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京都工芸繊維大学 文藝部

Top / 活動 / 霧雨 / vol.2 / or
Last-modified: 2007-06-21 (木) 19:58:24 (6126d)
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or ――


 いるものと、いらないもの。
「これはいるの?」押入れをほうから晶の声がした。「ていうか、これなに?」
 そちらに振り返ると、ぼろぼろになった緑色のビニールを掴んだ彼女が、眉間に皺を寄せていた。
「ああ、それは」記憶の箪笥を引っ掻き回す。「薬局の、おまけの風船だ」
 両手でビニールを広げると、デフォルメされた蛙が寂しそうに笑っていた。
「もういらないよね?」と言いながらも、すでにゴミ袋の中に入れられてしまっているので、こちらとしては手の出しようがない。
 小学生のときは、わざわざあの風船が欲しくて、たいした怪我でもないのに、少し遠くの薬局まで絆創膏を買いに走ったものだったのだが。
 片づけが趣味という晶を自宅に招いたのが、そもそもの発端だった。彼女は僕の部屋を見るなり黙ったまま出て行って、しばらくすると掃除用具一式を近くのホームセンターで手に入れてきて、急遽、僕の部屋の大掃除が敢行されることになった。
 気は進まなかったけれど、これを機に一念発起して、懐かしい代物を捨てるのも悪くないか、と自分を無理やり納得させることにした。確かにこの部屋は、誰が見ても改善の余地しか目に付かないし、はっきり言って僕は物を捨てるのが苦手だ。
 彼女は押入れを、僕は本棚とCDラックを分担して整理することにした。
 アルファベッド順にCDのタイトルを揃えていると、また晶が呼んだ。
「これは、いる?」
 彼女が掴んでいたのは、茶色の毛糸で編まれた、一目で素人の作だとわかる腹巻だった。
「……懐かしいな」
 それを受け取って、驚くほど感傷的になっている自分がいた。
「どうしたの?」晶が心配そうに、忙しなく動かしていた手を止めて、僕のところに来た。「それって手作りだよね」
「そう」と頷いただけでは不満そうに睨んでくるので、包み隠さずに教える。「中学生のとき、誕生日にもらったんだ」
 十一月二十三日。秋でもなく冬でもなく、なんの記念日でもなく、語呂合わせにもならない、僕の誕生日。
「…………女の子から?」
「うん。でも、これをもらったあとすぐに、彼女は転校したから、名前は覚えてないけど」
 肯定する僕の言葉に、晶は複雑な笑みを浮かべて、その埃が染み込んでしまっているような腹巻を少し恨めしそうにチラッと見ていた。
「なんで腹巻なのかな」
「マフラーを編んでたらしいんだけど、長くなりすぎたからって切り取ったら、ちょうど腹巻の長さになったんだって」
 あの頃の思い出は、いまも鮮烈な色彩を放ったまま僕の頭の引き出しに残っている。けれど、それは決して動かない写真のようなものでしかない。転がるサイコロの姿が印象に残らないように、走ったり怒ったり、笑ったりしているところがひどく曖昧にしか記憶されていない。
「あれ? マフラーはどうしたの?」
「マフラーは別の人。僕はおまけなんだ」ただ、誕生日が一緒だったから、だそうだ。
 さっきのおまけの蛙の風船と違って、これは僕が主役の話ではない。
 昔の出来事に耽っていると、晶が僕の肩を叩いた。
「元気出しなって。あたしがいるじゃない」そして、押入れの中に戻っていった。「それの対処は任せるね」
「そうだね。僕には、君がいることだし」
 今度は何もすがることなく、僕はそれをゴミ袋の中に入れる。


   *   *   *   *   *


 校舎の陰に隠れていた裕子は、戻ってきたわたしに向かって、情けないとため息をついた。「なんで本当のこと言わないのよ」
 言えるわけない。本当は冬になる前には完成させたかったマフラーが、時間が足りなくなって腹巻になりましたなんて。「そんなの、恥ずかしいよ」
「バカだねぇ」と天を仰ぐ裕子と一緒に、オレンジ色に染まった校門をくぐる。「腹巻送るほうがおかしいって。しかも、誕生日が同じっていうのも、普通に考えたら違和感あるし」
「それは、そうだけど」多分、いまのわたしの頬は、夕日に染まったあの雲よりも赤くなっていることだろう。
 肩を落として、とぼとぼと歩くわたしが心配になったのか、先を行く裕子がくるっと振り返って笑った。「元気だしなって。わたしがいるじゃないか」
 その無邪気な笑顔を見て、わたしもあの時に、彼に笑顔を作ってあげたかったな、と思った。
「でも、あれで良かったの?」裕子が遠くの鰯雲を眺めながら呟いた。「もうすぐ転校するんでしょ?」
「うん。いいの、これで。別れるとき、余計に悲しくなるくらいなら」
 わたしは、ショーケースのガラス越しに眺める世界に憧れを抱くのだ。欲しいものを手に入れることで、満足するタイプなのだ。手に入った途端に興味を失い、冷めてしまう性格なのだ。
 と、無理やりに自分自身を納得させる。
 十一月二十三日。秋でもなくて、冬でもなくて、なにかの記念日でもないけれど、とても大事な彼の誕生日。
 妙にしんみりした空気に耐えられなくなった裕子が、田圃の奥に走るできたばかりの新幹線の線路に向かって、意味のない言葉を叫んだ。それがとても爽快で、わたしもならって、言葉にならないこの感情を声にして外に出した。
 二人して叫び疲れた頃に、裕子がわたしの背中に乗っかってきた。
「何か食べて帰ろう。今日はわたしが奢ってあげるからさ」
 永遠を、願えば願うほどに、空しくなって涙がこみあげてくるけれど、ここにある今を、いつまでも胸に抱いていたいと思うこの気持ちが、彼の中にもあればいいなと、そう思った。
 色艶やかな夕日に、わたしはそう祈っていたのだ。

(了)



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