至って、やけくその境地で質問してみる。
 「どうぞ」
 「先輩はさっき『嫌な予感がした』んだって言いました。それって具体的には僕が朝、部屋に戻ってきたときのことですよね」
 「そうだよ」
 「あのとき、部屋にはアユカワさんも起きていた。なのに変だと思ったのはウタノさんだけでした。これって単なる偶然なんでしょうか?」
 「ああ、それを忘れてた」
  本当になんでもないことなんだ、と前置きしてウタノさんは続ける。
 「きみが男部屋に戻ってきたあのとき、下げてたショルダーバッグの方に目が行ってさ」
  ああ、そんなことで!
 「確か昨日の朝のことだけど、駅でそれについて少し話をしたよね。他の人はともかくおれだけは、きみのショルダーバッグの中身がバスタオルであることを知っていた。そしてあのときどういうわけか、それが入れ替わってないんじゃないかと思ったんだ」
 「何か濡れることをしたんだな。と思ったよ。朝風呂だろうとふつうは考える。だけどきみは散歩に行ったんだと言うじゃないか」
 「歩きまわってかいた汗を拭くためだろうか? だけど汗を拭くのにバスタオルまで持ち出す人がいるかな? ……そうなったらもう、嫌な予感がしたってしょうがないだろう?」
  あのあたりで濡れる可能性がある場所といえばもう川しかなかった。おれの方はタオルを持ち出す口実がなくて、それで少々困ったんだとウタノさんは言う。
 「飛び石を動かそうとすればどうしても、一度は川に入る必要がある。ズボンくらいは脱ぐにしたって、体が濡れることは避けられない。時間もなくて少し困ったよ。そういうわけで言い訳を考えた」
 「とりわけおれが推理能力にすぐれていたというわけじゃあない。ただ単にきみのことについてほんの少し、他の会員たちよりよく知る機会に恵まれてたってだけのことだ」
  トンネルの多い路線を抜けて、列車は水田の中を走っていた。僕たちはこの二日間を今ふたたびくぐり抜けて、そうしてここへと帰ってきたんだと僕は思った。
  僕の犯行を丁寧に腑分けし終えて、ウタノさんはそれ以上の話題を失ったようだった。
  これ以上ないくらいに居心地の悪い沈黙が続き、ふたりともがそれに耐えきれなくなったころ、ウタノさんがぽつんと言葉を漏らした。
 
 「なあキタヤマくん、きみ、ミス研をやめようと思ってるだろ」
 
  さっきまでのように目を見据えることもしないで、ずいぶんおずおずとした口調で先輩は話した。僕の視線は行き場を失ったまま、薄汚れたはめ殺しのガラスの上を滑った。
 「だけどこんなのはほんとうにしょうもない、どんなふうに起こったっておかしくなかった『事件』だったんじゃないかって思うんだ」
  言っている意味がさっぱりわからなくて、遠慮しながらも戸惑いの視線を向けると、ウタノさんは焦り気味に言葉を補おうとする。
 「や、というのはね、誰がやっててもおかしくなかったっていうか、さ。実際おれも……」
 「おれもアヤツジさんに憧れてたんだよ」
  なんだこの人は。
  そんなことが僕を引き止めるきっかけになるとでも、本当にこれっぽちでも思ったのだろうか?
  真顔のウタノさんがあんまりにもおかしくて、思わず状況を忘れて笑いそうになる。
  車窓に映る幾筋もの雲が、次の季節の訪れを告げていた。
  夏が終わる。
  間の抜けた顔をしてお互いを眺めながら、僕らは快走を続ける列車の中に立ちつくしていた。
 
 〈了〉